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宮下志朗「モンテーニュ『エセー』を読む」

第2回 エディションの問題について

 では、『エセー』を味わいましょうといいたいところだけれど、もう少しだけ待ってほしい。わたしの新訳は、全訳としては4度目だと思う。そして既訳(関根秀雄、 松浪信三郎、原二郎)は、いずれも、モンテーニュの「手沢本」である、通称「ボルドー本」を「底本」にしている。「手沢本」とは、故人が大切に手元に置いて、書き込みなどをした本ということで、「沢」には、「もてあそぶ」とか「こする」といった意味合いがあるし、「光沢」ということばからも想像がつくように、手あかがつくほど鍾愛した書物の意である。1588年版の『エセー』におびただしい加筆訂正をほどこしたところの、この「手沢本」は発見されたのがフランス革命の直前であって、それ以前は、モンテーニュの死後、グルネー嬢が中心となって編んだ1595年版、ならびにその流れをくむ『エセー』が読まれていたことを、再確認しておきたい。パスカルもルソーも、この「死後版」で『エセー』を読んでいるのだ。そして、わたしの新訳は、この1595年版の最初の邦訳なのである。どうしてわざわざ、このようなことを述べるのかといえば、「ボルドー本」と「1595年版」の本文が、微妙に異なっているからにほかならない。そして、どちらがモンテーニュにとっての最終的な本文であったのかについては、決着はついてはいない。興味ある読者には、『エセー1』巻末に付けた拙稿「『エセー』の底本について──『ボルドー本』から1595年版へ」を 参照していただくとして、ここでは細かな議論は省かせてもらう。もっとも、「ボルドー本」と「1595年版」、どちらのテクストで『エセー』を読んでも、その全体像が異なる心配はないから、好きな版で読んでくれてかまわない。

 ただし、ひとつだけ厄介なことがあるので、注記しておく。1595年版では、なぜか1588年版の『エセー』第一巻の第14章を、ずっとうしろの第40章に移動しているのだ(「ボルドー本」には、そのような指示は記されてはいない)。すると、1588年版の[1・15]→ 1595年版[1・14]から始まって、1588年版[1・40]→ 1595年版[1・39]まで、章の数字が1つずつずれることになる。「ボルドー本」と呼ばれる、1588年版に加筆訂正をほどこした「手沢本」に依拠する既訳の[1・14][1・ 15]が、拙訳の[1・40][1・14]となる。なんだか、頭が混乱してくるけれども、 仕方がない。たとえば「哲学することとは、死に方を学ぶこと」というかなり有名な章は、既訳では[1・20]なのに、拙訳では[1・19]だし、「われわれは彼らを、理性という尺度で、野蛮だと呼ぶことはできても、われわれを規準として、彼らを野蛮だと呼べはしない──われわれは、あらゆる野蛮さにおいて彼らを凌駕しているのだから」といって、モンテーニュが、むしろ「文明」における「野蛮さ」を指摘した重要な章「人食い人種について」は、既訳では[1・31]だが、拙訳では[1・30]として収録されているのである。

 ではここで、『パンセ』を開いてみよう。パスカルにとっては、1652年版の『エセー』が枕頭の書であり、『エセー』に触発されて書かれた断章が、あちこちに見つかるし、「583」などと、1652年版『エセー』のページ数だけが書かれている個所も多い。「人間は、天使でも、獣でもない。そして、不幸なことには、天使のまねをしようとおもうと、獣になってしまう」(『パンセ』358、前田陽一・由木康訳、中公文庫)というもっとも有名な断章だって、種を明かせば、モンテーニュの「われを忘れたい、人間であることから逃げ出したいと願っている人々がいる。でも、そんなことはもってのほかだ。天使に変身しようとしても、けものに変身してしまう─高く舞い上がるかわりに、どさっと倒れこむのが落ちなのである」(3・13「経験について」)にヒントを得て、書き換えたにちがいない。『エセー』の影響が大きいだけに、逆に、パスカルの批判は辛辣なのだが、それは後回しにして、話題を上の2つの版における章のずれに戻すとしよう。

