第9回 正義の不在
今回と次回で、パスカルの政治思想を概観してみよう。彼の生涯(1623-62年)の前半は、三十年戦争(1618-48年)という大規模な国際戦争と重なる。宰相リシュリューは、宗教の大義よりも国家の利益を重視し、フランスと同じカトリックのハプスブルク家に対抗するためにプロテスタント諸国と結託する。フランスは勝利を収め、アルザスの領有権を獲得する。そして、パスカルの青年期には、フロンドの乱(1648-53年)をはじめとする、政府に対する激しい抵抗運動がくり返し発生する。それらが鎮圧されるたびに中央集権化が進展し、絶対王政の基盤が強化されていく。リシュリューの後継の宰相マザランが死に、ルイ14世が親政を開始したのは、パスカルの死の前年である。──このような力と権謀術数による自国の覇権の進展を目にして、パスカルは国家の統治についてどのような考えを抱いたのだろうか。
まず、パスカルによれば、人間は普遍的な正義を知ることができない。それゆえ、いかなる国家でも正義は統治の原則とはなりえない。プラトンが理想国家の統治を真の正義を見つめることのできる「愛知者(ピロソポス)」にゆだねたのと、対照的である。
「人間は、みずから統治すべき世界のしくみを、いったい何を基盤にして築き上げようとするのか。各個人の気まぐれだろうか。とんでもない! では、正義だろうか。いや、人間はそんなものを知らない。たしかなのは、もし知っていたら、人間界のすべての原則のなかで最も普遍的な次の原則を打ち立てはしなかっただろうということだ。すなわち、個々人はその国の習慣に従うべし、との原則である」(S94-L60-B294、強調引用者)
各地の習慣が、正義に代わる統治の基盤となっている。その証拠に、法律は場所によって異なるし、時間によっても変化する。習慣には本来、正義の代わりとなるいかなる資格もない。習慣はときに、「盗み、近親相姦、子殺し、親殺し」さえも「有徳な行為」とみなすことがあるからだ(S94-L60-B294)。それでも習慣が法として通用するのは、それがすでに受け入れられているからにほかならない。法は正しいから守られるのではなく、守られることによって正しいとみなされる。
「習慣は、それが受け入れられているという唯一の理由によって、公正さのすべてを作り出す。これがその権威の神秘的な基盤である。権威を起源にまでさかのぼってみれば、それは消え去ってしまう。誤りを修正する法というものほど怪しげなものはない。法が正しいがゆえに従っているという者は、法の本質にではなく、自分が想像する正義に従っているのだ」(S94-L60-B294)
法の通用する期間が長ければ長いほど、民衆はその権威への信頼を高めていく。政治は、人間の正義に対する無知と、法が虚構であることについての無知という、二つの無知によって機能している。国家の秩序を支えているのは、民衆の無知である。
国家の起源は、ありていに言えば、強者による弱者の利益の横領である(Cf. S668-L828-B304)。為政者は国家を平和に保つために、その事実を知らせてはならない。真実を知れば、民衆は体制の転覆を求めて反逆するだろうからだ。
「民衆に横領の事実を知られてはならない。それはかつて理由なく導入されたが、合理的なものになったのである。横領をすぐに終わらせたくないのなら、それが正統で、永続的なものだと信じさせることだ。そして、その起源を隠蔽することだ」(S94-L60-B294)
同国人同士が殺し合うフロンドの乱を目の当たりにしたパスカルにとって、この世の最大の不幸は内戦であり、いかなる犠牲を払ってでも維持すべき最高善は国内の平和である。そのために彼は、真実の隠蔽のほかに、力による支配をも許容する。
「財産の平等が正しいのは当然のことである。だが、正義に従うことを強制することができないがゆえに、力に従うことを正義とした。正義を力となすことができないがゆえに、力を正義となした。そうして、正義と力が合わさって、最高善である平和が生じるようにしたのである」(S116-L81-B299)
このように、為政者の義務は、欺瞞と物理的な力に訴えかけてでも、現今の国内の体制を維持することである。現今の体制が善だからではない。そもそもこの世に真の正義などないのだから、同胞同士の争いの末に仮に別の体制を実現したとしても、それも不完全なものにとどまり、今よりもましになるとはかぎらないからである。
「悪のうちで最大のものは内戦である。[…] 生来の権利によって後継ぎとなるひとりの愚か者がもたらす恐れのある害悪など、それにくらべれば大したことはないし、確実なものでもない」(S128-L94-B313)
無知で純朴な「民衆」は、権力が正統であると錯覚し、為政者に畏敬のまなざしを注いで服従する。「未熟な知者」は、民衆の誤りを告発し、真理と正義を標榜して権力に立ち向かうが、それによって平和を乱し自滅する。真の「知者」は、民衆の倒錯を知りながら、その服従の姿勢を評価する(S124-L90-B337)。パスカルは、そのような「知者」の慎重な判断を、「裏の考え」と呼んで尊重するのである。
「裏の考えをもち、それをもってすべてを判断し、それでいて民衆と同じように語らなければならない」(S125-L91-B336)
『パンセ』において、政治はあくまでも国内の秩序の維持を目的とする手段である。それは、為政者がおのれの権威の正当性を力と欺瞞によって演出し、臣民がだまされたふりをすることによって、最大の効果を発揮する。為政者も臣民も、国家という虚構空間で、それぞれの役を演じなければならないのである。
◇初出=『ふらんす』2017年12月号
*『パンセ』からの引用箇所は、セリエ版[S]、ラフュマ版[L]、ブランシュヴィック版[B] の断章番号によって記す。