第1回 まずは全体像をつかむ
『エセー』の新訳が終わる。『エセー 1』を出したのが2005年だから、足かけ12年という計算になるが、ラブレーの翻訳とも重なったため(2005-2012)、人づきあいも悪くなったし、読書時間にいたっては、就眠儀式を除けば無に等しかった。その余波は単著にも及び、材料があっても、時間が絶対的に不足していて、約束していた2冊を必死に書き上げるのがやっとだった。「どうやら運命とは、ちょうどいい頃合いに、われわれをもてあそぶものであるらしい」(『エセー』第一巻第33章「運命はしばしば、理性とともに歩む」)と、モンテーニュが述べているように、わたしの場合は、おまえはしばらく「翻訳」に身を捧げて、それ以外のことはあきらめろと、運命のサイコロが振られてしまったらしい。そして翻訳に引き続いて、『エセー』の魅力を、あくまでも引用を主体にして、語っていきなさいとのご託宣がくだり、謹んでこれを承った。
つたない前口上は、このあたりで切り上げて、初回は、拙訳『エセー』全7冊の構成を紹介したい。まずは、拙訳による『エセー』各章のタイトルと、巻末に添えた「付録」のリストを挙げる。
『エセー 1』(2005年11月刊)
「読者に」
【第一巻】
第1章 人は異なる手段で、同じような目的に到達する
第2章 悲しみについて
第3章 われわれの情念は、われわれの先へと運ばれていく
第4章 本当の目的がないときには、魂はその情念を、いつわりの対象に向かってぶちまけること
第5章 包囲された砦の司令官は、そこから出て交渉すべきなのか
第6章 交渉のときは危険な時間
第7章 われわれの行動は、その意図によって判断される
第8章 暇であることについて
第9章 うそつきについて
第10章 口のはやさと口のおそさについて
第11章 さまざまな予言について
第12章 揺るぎのないことについて
第13章 国王たちの会談における礼儀
第14章 理由なしに砦にしがみついて、罰せられること
第15章 臆病を罰することについて
第16章 何人かの使節たちのふるまいについて
第17章 恐怖について
第18章 われわれの幸福は、死後でなければ判断してはならない
第19章 哲学することとは、死に方を学ぶこと
第20章 想像力について
第21章 一方の得が、他方の損になる
第22章 習慣について。容認されている法律を容易に変えないことについて
第23章 同じ意図から異なる結果になること
第24章 教師ぶることについて
第25章 子供たちの教育について─ギュルソン伯爵夫人、ディアーヌ・ド・フォワさまに
[付録]『エセー』の底本について─『ボルドー本』から1595年版へ(宮下志朗)
『エセー 2』(2007年2月刊)
第26章 真偽の判断を、われわれの能力に委ねるのは愚かである
第27章 友情について
第28章 エチエンヌ・ド・ラ・ボエシーによる二九篇のソネット─ギッセン伯爵夫人、マダム・ド・グラモンに捧ぐ
第29章 節度について
第30章 人食い人種について
第31章 神の命令に口出しして判断するのは、慎重にしなくてはいけない
第32章 命を犠牲にして、快楽から逃れること
第33章 運命はしばしば、理性とともに歩む
第34章 われわれの行政の欠点について
第35章 服の着用という習慣について
第36章 小カトーについて
第37章 われわれは、同じことで泣いたり笑ったりする
第38章 孤独について
第39章 キケロに関する考察
第40章 幸福や不幸の味わいは、大部分、われわれの考え方しだいであること
第41章 みずからの名声は人に分配しないこと
第42章 われわれのあいだの個人差について
第43章 奢侈取締令について
第44章 睡眠について
第45章 ドルーの戦いについて
第46章 名前について
第47章 われわれの判断の不確実なことについて
第48章 軍馬について
第49章 昔の習慣について
第50章 デモクリトスとヘラクレイトスについて
第51章 ことばの空しさについて
第52章 古代の人々の倹約ぶりについて
第53章 カエサルの一句について
第54章 どうでもいいことに凝ったりすることについて
第55章 匂いについて
第56章 祈りについて
第57章 年齢について
[付録]モンテーニュの塔をたずねて(宮下志朗)
『エセー 3』(2008年3月刊)
【第二巻】
第1章 われわれの行為の移ろいやすさについて
第2章 酔っぱらうことについて
第3章 ケオス島の習慣
第4章 用事は明日に
第5章 良心について
第6章 実地に学ぶことについて
第7章 名誉の報酬について
第8章 父親が子供に寄せる愛情について─デスティサック夫人に
第9章 パルティア人の武器について
第10章 書物について
第11章 残酷さについて
[付録]フォルチュナ・ストロウスキの後悔(アントワーヌ・コンパニョン)
『エセー 4』(2010年6月刊)
第12章 レーモン・スボンの弁護
[付録]レーモン・スボンの弁護─ピュロン主義の危機(ピエール・ヴィレー)
