第12回 「確かな線は引かない」描き方(2)
先月に引き続き、第一巻第三〇章「人食い人種について」を再読しよう。「復讐の心情」の表象としてカニバリズムという儀礼を実践する新大陸先住民は、ポルトガル人による捕虜のむごい殺し方を見て、これを模倣するまでに至ったという。このような事実を知ったモンテーニュは、「われわれが、彼らのあやまちを正しく判断しながら、われわれ自身のあやまちについては、これほどまでに盲目であること」について深く悲しむ。そして、「死んだ人間を食べることよりも、生きた人間を食べるほうが、もっと野蛮なことだ」と述べる。だが、いくらなんでも、旧大陸の人々が生きた人間をそのまま食べるはずはない。これは喩えであって、おそらくジャン・ド・レリーの次の一節に触発されている。「われわれが、わが肥満せる高利貸したちのしていることを真剣に考察するならば、彼らは、私の語る未開人たちよりも遙かに残酷であると言わねばなるまい。彼らは後家であろうが、孤児であろうが、その他哀れな人々であろうが、誰彼かまわずその血や骨を啜り、結局は生きながら食ってしまうのだ」(『ブラジル旅行記』第15章、二宮敬訳、《大航海時代叢書Ⅱ—20》、岩波書店)。レリーはさらに筆を走らせている。カニバリズムに関して、「リヨン晩禱の虐殺」(パリでの「聖バルテルミーの虐殺」の1週間後に発生)がエスカレートして、「人々の脂肪」の売買や人肉食といった狂気の沙汰が行われたことを引き合いに出すと、「今後は、[…]人間を食う未開人のことを、闇雲に忌み嫌わないでいただきたい。[…]何もはるばるアメリカくんだりまで行って、奇々怪々自然の理を越えたことを見ようとするまでもない」と書くのだ。レリーは新教徒として、新大陸の先住民の蛮行との対比で、虐殺の残虐非道さ――これはけっして虚構ではない――を強調したかったにちがにない。
レリーを読んでいたはずのモンテーニュは、そうした残虐さのディテールを描くことはしない。それらはぐっと胸の奥にしまいこみ、「信仰と宗教に名を借りた」野蛮なふるまいを、われわれは「この目で見て、なまなましく記憶にとどめている」ではないかと述べるにとどめる。そして、「死んでから、焼いて食べる」という先住民の復讐儀礼と、旧大陸の「われわれ」の拷問・虐殺とを比較して、後者を「野蛮」だとみなすのだ。「われわれは彼らを、理性(レゾン)という尺度で野蛮(バルバール)だと呼ぶことはできても、われわれを基準として、彼らを野蛮(バルバール)だと呼べはしない――われわれは、あらゆる野蛮さ(バルバリー)において彼らを凌駕しているのだから」
インディオの「戦争」はカニバリズムを伴うとはいえ、「高潔」なもので、そこには領土征服の野望はない。「必要なものはなんでも十分に授かる」彼ら、「いまだに、自然の必要性に命じられた分しか、望まないという、あの幸福な地点にいる」彼らが、戦いの勝利として獲得するのは、領土ではなく、「名誉と、そして勇気と力(ヴェルチュ)」にほかならないのだ。ここでは、「人為」ではなく、「自然」の価値が再認識されている。
次にモンテーニュは、やがては殺されて、「宴会」に供せられる捕虜の「不屈の勇気」を讃える。「人間の評価や価値は、その心ばえと意志のうちに存在するのであり、本当の名誉はここに宿る」として、「勇気という名誉は、戦うことにあって、うち勝つことにはない」と考えるのだ。したがって、「勝利にも匹敵するほどの、輝かしい敗北が存在する」として、スパルタ王レオニダス1世のテルモピュライの戦いでの玉砕を例に挙げる。それから、「話を元に戻す」と、決して弱音をはかない捕虜の勇敢さが、「寄り集まって、おれの肉を食うがいいや。おれさまに食われて、この身体の栄養となった、おまえの父さんやご先祖さまも、いっしょに食うことになるんだからな。[…]しっかり味わってみるんだな、おまえの肉の味がする」と歌を引いたり(テヴェ『南極フランス異聞』からの借用)、撲殺シーンの挿絵にふれたりして語られる。彼らの歌に大いに感心したモンテーニュは、「ここには野蛮さなど、みじんも感じられない」とまでいう。それから、一夫多妻制を「勇猛さ」の証左として紹介すると、「野蛮人」ではないことにダメを押すべく、彼らの恋の歌までも引用、「アナクレオン風」の心地よい響きだと絶賛している(この恋歌の典拠は不明。ブラジルに滞在していた使用人から聴いたのか?)。
