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「猫ちゅみ観察記」長島有里枝

第18回

9月6日の観察

 非常勤講師の仕事を終えて地元に戻ると、バレエのレッスンが始まるまで少し時間があく。そうだ、この原稿を書きながらついでに夕飯食べちゃおうと、駅前のデパートにある老舗の喫茶店に向かう。入り口に置かれたメニューでお目当てのナポリタンセットを確認する。サラダと山盛りのナポリタンにコーヒーがついて1,700円。値段に怯んで、しばらく入店を躊躇する。わたしが猫なら、両耳をななめ後ろに倒して逆三角形の三白眼で前方を見据えたまま、前脚をきっちり揃えてその場に座り込んでいることだろう。

 都心ならその値段でも安いぐらいだが、自炊派のわたしにはチェーンのコーヒーショップですら高級店の価格設定に思える。食べたくないものを食べたあとはしばらく怒りが収まらない性分なので、数百円を節約することで1日を台無しにしないためにもここは行っておくしかない。この辺で他にゆっくり仕事ができるお店も知らないし。

 ボリュームたっぷりのスパゲティを食べ終え、原稿を書き始めたが、分不相応な贅沢をしてしまったのではという不安に苛まれて仕事が進まない。これまでRのため必死に働いてきて、今度はこちゅみとオハナのために働いている。あーあ、お金がなくても生きていける世界になんないかなぁ。こっちゃんがうちに来てから、しょっちゅうそんなふうに思う。こちゅみと遊んだり、こちゅみを追いかけたり、こちゅみのわがままを聞いたり、こちゅみとイチャイチャしたり、ハナちゃんや家に迷い込んできた虫にドヤるこちゅみを優しくたしなめたりすることだけで1日を終われたら、毎日どんなに楽しいだろう。どんなに平和で幸せだろう。

 子どもたちを生かすため、ときどき美味しいものを外で食べるため、大切な存在と幸せに暮らすため、差別や戦争や環境破壊に対抗する働きかた暮らしかたそのものが収入になる社会の実現可能性を、本気で想像している。

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著者略歴

  1. 長島有里枝(ながしま・ゆりえ)

    東京都生まれ。1999年、カリフォルニア芸術大学MFA写真専攻修了。2015年、武蔵大学人文科学研究科社会学専攻博士前期課程修了。2001年、『PASTIME PARADISE』(マドラ出版)で木村伊兵衛写真賞受賞。10年、『背中の記憶』(講談社)で講談社エッセイ賞受賞。20年、写真の町東川賞国内作家賞受賞。22年、『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』(大福書林)で日本写真協会学芸賞受賞。23年、『去年の今日』で野間文芸新人賞候補。主な個展に「そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。」(東京都写真美術館、2017年)、著書に『テント日記/「縫うこと、着ること、語ること。」日記』(白水社)、『こんな大人になりました』(集英社)、『Self-Portraits』(Dashwood Books)などがある。

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