サーデク・ヘダーヤトのパリ、ブーヴィエのテヘラン、そしてイランという心の傷 中村菜穂
バナー写真 モンソー公園のアヴニュー・フェルドウスィー(著者撮影)
パリには美しい公園がいくつもあるが、その一つ、セーヌ川の北西に位置する8区のモンソー公園にペルシア詩人フェルドウスィーの名を冠した通りがあるといえば、驚かれるかもしれない。その名もアヴニュー・フェルドウスィー。公園を南北に貫く広々した通りだが、散歩やランニングでここを通る人たちが、この名前をどのくらい知っているのかはわからない。西暦11世紀、イランの民族叙事詩『王書(シャー・ナーメ)』をまとめあげた詩人である。『王書』は、イスラーム以前に遡るイランの神話・伝説を集成したペルシア語の古典作品であり、イランの人々の精神的支柱にもなってきた。
モンソー公園の風景(著者撮影)
Wikipediaによれば、通りの命名は1935年。イランが対外的な国号を、「ペルシア」から「アーリア人の土地」を意味する「イラン」に改めた頃である。その前年には、西洋化・近代化を進めるレザー・シャーのもとで、フェルドウスィー生誕1千年記念祭がイランで執り行われ、ヨーロッパの名だたる東洋学者たちが彼の地に招待された。ペルシア語の古典文学は、11世紀頃から15世紀頃に黄金期を迎えたとされているが、およそ17世紀以降、翻訳を介してヨーロッパの文学者たちに知られるようになった。加えて「冒険商人」シャルダンのような、現地へ赴いた人物たちの旅行記も手伝って、異国の地ペルシアのイメージはヨーロッパに広まっていった。抒情詩人ハーフェズに霊感を受けたというゲーテの『西東詩集』も有名だが、19世紀には、ヴィクトル・ユゴーがこのペルシアの大詩人フェルドウスィーに『諸世紀の伝説』のなかで架空の面会を果たしている 。
フランスの文学者たちにとって、ペルシアは長らく幻想の地であったが、他方で、20世紀のイランの文学者たちにとっても、パリは憧れの芸術の都だった。1920年代後半、ここに一人の文学青年がイランから留学生としてやってきた。鋭い光を放つ大きな眼、青ざめた顔をしていたであろう長身の青年は、ヨーロッパで土木工学を学ぶことが課せられていたが、本人は文学志望で、そのために周囲をも悩ませたらしい。後に近代文学の巨匠と称せられるサーデク・ヘダーヤトが、留学先ベルギーで最初に書いたのは「死」と題する散文であった。その後も、やがて1951年にパリで自殺するそのときまで、死の想念が彼の脳裏を去ることはなかったようだ。
1930年に帰国したヘダーヤトは、ペルシア語で短編小説を次々に刊行し、近代小説の歴史がまだ浅かった、イランの文学に新たな境地を切り拓いた。ヘダーヤト以前に小説を書いた作家がいないわけではなかった。だが彼こそはヨーロッパ文学の熱心な読者であり書き手として、その真髄を学んだ作家であり、生来の鋭利な感覚に導かれた「モダニズムの騎士」であった。その作品には、イランの因習的な社会を辛辣な筆致で描写したリアリスティックな短編もあれば、自身の境遇に近いと思われる知識青年の懊悩や恋の破局を描いたものもある。それらは、ときに残酷で、冷笑的だが、人間的な温かみやユーモアも感じさせる。なかでも代表作となる中編「盲目の梟」は、作家自身 の内面の苦悩を映し出す傑作として、各国語に訳され、イランの現代文学のなかで特に世界的な評価を得ている。
