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「老年にはなったけど…」四方田犬彦

第1回 もうすぐ70歳

1953年生まれのわたしは2023年に70歳になる。これまでは老人見習いのような感じであったが、これからは本格的に「高齢者」の域に突入する。さあ来たぞ。来るなら来い。 そこで現在自分が人生観、世界観(というとあまりに厳粛な感じがするので、そういいたくはないが、要するに毎日の普通の心構え)を整理して纏めておきたい。

かつてわたしにとって憧れの老人であった吉田健一は、生きていて一番いい時期は老年であると書いた。わたしは学生時代から『時間』や『思い出すこと』、『時をたたせるために』といった著作を愛読していて、彼が繰り返し老人になることの心地よさを説いていることに感銘を受けていた。
吉田健一は書いている。老人ということでただ唯一面倒なのは、生れてきてあっという間に老人になれるものではないということだ。老人になるにはひどく時間がかかる。それが面倒だと、彼はいった。
信じられないことだが、ヨシケンは65歳の若さで逝去している。風邪気味だったのを少し無理してロンドンとパリに向かい、留学先の娘を訪ねて東京に戻ってきたところ、風邪がこじれて肺炎となり、そのまま亡くなってしまったのだ。何ということだろう。今のわたしよりも5年も若い。わたしはすでに彼の享年を越えながらも、まだその老年のことがわからないのである。

『人、中年に到る』を一気に執筆したのは2010年の1月から3月にかけてのことである。わたしはオスロ大学に招かれ、日本文化について講義をすることになった。その期間、日本から解放されたわたしは、この書物の執筆に集中したのである。
わたしには昔からへそ曲がりのところがあって、外国を旅行するとき、いわゆる季節のいい時期を選ぶことをしない。若いころから、暑さきわまりない土地にはその暑さの絶頂のときに行き、寒冷地には寒さが極まるときに行くことを好んできた。その方が土地の本質を理解できると信じているからである。極寒のノルウェーに行くという考えはただちにわたしを魅惑した。そこで何冊かの講義ノートとパソコン、辞書、日本では読めなかった長編小説の文庫本をトランクに詰めると、コペンハーゲン経由で目的地に向かった。
オスロはどこを見渡しても雪しかなかった。暖流が流れているおかげで、港は不凍港であるというというのだが、どこまでも広い大学キャンパスのなかは白一色で、ぽつりぽつりと建物が建っているのが見える。人々は家から地下鉄駅までクロスカントリーをして進み、地下鉄から降りるとまた同じようにして雪のなかを歩いていく。わたしはいわゆる「ノルウェーの森」というのが、ミュンヒェンの森のような、鬱蒼とした樹木の黒く巨大な塊などではないことを知った。大雪原のところどころに灌木が茂みをなしているという程度なのだ。
夕暮れの薄明のなか、わたしは新雪を踏みながら、自分に宛がわれた教員宿舎を探し当てた。典型的な山小屋で、簡素な机と椅子、それに暖房装置が置かれているだけだった。長い間閉められたままになっていた窓を開けると、身を切るように冷たい大気がたちまち侵入してきた。恐ろしい静寂である。わたしは突然に幸福感に襲われた。週に三回ほど、雪のなかを歩いて教室のある建物に行き、その後で買い物をして小屋に戻ってくるだけでいい。残余の時間は何をしようか。わたしは手元にいかなる資料もないままに一冊の書物を書いてみようと決意した。 これまでわたしは自分の専門としてきた映画誌や比較文学の領域で何かを書くにあたっては、書斎と図書館にある厖大な書物や映像を前提としてきた。そうしたすでに存在する夥しい資料が作りあげる、蜘蛛の巣のような組織の内側において、執筆を続けてきた。雪に埋もれたオスロの山小屋には何もない。わたしは自分の記憶以外の何ものも携えず、ここに到来したのだ。であったとしたら記憶だけを頼りに、わたしはわたしとは何かについて書いてみようではないか。告白でもなければ、回想でもない。まったくの素手のまま、わたし自身を研究対象として書いてみようではないか。
幸いにも時間はいくらでもある。邪魔をするものは何ひとつない。日本語などどこを探しても聞こえてこない環境のなかで、ただ自分に向かい合うときにだけ日本語を用いるのだ。
到着した夜、わたしは大学の外へ食事に出た帰りに、花屋に立ち寄った。どこでどう栽培しているのか、色とりどりのチューリップが手に入った。宿舎に戻りそれを飾ってみると、部屋の雰囲気が少し和らいだような気がした。睡蓮がもう戻ってこない夏の思い出ならば、チューリップは夜にも消えることのない蝋燭の炎なのだという言葉が想い出された。大学時代に読書会で読んだ、バシュラールという科学哲学者の書物にあった言葉だ。
こうしてわたしは『人、中年に到る』という書物を書いた。書き上げたとき、わたしは57歳になっていた。

