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宮下志朗「モンテーニュ『エセー』を読む」

第7回 旅について

 モンテーニュと「旅」というと、最近は『エセー』の次の一節が真っ先に浮かぶ。「どこに行っても、そこを立ち去る時には最後の別れをつげる。そして、毎日、自分の持っているものを処分していくのだ。《もうずっと前から、わたしには損も得もない。これからさきの道のりに十分な、路銀があるのだから》(セネカ『書簡集』77)」(2・28「なにごとにも季節がある」)。わたしは、すでにモンテーニュより10年も長く生きている。とはいえ、身体のあちこちにがたが来ていることは、日々痛感しているし、いくつかの病院にも通っている。少しずつではあっても、死が近づいていることを実感せざるをえないのだ。そんなこともあって、「別れ」「処分」「路銀」といったことばに敏感になっているにちがいない。

 「死というものは、いたるところで、われわれの生と混じりあっている」(3・13「経験について」)、これがモンテーニュの根本的な認識であり、生まれたときから、人は死に向かっての旅路を歩むのだ。でも、それが陰鬱な旅なのかといえば、そんなことはまったくない。彼の場合、ペシミズムやニヒリズムではなく、むしろあっけらかんとしているのが魅力だ。「われわれは死ぬことを心配するせいで、生きることを乱しているし、生きることを心配するせいで、死ぬことを乱している」(3・12「容貌について」)。

 「旅」の話が、のっけから人生行路の方向に脱線してしまった。でも、セネカの「路銀」とくれば、「千里に旅立ちて、路粮(みちかて)をつつまず」という、『野ざらし紀行』の冒頭が出ないわけにはいかない。「路銀」も「路粮」(道中の食糧)も、煎じつめれば同じことで、「野ざらし」とか「客死」の覚悟ということであろう。では、モンテーニュはどうかというならば、「客死」もいとわなかった。「もしもわたしが、異郷に客死することを危惧するならば、あるいはまた、家族の者たちと遠く離れていては、安心して死ねないというのなら、フランスの外になど、ほとんど出て行けないだろうし、恐ろしくて、教区の外にも出られないかもしれない。[…]わたしという人間は出来が変わっているのか、どこで死んだって、わたしにとって死は同じことなのだ。とはいうものの、どこか死に場所を選べというなら、ベッドの上よりも馬上がいいし、家の外で、家族の者たちからは離れたところがいい」(3・9「空しさについて」)。畳の上でなど死にたくない、こうした覚悟で、彼は家族を残して、1年半に及ぶ長旅に出た。ボルドー市長に選出されなかったならば、もっと長期の旅になっていたはずだ。

 自分が旅に憧れるのは、「移動や変化」を、「新しいものや未知のもの」を渇望するという、人間にとってはかなり共通の情動によるものではないのかというのが、モンテーニュの分析である(3・9「空しさについて」)。そこに、家政の煩わしさという、「わたしを苛む」「日々のしずく」をしばし忘れたいし、自分には「わが国の現在の動静がどうも合わない」といった、個人的な感情が加わって、どこか遠くへ行きたいという衝動を抑えがたくなったという。もちろん、人間は世間というしがらみの中で生きているから、思い立ってすぐに旅に出られるわけではない。そんなとき、モンテーニュはどうしたか?「自分が現代には無用な存在だと悟ると、ローマ時代に退いていく」(3・9「空しさについて」)のだ。それも、単に古典のテクストに沈潜するだけではなくて、「古代ローマの街路や屋敷」「廃墟」などを思い浮かべて、そこに時間旅行していくのがモンテーニュ流なのである。

 「平時であれ、戦時であれ、わたしは書物なしに旅をすることはない。[…]これこそは、わが人生という旅路で見出した、最高の備えにほかならない」(3・3「三つの交際について」)と述べて、書物を人生行路の最良の道連れと考えた彼が、決して書物人間ではないことに注意しよう。「もっぱら書物にたよった(livresque)知識力とは、なんとなさけない知識力であることか![…]こうした次第ですから、人々との交際などは、非常に目的にかなっているのです。また外国を訪ねるのも、よろしいかと。[…]なによりも、そうした国民の気質や習慣をしっかりと見て、自分の脳みそを、そうした他者の脳みそと擦りあわせて、みがくためなのです。そのためにも、幼年時代のうちから、お子さんを外国に連れ出すといいと思います」 (1・25「子供たちの教育について」)。知識偏重はだめです、可愛い子には旅をさせなさいという一節からも、そのことがわかる。ここに出てくるlivresque(=bookish)という単語、実はモンテーニュの造語で、この個所がフランス語としての初出なのである。