「人生には徐々に孤独な魂をむしばんでいく潰瘍のような古傷がある」——この印象的な書き出しで始まる「盲目の梟」は、1937年頃、インドのボンベイ(ムンバイ)でわずか50部の私家版で刊行された。この時期、ヘダーヤトは短期間インドに滞在し、このほかに「サンピンゲ(Sampingué)」「変わった女(Lunatique)」(タイトルの邦訳は中村公則氏による)の2つの短編をフランス語で書いた。「盲目の梟」と同様に、これらの作品ではいずれも、主人公は周囲の世界とのあいだに超えられない壁や違和感を抱えた「異邦人」としてこの世界を生きており、その精神的な頑なさ、純粋さゆえに他者との関係を容易に築くことができない。そしてほとんどの作品は、死や、失踪、破綻をもって終わる。暗く、重苦しいストーリーもあるが、周囲との妥協よりは自らの潔癖さをつらぬく主人公たちに、ある種のカタルシスがある、と言ってよいかと思う。
1920年代後半、パリでのヘダーヤト(wikimedia commons)
名門の家柄に生まれ、幼少期からフランス語を学んだヘダーヤトにとって、外国語はごく身近であったに違いない。インドではパフラヴィー語(中世ペルシア語)を学び、古代の文献の研究にも勤しんだ。創作のほか、フランス語を通して、ヨーロッパの文学作品の母語への翻訳を行なっている。チェーホフやカフカに関心を持っていたが、特にカフカの影響は大きかったようである。また、ヘダーヤトのヨーロッパ文学への関心は、おそらくフランスの文学者たちの関心も惹くことになっただろう。後に「盲目の梟」の翻訳者となるロジェ・レスコーがヘダーヤト本人に出会ったのは、偶然のきっかけがあった。テヘランの銀行で途方に暮れていた彼に、皮肉まじりの流暢なフランス語で救いの手を差し伸べたイラン人職員、それがヘダーヤトだった。
ニコラ・ブーヴィエの見たテヘラン
『盲目の梟』のフランス語訳が刊行されたのは1953年だが、同じ年にスイスから東欧、アナトリアを通ってイランを縦断し、パキスタン、アフガニスタンへの旅を敢行した(そして1955年に日本に到着した)スイス人旅行家ニコラ・ブーヴィエ(*1)は、首都テヘランの印象を次のように述べている。
「京都やアテネのようにテヘランも教養のある町だ。〔…〕パリを目にする機会も手段もないというのに、完璧なフランス語を話す人々がテヘランには無数にいた。しかも、それは政治的な影響力の結果でもなければ、植民地支配——インドにおける英語のように——の結果でもない。自分以外のものに興味をいだくイラン文化によるものなのだ 」
フランス語を話す人々が無数に、とはやや誇張があるかもしれないが、実際、フランス語は、20世紀の初めから中頃まで、イランの教養人の言語であった。ペルシア語に入ったフランス語のうちで「メルスィー」は今や誰もが完全なペルシア語として口にする言葉になっているし、エレベーターを指す「アーサーンスール」が、フランス語(ascenseur)に由来していると言えば、驚くイラン人は多いはずだ。遥か昔、ヘロドトスは『歴史』のなかで「ペルシア人」は気に入ったものがあれば異国のものでも好んで取り入れると書いていたが、自らの美的感性に見合うものを進んで取り入れる気質は、今のイランの人々にもある程度通じているかもしれない。
ブーヴィエの旅行記 『世界の使い方』(英治出版)
ブーヴィエは、この町でソラブ(ペルシア語風の発音ではソフラーブ)という、偶々通りかかった香水屋の男が、独りアンリ・ミショーの詩を朗読しているのを耳にする。聞けば、当時25歳の文学者でトゥーデ党員でもあったらしい彼は、16歳のとき「詩人の」ヘダーヤトと知り合ったのだという。1953年のテヘラン、作家の自殺からおよそ2年が経っていた。
「もうヘダーヤトも生きてはいなかった。パリの屋根裏部屋でガス栓を開いたのだ。だが、彼の影は若きイランの文学者たるソラブのうちに、いまもなお留まっている。ヘダーヤトは麻薬に溺れていたが、いまも多くの者が麻薬に溺れている。ヘダーヤトは自殺したが、これからも自殺するものが出てくるだろう 」