今、この文章を書いているわたしは69歳である。運がよければ、来年には70歳になっているだろう。そして12年前のオスロに日々を思い出しながら、同じように記憶だけを頼りに書物を書くことができないものかと考えている。わたしはエドガー・ポーの短編の語り手のように死に瀕しているわけではないし、カフカの長編の主人公のように、わけのわからない、馬鹿馬鹿しい裁判闘争に巻き込まれているわけでもない。わたしは自分が長い間憧れてきた生活の凡庸さに、少しずつ近づこうとしている。いつもと同じことをし、いつもと同じ道を歩き、偶然に発見した小さな差異に悦びを見つけようとする生活に、ゆっくりとだが向かおうとしている。 わたしは今、転居したばかりだ。4年前まで住んでいた横浜の家に戻ってきた。庭には放ったらかしになって蔓薔薇とミルテが思いのままに枝を伸ばし、隣家との間の柵にはジャスミンの蔓が、もうほぐしようもないほどに絡まっていた。置き去りにしていったミントは香り高い茂みを築き上げていた。そしてありとあらゆる種類の雑草が生い茂っていた。だがそれでも家はわたしを迎え入れてくれた。玄関と壁に若干の改修を施したのち、わたしはふたたびこの家の住人となった。
書物の荷解きはまだ完全には終わっていない。書斎は段ボールの山で、まだ辞書も取り出せないでいる。箱の一つひとつを荷解きするたびに、部屋の中の混沌が整理され、心が落ち着いていくのがわかる。
わたしは懐かしい机の前に坐って、この文章を書いている。おそらくこれが生涯で最後の引っ越しになるかもしれない。漠然とそう思いながら、二階から見える桜の樹を眺め、12年前のオスロにいたときの心境を想い出そうとしている。
転居の直前、わたしは長年の懸案であった大きな書物を書きあげた。かつてその人物の研究のために留学までしたという文学者にして映画監督の人物である。この数年の間、小さな仕事をできるかぎり減らしながら、ひたすら彼について、発表する宛てもなく執筆を続けてきた。いったい原稿用紙で何枚くらい書いたのだろうか。軽く三千枚はあるだろう。書き終わったときの大きな解放感のなかで、わたしは筆を執っている。もうこれからの人生で、これ以上大きな書物を書くことはないだろうという気がする。
ともあれ終わったのだ。わたしは今69歳で、これから先、いろいろなことを、小さいことであれ、大きいことであれ、一つひとつ終わらせていかなければならないのだが、その一つが何とか無事に終わったのだ。
わたしは頃合いを見て、ずっと書架に入れっぱなしにしてきた『人、中年に到る』を読み直してみようと思っている。12年前の自分が恋愛について、職業と労働について、老いと死について、どのような考えを抱いていたかを確かめてみたいと考えている。なるほどと膝を叩くこともあるだろうが、なんと未熟なと、思わず書物を閉じてしまうこともあるかもしれない。おそらくその違いが、わたしが過ごしたこの12年という歳月の意味なのかもしれない。
わたしが中学生時代から愛読してきたモンテーニュは、47歳のときに最初の『エセー』を発表し、8年後の55歳でその増補改訂版を世に問うた。さらにその後も59歳で亡くなるまで、機会あるたびに加筆と改訂を続けた。そのためわたしが最初に手にとった翻訳本では興味深いことに、二回にわたる加筆部分が明確にわかるように徴が付けられていた。徴を辿っていくことは面白いことだった。充分に懐疑的ではあるが寛容な精神をもった一人の人間の思考が、まるで蔓薔薇の枝が新しい蔓を伸ばし、思いがけず蕾を増やしていくように、自在に伸展していくさまがわかるからである。モンテーニュは自分を実験台として自己についての観念を語るとともに、その観念が時間とともにどのように変容していくかについても、客観的な形で提示してみようと試みたのである。
わたしにそのような真似ができるかどうかは心もとない。というのも、これまで人並みに日本の書物を読んできたが、詩の書き換えを含め、長い歳月の後になされた加筆というものに感心を覚えた記憶があまりないからだ。若く張り詰めた文章の後に、訳知り顔の弛緩した文章が続くといった例が少なくない。何とだらしのないことだろう。過去の自分に対決し、それを堂々と批判するといった加筆はきわめて稀なものだという印象が強い。わたしは『人、中年に到る』はそのままにして、もしそれが可能であるとすれば、新しい文体のもとに、新しい書物を執筆した方がいいだろうと判断した。

