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山上浩嗣「寝るまえ5分のパスカル『パンセ』入門」

第3回 夢とうつつ

 パスカルは、「いま自分が夢を見ているわけではない」という命題を、理性によって証明できるわけではないが、心によって確実なものとして直感できる対象と位置づけている(S142-L110-B282)。彼によれば、夢とうつつの判別は不可能だというピュロン派の主張は、本心に反する誇張的懐疑にすぎない(S164-L131-B434)。ここには、『省察』第1部にて、「覚醒と眠りとを明確に区別するための決定的な手がかりも、十分に確実な標識も存在しない」と語るデカルトへの批判も込められている。

 もっとも、パスカルは他方で、懐疑主義的立場を正当化しうる経験も記している。

 

 「いま自分が目覚めているのか眠っているのかについては、誰も──信仰によらなければ──確証をもてない。人は眠っている間でも、本当に目覚めているときと同じくらいに強く、目覚めていると確信するものだからだ。眠っている間も、空間、形、運動を見ていると信じるし、時間が流れるのを感じるし、時間を計るし、目覚めているときと同じように行動する。そういうわけで、生涯の半分は眠りのうちに過ぎるのである以上、[…] われわれはいっさい真の観念を保持していないことになる。睡眠時のわれわれの感覚はすべて幻想だからだ」(S164-L131-B434)

 

 この一節は、パスカルの仮想論敵のひとつであるピュロン派の主張を代弁している箇所にあたるので、彼は最終的にこのような考えに与(くみ)するわけではないはずだ。「信仰によらなければ」とあるのがその証拠である。正しい信者であれば、神の助力を得て、夢と現実の区別のような自然的認識は確実に保持していると言いたいのである。だが、上のきわめて具体的な叙述からすると、パスカルも、夢のなかでも自分は目覚めていることを疑わないという事実自体は、否定しようがないと考えているように思われる。これに続く次の一文は、彼の本心ではないだろうか。

 

 「では、誰が次のことを否定できるだろうか。もう半分の目覚めていると考えられる生涯は、実はさきほどの睡眠と少しばかりちがった睡眠であって、われわれが眠っているつもりのときには、その第二の睡眠から目覚めているのだ、ということを」(S164-L131-B434)

 

 覚醒は第二の睡眠かもしれず、本来の睡眠は第二の睡眠である覚醒からの覚醒かもしれないという。われわれはいかなるときも夢を見ているようなものなのだ。次の一文は、パスカル自身が不要と判断し、原稿で斜線によって抹消した箇所の一部だが、読めば誰もがうなずくのではないか。

 

 「夢の上に夢を重ね、夢を見ている夢を見ることがしばしばあるように、自分が目覚めていると考えている半分の生涯もまた、夢にすぎないのかもしれない」(S164-L131-B434)。

 

 夢とうつつとは截然と区別できないという命題は、実のところ、必ずしもパスカルが反駁すべき対象ではなかったのではないだろうか。覚醒時の感覚も睡眠時の感覚と同じように曖昧なもので、錯誤にみちたものでしかないということ、人生は夢と同じようにはかないものであるということは、人間の認識の不確実さ、人間の生の空しさという『パンセ』の中心的な主題に、きわめてよく適合するからだ。次の断章で彼は、現実と夢の差を、一貫性の大小という一点にしか見ていない。

 

 「もしある職人が、毎晩必ず十二時間続けて自分が王である夢を見るとするなら、彼は、毎晩十二時間続けて職人である夢を見る王とほとんど同じくらい幸せだろうと、私は思う。[…] だが、夢はそれぞれに異なっていて、ひとつの夢もさまざまに変化するので、夢で見るものが与える影響は、覚めて見るものとくらべて、ずっと小さい。覚めて目にするものには連続性があるからだ。もっとも、その連続性も、まったく変化しないと言えるほど恒常的なものではない。その変化は夢のなかよりは穏やかだというだけのことだ。ただし、旅をするときなどは例外的に変化に富んでいる。それだから、旅に出ると人は、まるで夢のようだとつぶやくのである。まことに、人生は、わずかにまとまりのある夢にほかならない」(S653-L803-B386)

 

 最後の一文の原文は、 « la vie est un songe, un peu moins inconstant » と、アレクサンドラン(十二音節詩句)をなしており、音楽的にも印象深い。

 このパスカルの発想のもとには、またしてもモンテーニュの文章がある。モンテーニュもまた、次の忘れがたい一文を記していた。「われわれは眠りつつ覚め、覚めつつ眠っている」(『エセー』第二巻、第12章)。原文は、« Nous veillons dormant, veillant dormons »。veiller(覚める)とdormir(眠る)という二つの動詞の順序を変えずに、わずかに語尾の異なる活用形(-ons と -ant)を交代させながら反復している。この一文自体が夢とうつつのあわいで発せられているように思える(J・スタロバンスキー『モンテーニュは動く』早水洋太郎訳、みすず書房、1993年、146頁を参照)。

 「邯鄲(かんたん)の夢」や「胡蝶の夢」の故事をもちだすまでもなく、人生を夢とみなす発想は古今東西にあまねく見られる。パスカルの同時代では、カルデロンというスペインの劇作家が、ずばり『人生は夢』と題する作品を書いている(1635年)。パスカルは、「夢とうつつとは区別できない」というピュロン派の主張を批判しながらも、この古来の自然な実感に共感を抱かずにはいられなかったのである。

 

「眠りは死の象徴だとあなたは言うが、私はむしろ、眠りは人生の象徴だと言おう」(S774-L欠-B欠)

 

*『パンセ』からの引用箇所は、セリエ版 [S]、ラフュマ版 [L]、ブランシュヴィック版 [B] の断章番号によって記す。

 

◇初出=『ふらんす』2017年6月号

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著者略歴

  1. 山上浩嗣(やまじょう・ひろつぐ)

    大阪大学教授。著書『パスカルと身体の生』『パスカル「パンセ」を楽しむ』

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