本章の掉尾を飾るのは、「幸福な地点」にいたのに、「こちらの世界の退廃を知ることで、いずれ、自分たちの安息と幸福とが、どれほどの代償を支払うことになるのかも知らずに」、海を越えてやってきた三人のネイティヴ・アメリカンとの会見エピソード。1562年、ルーアンでのシャルル9世との謁見にモンテーニュも同席しているのだ。ちなみにルーアンはブラジルとの交易(紅色染料用のログウッドが珍重されたという)の中心地で、1550年のアンリ2世の入市式にもトゥピナンバ族が参加していて、図像も残っている。国王が新大陸先住民に、フランスの感想を問う。モンテーニュは彼らの答えを二つだけ書き留めているのだが、とても興味深い。第一が、屈強な人々が、子供のような王(シャルル9世は若干12歳であった)に従っているけれど、なぜ自分たちで支配者を選ばないのかという疑問で、第二が、貧困にあえぎ、物乞いまで余儀なくされている「半分」が、なぜ富める「半分」に反抗して決起しないのかという疑問である。「自然の必要性に命じられた分しか望まず」、充足していて、貧富の差の少ない彼ら、そしてなによりも勇気と力を重んじる彼らが発した問いかけには、それなりの必然性が感じられる。次いでモンテーニュ本人が、「上に立つ者には[…]どのような利益がありますか」と質問したという。相手は族長クラスの人間なのであった。すると、「戦争のときに、先頭に立って進むこと」との答え。やはり、「勇猛さ」こそが名誉であり、支配者の条件なのだ。そこでモンテーニュは、でも戦争が終われば、そうした権威も終わりなのではと迫る。すると、「いや残っている。[…]村々を訪問するときに、森の茂みを切り開いて、小道を造ってくれる」と答えが返ってくる。これもまた、大変に名誉なことであるにちがいない。これを受けてモンテーニュは、「それにしても! 彼らときたら、半ズボンもはいていないのである」と、最後のフレーズをぴたりと決める。
ズボンの喩えは、「金持ちと貧乏人を考量してみると。まあいってみれば、はいているズボンがちがうだけなのに、たちまちにして、極端な格差が目に飛び込んでくるではないか」、でも「人間を評価する」には、「すっぽり包んだまま」ではだめで、「竹馬を外して」からでなければいけないという個所と呼応する(1・42「われわれのあいだの個人差について」)。そして今度は、この「竹馬」の比喩が、はるか遠く『エセー』最終部で「竹馬に乗ったとて、どっちみち自分の足で歩かなければいけない」と再登場する。「わたしの想念は、次々と続いてはいるのだが、遠く離れて続いているのだ」(3・9「空しさについて」)というとおりだ。
「人食い人種について」の議論が直前の章と結びついていることも忘れてはいけない。そこでは「人間を殺して犠牲に捧げ、神や自然を喜ばせる」こと、つまり供犠への言及がなされている。そしてモンテーニュは、新大陸の民が、征服者コルテスに三種類の贈り物をしたときのことばで、この章を締めくくっていた。「ここに奴隷が五人おります。もしもあなたが[…]残酷な神であるならば、彼らをお食べください。[…]優しい神であるならば、この香料と羽とをお納めください。もしも人間であるならば、ここにございます鳥と果物をお取りください」(1・29「節度について」)。はたしてコルテスはどうしたのだろうか?
脱線するかと思えば、いつのまにか元の道に戻っている『エセー』のディスクール。「わたしには、断片の数々をきちんと配置してくれる作戦指揮官は、めぐり合わせ以外にはいない。夢想が思い浮かぶがままに、わたしは、それらを積み重ねていく。だから、そうした夢想がひしめきあっていることもあれば、ぞろぞろと列をなしていることもある。でも、たとえ、そのようにして足並みが乱れていても、わたしの、ごくふつうの自然な歩みを見てほしい」(2・10「書物について」)と、作者も述べている。だから、『エセー』を読むなら、こちらも、あちこち引きずり回される覚悟をしておこう。「この陽気で、機知あふれる脱線や、変奏は、なんと美しいことでしょう!」(3・9「空しさについて」)と思って、『エセー』を楽しまないと損なのである。「わたしは、ぴょんぴょん、ぽんぽんと飛び跳ねる、詩的な進み方が好きだ」(3・9)と告白するとおりで、ワープして離れたところとつながるのがモンテーニュ流だ。「確かな線はいっさい引かない」(3・9)テクストと、ワープしながらじっくりと付き合っていきたい。
◇初出=『ふらんす』2017年3月号