 『パンセ』を読んでいると、やや唐突に「人食い人種は、幼い王をあざ笑う」(前掲邦訳、324)と出てきたりする。そこで訳注を見ると、「『エセー』1 の30(現行版1の31)にある、フランスに連れてこられた野蛮人が、幼いシャルル9世の前に、護衛の男たちが頭を下げているのを見て不思議がった話をさす」と記されている。上で述べたように、そもそもモンテーニュは、新大陸と旧大陸の人間のどっちが野蛮だか、考えてみなさいと述べているわけだから、いまならば「野蛮人」ではなく、「インディオ」とか、これでも差別語だというならば、「ネイティヴ・アメリカン」と書くべきところかもしれない。それはさておき、邦訳は、パスカル本人は『エセー』[1・30]として読んだのですが、「現行版」では[1・31]なのですよと、親切に教えてくれるのだからありがたいではないか。ここでの「現行版」とは、むろん「ボルドー本」を底本とした諸版を意味し、事実、20世紀に入ると、『エセー』のエディションは「ボルドー本」の一人天下の時代となったのである。それ以前は戦国時代であって、さまざまなエディションが割拠していた。コンパニョンが、「それにしても、19世紀末の読者は、われわれよりも幸福で、はるかに恵まれていた」(A・コンパニョン「フォルチュナ・ストロウスキの後悔」、『エセー3』所収)と書いたのは、そうした意味合いを込めている。ところが、21世紀に入ると、権威あるプレイヤード版(2007)も含めて、1595年版による捲土重来の動きも急であるからして、「現行版」=「ボルドー本」という等式は成立しなくなっている。とにかく、パスカルもルソーも、「ボルドー本」ではなくて、1595年版系統の『エセー』を読んでいたこと、第一巻では、章にずれが生じていることを覚えておこう。

 『エセー』の手前で、少しばかり足踏みしたが、まずは、『エセー Essais』ということばについて考えてみたい。モンテーニュの時代、essai という単語には「随筆・随想」といった意味はなくて、逆に『エセー』という作品によって「随筆・随想」という意味が生まれたことはよく知られている。その最初の例が、フランシス・ベイコンの『随筆集 Essayes』で、彼はモンテーニュに触発されて「随筆・随想」という意味を込めたタイトルにしたとされる。したがって辞典類は、ベイコン『随筆集』の初版が出た1597年を、「随筆・随想」という語義の初出としている(外交官の兄アンソニーが、在仏中にモンテーニュの知己を得て、フランシスは兄から『エセー』の存在を知らされたともいう)。では、モンテーニュ本人は、essai ということばをどのように使っているかといえば、たとえばこんな具合だ。

 「判断力(ジュジュマン)は、どのような主題にでも通用する道具であって、どこにでも入りこんでいく。したがって、今している、この判断力の試み(エセー)〔essais〕においても、わたしは、あらゆる種類の機会を用いるようにしている。自分に少しもわからない主題ならば、まさにそれに対して判断力を試してみて〔je l’essaie〕、その浅瀬に遠くから探りを入れて、それから、どうも自分の背丈には深すぎるようだと思えば、川岸にとどまるのだ。[…]またわたしは、ときには、空虚で、なにもない主題に対して、それに実体を与えて、それを支え、つっかい棒をするような材料を、はたして判断力が見つけたりするものかどうかを、試してもみる〔j’essaie〕。[…]わたしは、運まかせに、とにかく手近の主題を取り上げる──どれでも同じだけ、有効なのだから」(1・50「デモクリトスとヘラクレイトスについて」)

 『エセー』最終章の、「結局のところ、わたしがこうして、やたらに書き散らした寄せ集めの文章(フリカッセ)は、わが人生の試み(エセー)〔essais〕の記録簿(ルジストル)にすぎない」(3・13「経験について」)といった表現も、すぐ思いつく。『エセー』とは、さまざまな思考の試みを寄せ集めなのである。だから彼は、この作品のことを、「ぴったりとは合わない寄せ木細工」(3・9「空しさについて」)などと形容したりもする。そのテーマは卑近なものでかまわなくて、とにもかくにも、わが判断力の瀬踏みをしてみるというわけだ。ところが、手近な主題の最たるものが、「わたし」にほかならないというのが、画期的であった。モンテーニュは「読者に」という短い序でも、「読者よ、わたし自身が、わたしの本の題材なのだ」と宣言して、「わたしは、このわたしを描いているのだから。ここには、わたしの欠点が、ありのままに読みとれるし」とも書いている。こうして彼は、「わたし」を、あるいは対象を判断しているときの「わたし」を試しにかけて、「わたしの本とわたしが歩調を合わせ、いっしょに進んでいく」(3・2「後悔について」)

 

◇初出=『ふらんす』2016年5月号

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著者略歴

  1. 宮下志朗(みやした・しろう)

    放送大学特任教授・東京大学名誉教授。主な著書『本の都市リヨン』『神をも騙す』、主な訳書ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』(全5巻)、モンテーニュ『エセー』(全7冊)

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