『エセー 5』(2013年2月刊)
第13章 他人の死について判断すること
第14章 われわれの精神は、いかにそれ自体がじゃまになるか
第15章 われわれの欲望は、困難さによってつのること
第16章 栄光について
第17章 うぬぼれについて
第18章 噓をつくこと
第19章 信教の自由について
第20章 われわれはなにも純粋には味わわない
第21章 なまけ者に反対する
第22章 宿駅について
第23章 よい目的のために、悪い手段を使うこと
第24章 ローマの偉大さについて
第25章 仮病などは使わないこと
第26章 親指について
第27章 臆病は残酷の母
第28章 なにごとにも季節がある
第29章 徳について
第30章 ある奇形児について
第31章 怒りについて
第32章 セネカとプルタルコスを弁護する
第33章 スプリナの物語
第34章 ユリウス・カエサルの戦い方について考える
第35章 三人の良妻について
第36章 もっとも傑出した男たちについて
第37章 子供が父親と似ることについて
[付録]《フランス古典叢書》新版への緒言(無署名)
『エセー 6』(2014年12月刊)
【第三巻】
第1章 役立つことと正しいことについて
第2章 後悔について
第3章 三つの交際について
第4章 気持ちを転じることについて
第5章 ウェルギリウスの詩句について
第6章 馬車について
第7章 高貴な身分の不便さについて
第8章 話し合いの方法について
[付録]『エセー』の「特認」をたどる(宮下志朗)
『エセー 7』(2016年4月刊)
第9章 空しさについて
第10章 自分の意志を節約することについて
第11章 足の悪い人について
第12章 容貌について
第13章 経験について
[付録]『エセー』全巻目次/モンテーニュ略年譜
全三巻で構成されている『エセー』という作品を、拙訳は便宜的に7分冊とした。各巻の長さの比は、およそ3:4:3だから、アンバランスとはいえない。そして、全部で107(57+37+13)の章で構成されているわけである。ところが、一つだけ突出した章が第二巻に収められている。第二巻第12章〔巻と章は以下、2・12のように略記する〕の「レーモン・スボンの弁護」という難解な章がそれで、これだけで『エセー』全体の4分の1を占めている(拙訳でも、この章だけで1冊)。内容も分量も、むしろ単行本にふさわしいし「レーモン・スボンの弁護」は、とりあえず外そう。モンテーニュは、この種の付け足しが好きなのだ。なにしろ、初版第一巻の中央部分(全57章のうちの第29章)に、「縫い目もわからないほどの」友情で結ばれていた、亡きエチエンヌ・ド・ラ・ボエシーのソネットを29篇(この数字も意味深だ)もはめ込んでしまうのだから(その後、すべて削除した)。「詰め物」だらけで、「ぴったりとは合わない寄せ木細工」(3・9「空しさについて」)だと自称しているのだから、作品の不格好さは、むしろ意識的なものともいえる。
それにしても、章の数にかなり差があるのではと、思われるかもしれない。実は、地元ボルドーで自費出版された『エセー』初版(1580)には、第一巻(全57章)と第二巻(全37章)しか収められていない。この初期の文章に、比較的短いものが目立つのだ。たとえば、1・21「一方の得が、他方の損になる」や1・52「古代の人々の倹約ぶりについて」などは2ページ足らずにすぎない。これに対して、8年後にパリで出版された生前の決定版に加えられた『エセー』第三巻は、合計13章にすぎない。むろん、なかには3・7「高貴な身分の不便さについて」のように短い章もなくはないけれど、全体としては十分な長さの章が多い。モンテーニュも、こうしたことは十分に認識していたから、こう述べる。「『エセー』の最初のほうでは、章をかなり細切れにしてしまったが、そうすると、読者の関心が芽生える前に、それを断ち切ってしまうように感じられたし、読者の側も、こんなわずかな分量のことで、熱心に思いを凝らすことなどいやになって、読む気もくじけてしまうと思った。そこで、各章をもっと長くすることにした」(3・9「空しさについて」)
やはり『エセー』を読むならば、「細切れ」ではなくて、ボリューム満点で滋味豊かな、後期の章から始めることを強くお奨めしたい。ところで、初版は「自費出版」で、当時はこれがふつうだと思うのだけれど、作者は、「預言者故郷に入れられず」はわたしのことですよといってこう書く。「わが地元ガスコーニュでは、わたしの書いたものが印刷に付されると、人々はなんて妙なことだと考える。ところが、わたしに関する知識が、わが住まいから遠ざかるにしたがって、わたしの価値は高まるのだ。ギュイエンヌ地方では、わたしが印刷業者に金を出すが、ほかの場所では、印刷業者が金を出してくれるではないか」(3・2「後悔について」)。ちょっと皮肉だけれど、いかにもモンテーニュらしくて面白い。
◇初出=『ふらんす』2016年4月号