『人、中年に到る』を書いてから12年の間に、わたしは何をしたのだろうか。わたしは幸福だったのだろうか。それとも不幸だったのか。わたしは聡明に時を過ごすことができたのだろうか。それとも以前に増して、愚かしさに耽溺してしまったのだろうか。

さまざまな問いが心のなかに生じてくる。とてもそれを順序立てて語ることはできない。というのも何も完結していないからで、すべてが現在進行形であるからだ。人が他人事のように口にする「成熟」や「達観」といったものから、わたしはつねに縁遠いところにいた。おそらくこれからもそうだろう。わたしはただ変化しただけであり、その変化は今でも続いている。いつか、まったく偶発的な理由によって中断されるまで、わたしは変化を続けていくだろう。 オスロ大学での講義を終えて東京に戻ったわたしは、しばらくして、長い間躊躇っていたことを実行した。大学を退職したのである。
非常勤講師に採用されて以来、30年近く勤務してきた職場を去るにあたっては感慨がなかったわけではない。しかし大学に戻り、以前と変わらぬままに講義を行ない、教授会議に出席し、大学の煩雑な雑務を次々と片付けていくという日常に、心のなかで名状しがたい停滞感を感じるようになっていたのである。ワインの壜の底におりが溜まるように、時間のうちに何かが沈殿して、心が新しいもの、未知なるものへ向かうことを妨げているように感じられてきたのだ。それが否定しがたいものと化したとき、わたしは奉職してきた大学から退こうという気持ちに駆り立てられた。1年間の海外研修休暇の後わたしは退職届を提出し、それは大学側に受理された。
出来ごとというものは、単一の原因によって説明できるものではない。風が吹けば桶屋が儲かるといった単純な因果関係によって、世界は進行しているわけではない。一つの変化の背後にはさまざまな力が層をなして働いていて、それが「超決定」(難しくいうと「重層決定」)なるものを引き起こすというのが本当のところである。わたしの退職にも、今から考えてみると、いくつもの要因が重なりあっていた。
あるときわたしは、自分が自分の職業から人格的な反映を受けているのではないかという疑問に捕われた。医者は医者らしく、警察官は警察官らしくといったぐあいに、わたしは長年教師を務めてきたことで、知らない人から見ても、いかにも「先生」のように見えているのだろうか。いや、外見だけではない、気が付かないうちに、教師としての内面的自我を築き上げているのだろうか。この疑問に続いて生じたのは、自分が他の人にないある特殊な知識を所有しているという理由だけで、それを職業にしていいのだろうかという疑問であった。
わたしが大学の教員という枠組みのなかでしか事物を認識することができず、しかもそれに無自覚であり、いっこうに不自由を感じていないとすれば、わたしの認識の幅はひどく狭小なものに陥っているはずである。わたしは社会が公認するペルソナに自分を知らないままに合致させ、しかもその限界に気がついていないだけではないか。社会的なアイデンティティーとは別のところに真の自分を確立しておくことを、自分は長く怠ってきたのではないだろうか。
わたしは映画研究を日本のアカデミズムのなかで日本美術研究や古典文学研究と同格のものとして認知させるため、長い間孤軍奮闘していた。でも、もういいだろう。日本中のあちこちの大学が映画研究の講座を設けるようになったのだ。もうこれからは映画史のために公的な著作を著すことや啓蒙的な活動をすることから少しく距離を置き、自分のプライヴェイトな関心に応じて執筆活動を始めてもいいのではないか。いつまでも人のためにモノを書いているだけで、自分のことを置き去りにしているならば、後悔を残すばかりではないか。そう考えるに到ったのである。
60歳になる直前に、わたしは大学の研究室を去った。アカデミズムには都合30年、身を置いたことになる。『人、中年に到る』の後、わたしの生活が体験した最初の変化とは、このようなものであった。
今からしてみると、これは限りなく正しい判断であった。もしそのまま定年まで教壇に残る気でいたならば、わたしはおそらく学内行政の一翼を担わされる羽目になり、自分がもっとも苦手とする煩雑な作業のなかで突然に体調を崩して、重大な事態に陥っていただろう。たとえそうでなくとも、その期間に文筆業者としてほとんど何も、自分の納得のいく仕事を残せなかったかもしれない。同年齢の知人が大学に留まり、壮絶なる「戦死」を遂げたり、深刻な身体疾患に襲われたりしていることを見聞きするにつけ、自分もすぐその手前まで来ていて、崖っぷちを覗き込んでいたことに気付かされる。危ういところだった。
そう、わたしには、モノを書き出したことの20歳の自分に回帰したいという気持ちがあった。そのためには自分がこれまで帰属して来た共同体から脱出しなければならなかった。旧約聖書の『エレミア書』の喩に倣うならば、独りで荒地を彷徨うことが必要だったのだ。