ヘダーヤトの文学が、その生き方も含めて、どれほど大きなインパクトを与えたかを窺わせる。ブーヴィエはまた、イランでの詩の人気に驚嘆しながら、次のように書いている。
「この国では五百年以上も前のかなり難解な詩に驚くほどの影響力と人気があるのだ。〔…〕かなりの僻地に住む人々ですらウマル・ハイヤームやサアディー、ハーフェズのガザルをいくつも暗記しているほどだ。僕らの国でいえば、単純労働者や人殺したちがモーリス・セーヴやネルヴァルに耽溺するようなものだ。〔…〕彼らがとりつかれるこういった詩は、世界を光とともに飲みこみ、善と悪とがついには一つに重なることをさりげなく解き明かし、人生に欠けている充足感を語り手〔…〕に与える。かわるがわる何時間も続け、〔…〕誰か一人が中断して自殺を考えていると口にすれば、別の者が飲み物を注文するか、僕らにその詩を訳してくれたりする 」
折しもモサッデグの石油国有化運動がアメリカ・イギリスの画策によって終焉を迎えたときであった。イランは一度も諸外国によって植民地化されることはなかったとはいえ、常にヨーロッパ、アメリカを含む大国の政治的・経済的支配にさらされてきた。自国の石油をめぐる国民の悲願はクーデタにより見事に打ち砕かれ、ある詩人の言葉では政治的な「冬」の時代が訪れた。かのアンドレ・ブルトンが仏語訳された『盲目の梟』に出会い、それを絶賛したのもこの年であった。ヘダーヤトの作品世界とブルトン、そしてシュルレアリスムとの関係も気になるところだが、今は措いておこう。以後、サーデク・ヘダーヤトの作品はイランでも国外でもおおいに人気を得ることになる。
イランという心の傷
それからはるかに時を隔てて、ブーヴィエの旅に触発された若き作家フランソワ=アンリ・デゼラブル(*2)が、その同じ道を辿ろうとフランスを出発したのは、2022年末だった。 親米的と評されたパフラヴィー朝が1979年の革命で倒され、イスラーム体制となったイラン。この年の9月にはクルド系女性マフサー(ジーナー)・アミーニーがヘジャーブ(スカーフ)の被り方が不適切であることを理由に当局に連行され、亡くなったことをきっかけに、半年以上に及ぶ大規模な抗議運動が、女性たちを中心に起こった。さらには様々な反体制勢力が加勢して、イラン全土で弾圧による負傷者や逮捕者、死者が出て、騒然としていた時期である。
革命後の、イラン国外での動きについて少しだけ記せば、イランがイスラーム体制となってから、欧米をはじめとする諸都市に多くの人々が移住していった。けれどもイラン国内の人々との間で行き来が途絶えることはなく、イランの女性作家ゴリー・タラッキーが短編「天空の家」(*3)で描いているように、一つの家族が世界の異なる都市に住んでいるようなこともまれではない。とはいえ、国外でイスラーム体制への反発を露わにする人々もいれば、体制に不満を覚えつつイランの土地や文化を愛し、決して祖国を離れなかった人々もいた。当然ながら、それぞれの立場で、ものの見方も異なっている。いや、むしろ祖国を離れて、イランの文化にいっそうの愛着を示す人々も少なくない。彼らにとって、自分たちの文化的アイデンティティの中心にあるのが、イランの芸術でありペルシア語の文学なのだ。
デゼラブルは、ハーフェズの詩句をお守りにしてイランを旅した師匠ブーヴィエのことに触れて、イランはやはり「詩人の国」なのだ、と語っているが、また一方でイランには小説家もいることを付け加える。そのなかで特に敬意を込めて描かれているのは「世界と自分自身に冷徹な眼差しを向けた」ヘダーヤトである。彼は言う、「ヘダーヤトはフェルナンド・ペソアと同様にプチ・ブルジョワだが、彼の作品はプチでもブルジョワでもない」。