 さて、旅の快楽について、彼はこんな言い方をする。「わたしにはよくわかっている――旅の喜びというのは、それを端的にいうならば、まさに自分が、落ち着かず、定まらない状況の証人になれることにあるのだと。もっともそれは、われわれ人間を支配するところの、主たる特質なのでもある。[…]旅をしていても、〈自分はどこで中止しても、いっこうに差しつかえない。その場所から引き返したって、なんの問題もないのだから〉という安心感がいつもある」(3・9「空しさについて」)。「自分が、落ち着かず、定まらない状況」というのは、例の「世界は永遠のブランコにほかならない。[…]だから、わたしにはどうしても、対象をしっかり固定できない。[…]わたしとしては、自分が対象とかかわる瞬間に、ありのままの姿をとらえるしかない」(3・2「後悔について」)とか、「わたしは遠慮もなしに、ごたついたまま、主題を変えていく。わたしの文体と、わたしの精神は、いっしょになってどんどんさまよい歩くのだ」(3・9「空しさについて」)といった、彷徨する『エセー』のエクリチュールの意識と表裏一体であろう。彼は「直線であれ、曲線であれ、確かな線はいっさい引かないのが、わたしの流儀」(3・9)とも語っているけれど、これは彼の旅の流儀であると同時に、『エセー』のスタイルも表している。そもそも彼は、「空しさについて」の最初のあたりで、こう述べていた。「ご承知のとおり、わたしはここまで一本の道をたどってきたわけで、この世にインクと紙があるかぎりは、休みなく、苦労せずに、この道を歩いて行くつもりだ。[…]でもって、わたしがここでお目にかけているものも、まあ少しはお行儀がいいけれど、ときには固かったり、ときには軟らかくて、いつもまともに消化できてはいないところの、年老いた精神の排泄物なのである。それにしても、いかなる題材にぶつかっても、動揺し変化し続ける、わが思考の表明に、わたしは一体いつになったらけりを付けられるのだろうか?」(3・9)。いやあモンテーニュさん、けりなどつかないのですよ。だからあなたは、死ぬまで『エセー』に手を加え続けたのじゃないですか!

 旅行する理由を聞かれると、「なにを避けているのかはよく分かっているのですが、なにを求めているのか、自分でもよく分からない」(3・9)と答えるというのも、よくわかる。とにもかくにも、どこか遠くに行きたいモンテーニュとは、われらの隣人ではないか! モンテーニュ殿は、『旅日記』の最初の部分を口述筆記した秘書に向かって、「眠れぬ夜をすごした後、朝になって、ふと、今日はまた別の町、また新しい地方を見るのだと思うと、わたしは希望と歓喜にみちて起きるのだよ」(『旅日記』関根秀雄・斎藤広信訳)と語り、「気ままな旅の計画」を話して聞かせたという。いやあ、若々しい感覚だ。わたしも、こうしたわくわくするような気持ちでの旅を、またしてみたい。

 「自分の脳みそを、そうした他者の脳みそと擦りあわせる」ことを重視する人生の旅人モンテーニュは、こうも述べる。「精神は、旅をしながら、未知のものや、新奇なものに注目することによって、絶えざる実習をすることになるのだ。[…]人生なるものを教えこむには、たえず本人に、色々な人生や、考え方や、習慣の多様性を示してやって、われわれ人間の性質が、果てしなく多彩な形態を有するものなどだということを、じっくりと味わわせるのが、わたしの知るかぎりでの最高の学校だと思っている」(3・9)。現在ならば、異文化コミュニケーションの実践ということになろうか。したがって内向き思考の人々には、辛辣だ。「わがフランス人たちが、自分たちとは相反する習慣に対して警戒心を抱くという気質を自負している姿を見ると、恥ずかしくなる。彼らは村から一歩出るだけで、身の置きどころがなくなるのだ。そして、どこに行っても、自分たちの習慣にこだわって、異国の習慣を忌みきらう。[…]それらはフランス式ではないのだから、野蛮に決まっているというわけだ。[…]ほとんどの連中は、ただ行って帰ってくるだけ[…]。打ち解けることのない慎重さでもって、ぴったり身を包んで、見知らぬ土地の空気に感染しないように用心しながら、旅をする」(3・9)。大変に厳しい指摘ではあるが、排外主義が強くなりつつある現在でもきわめて有効な指摘ではないだろうか。

 

◇初出=『ふらんす』2016年10月号

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著者略歴

  1. 宮下志朗(みやした・しろう)

    放送大学特任教授・東京大学名誉教授。主な著書『本の都市リヨン』『神をも騙す』、主な訳書ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』(全5巻)、モンテーニュ『エセー』(全7冊)

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