わたしを襲った解放感には大きなものがあった。それは逆にいうならば、教員としての大学生活がいかに抑圧的なものであったかを意味していた。わたしはいっこうに講義に興味をもっていない学生に怒ることもなくなり、学内での狭小な党派主義が横行するもろもろの会議で書記を務めることもなくなった。長い間書こうとして、時間的余裕がないままに放置していた書物の執筆を再開し、近くにある市営スポーツセンターに通う。泳いだ後で市場に向かい、魚屋と八百屋を覗くという生活を開始した。

自分の生活のなかに、これまでのとは違う原理が登場してきたことを象徴的に物語る挿話を、ここでひとつ書いておきたい。
スポーツセンターは午前8時から入ることができる。10時ごろからは主婦中心の水泳教習が始まったりして、プールはけっこう賑やかになる。午後は子供たちがやってくる。だったらどうせだから、朝一番に行くことにしよう。朝の食事を終えたわたしは、週に二度、自転車に乗って向かうことにした。
8時を少しすぎたばかりのプールというのは、ほとんど人影がない。仕事前に軽くひと泳ぎするのが日常であるといった若い女性も見かけないわけではないが、たいがいは退職した初老の男性ばかりで、それも数人といったところである。わたしはがらんとしたプールで、思う存分に泳ぐことができた。
遠い昔の記憶が蘇ってきた。15歳のわたしは高校で水泳部に入っていた。夏休みになると学校の隅にある古い教室に泊まり込み、他校との競技大会に向けて練習に励むのである。一週間ほど合宿だが、とにかく午前も午後も泳いでばかりいるので、二日目あたりからは夜に寝ているときにも泳いでいる夢を見る。食事は近くの町中華(という言葉はまだなかったが)でとる。夏休みまでは普通に授業を受けていた学校の建物と運動場が、まったく異なった風に思われてくる。
それを専門用語で何というのか、わたしは知らない。とにかく「インターバル」という練習があり、25メートルのプールを泳ぎ切ってターンし、出発点に戻ってくるという練習を、嫌になるほど繰り返すのである。正確な数字は憶えていないが、50秒とか51秒だったような気がする。笛が合図だ。この練習を2分間に一度の割合で、まず十回繰り返す。ターンがうまくいき、短い時間で戻ってきた場合にはそれだけ休息時間が長くなるわけだが、何かの失敗で思いがけず時間を食ってしまった場合には、戻ってきてただちにまたスタートということになる。わたしも他の部員たちも、一週間、こればかり練習していたように憶えている。
ひさしぶりに25メートルのプールに入ったわたしは、しばらく水に浸かっているうちに、35年前の記憶をまざまざと思い出した。もちろんその後もいろいろなプールで泳いできたわけだが、あの夏の特訓の体験が身体に刻み込まれていたのである。わたしはプールの端から端までを全力を込めて泳いだ。長い間、運動を怠っていたせいか、軀はすっかり硬くなっている。おそらく高校生にときのように泳げなかったとしても、けっして気にしてはいけないと自分にいい聞かせながら。そしてそれが当然であるように、水中ですばやく(と自分では思っているのだが)ターンをし、帰路の25メートルを泳いだ。
出発点に戻ってきたわたしは、これもまた当然のことのように短い休息を取り、ふたたび25メートルに挑戦しようとした。だが、いつまで経っても笛が鳴らない。鳴るわけがないのである。そもそも「インターバル」の練習をしている者など、このがらんとしたプールに誰一人としていないからだ。ただわたしだけが、少年時代に軀に刷り込まれた練習の記憶を、無意識的に反復していただけの話だった。
ああ、もういいんだ。わたしはそう思った。もう他の高校の連中たちとタイムを競い合う必要はないのだ。全体で何位に食い込んだからといって、合宿の最後の日に褒められたり、悔しがったりすることもないのだ。一生懸命、タイムを短縮しようと努力したところで、誰もそれを証言してくれる者はいないし、大体がわたしの水泳に関心をもっている人など、誰もいない。 それではわたしは孤独に泳いでいることに落胆したのだろうか。その逆である。もうタイムを気にしないで泳げばいい。泳ぐのに飽きたらばさっさとプールサイドに出て、放心状態でいればいいのだし、スポーツセンターの外に出て、コンビニで白い熊の包装のあるアイスクリームを買い、公園のベンチで食べていても、誰にも何もいわれることはないのだ。わたしは両隣のコースの部員たちとタイムを競いながら泳ぐことから、もうとうの昔に解放されていた。とはいうもの軀だけがインターバルを憶えていた。
もういいんだ。わたしはもう一度、自分にいい聞かせた。もう両脇を見ながら、タイムの向上のことなど考えなくともいい。自分は高校の水泳部に始まってこの方、いつだってそんなことばかり考えてきたではないか。でも今では、右を向いても左を向いても、コースの隣を泳いでいる同級生など一人もいなくなってしまった。泳いでいるのは自分独りだし、タイムウォッチャーを片手にそれを見ている人間もいない。嫌だったらすぐにやめたっていいのだ。プールサイドに出て、好きなことをやっていいのだ。
そう、その通りだった。もう映画をアカデミズムのなかで認知させることに躍起になる必要もない。向学心のない学生たちや退屈な同僚たちに気を遣う必要もない。たった独りでモノを考え、好きなことを好きなように書いて暮らしていこう。
わたしは急に身軽になった自分を感じた。