デゼラブル『傷ついた世界の歩き方』、ヘダーヤト『盲目の梟』
「〔…〕一九五〇年の年末、パリのシャンピオネ通りにある屋根裏部屋に移り住み、その後、ガス自殺を図った。その部屋は僕のアパートから三〇〇メートルくらい離れたところにある。僕はそこを通るたびに彼のことを思い出し、彼の名前(Hedâyat)のaの上につくアクサン・スィルコンフレックス〔三角屋根の形をした記号の^〕を思い浮かべ、彼が他界したことに思いを馳せる」
なお、細かい話になるが、ヘダーヤトの名前の綴りについて、ここで付け加えておくなら、フランス語での表記には、Sâdeq Hedâyat/Sâdegh Hedâyatなどいくつかある。(アクサン記号が付く場合も、つかない場合もある。)日本語版では、中村公則訳は「サーデク・ヘダーヤト」、石井啓一郎訳では「サーデグ・ヘダーヤト」の表記を採っている。原語の男性名“صادق”(「誠実な、真実を語る」という意味がある)の、最後の文字はqでもghでも表される。アラビア語では無声音、ペルシア語では有声音で発音され、文法書などでは、ペルシア語の“ق”は、“غ”と同じ、または、ほぼ同じ音、と説明される。したがってアラビア語風に読むと「サーディク」、ペルシア語の現代発音(テヘラン方言)では「サーデグ」が近いということになるが、結局のところ「グ(gu)」も「ク(ku)」も原音を完全に写すことはできないので、どちらも正確さの点ではさほど変わらないということになるだろう。
ヘダーヤトが命を絶ったのは1951年4月、パリ18区シャンピオネ通り37番地のアパルトマンだった。デゼラブルのいうアクサン・スィルコンフレックスからは、どことなくヘダーヤトがかぶっていた山高帽も連想されてくる。
さて、架空の旅も終わりに近づいてきたが、パリでヘダーヤトの足跡を辿るなら、ペール・ラシェーズ墓地も訪れる価値がある。黒い大理石のピラミッド型をしたお墓で、ペルシア語の名前の傍に、梟の絵が刻まれている。梟は、イランでは死を連想させる不吉な印だが、言うまでもなく、ヘダーヤトの愛すべきトレードマークになっている。同じ区画の歩道に面した列には、イラン映画史に残る名作、ダリユーシュ・メフルジューイー監督の『牛』(1969年)の原作を書いた作家ゴラームホセイン・サーエディー(1936-1985)のお墓もある。
ついでながら、もし興味があれば、アラブ世界研究所のショップや、パリのイラン系書店を覗いてみるのも悪くないだろう。リュクサンブール公園の近くにあるティエール・ミット(Le Tiers Mythe)は雰囲気のある古書店で、比較的小さな店内にイランやアジア・アフリカ関連の書籍が天井までうずたかく積まれている。近年オープンした15区のユトピラン(Utopiran)は、イランで刊行されたペルシア語の書籍と、フランス語の翻訳書と両方取り扱いがあり、作家を招いての書店イベントなども盛んに行っている。たいてい、フランス語とペルシア語のどちらでも対応してくれる。
ユトピラン書店(著者撮影)
ヘダーヤトが生きていた頃と比べれば、異なる文化間の距離は短くなったのかもしれない。しかし、SNSを中心に際限なく溢れる情報は、しばしばかえって物事を見えにくくしてしまうことがある。遠くの国や町へ、心に触れる旅をしたいと思ったなら、その距離を越える助けとなるものこそ、文学にちがいない。
*1 ニコラ・ブーヴィエ著、ティエリ・ヴェルネ絵『世界の使い方』山田浩之訳、英治出版、2011年。(引用部分では、本文に合わせて人名表記を一部修正した。)
*2 フランソワ=アンリ・デゼラブル著『傷ついた世界の歩き方――イラン縦断記』森晶羽訳、白水社、2024年。
*3『天空の家――イラン女性作家選』藤元優子編訳、段々社、2014年。