日本では60歳まで真面目に勤め上げ、定年を迎えた勤め人たちが、ある日突然に帰属先を喪失してしまったために心身の均衡を崩すことが少なくないという。これまで体験したことのなかった解放感を前に、どう振る舞っていいのかがわからないのだと思う。わたしもまた解放感とともに、処置に困る浮遊感を感じなかったといえば嘘になるだろう。だがそれにもまして、書くという仕事を中断することもなく、好きなだけ集中しながら継続することができることの悦びの方がいやまさった。何も考えずにプールの水のなかに軀を浮かべているのは気持ちがよかった。心のなかで長い間に凝り固まってしまったものを水に浸し、ゆっくりと解きほぐしていくには、プールが最適なように思われた。
だがその一方で、ときにわたしが焦燥感に駆られたことがなかったとはいえない。自分が過去に書いたもののあまりに拙さに驚き、いったい何を勉強してきたのだろうと思い悩んだことはたびたびある。これまで中途半端にしか理解していなかったことが多すぎる。イスラム哲学についても、江戸時代の儒教についても、数学基礎論についても、自分はほとんど何も知らないではないか。他人の書物を紐解くたびに、わたしはこうした思いに囚われた。しかしそうしたことを学び直すだけの時間が、自分にはあるだろうか。やがて来るであろう死を前に、自由に思考を羽搏かせることのできる持ち時間がこれから減っていくばかりだというのに、その貴重な時間をわざわざそうしたまったく未知の知的領域のために費やすことができるのだろうか。未知への挑戦だって? まだまだ書架には、自分がまだ一度も読んだことのない書物が山のように並んでいるではないか。
解放感と焦燥感とは、実のところ、貨幣の裏表である。しかしたとえ日々の愚かしい雑務に追われ、生に解放が訪れなかったとしたら、心は解放を希求することも忘れてしまうことだろう。そして絶望のなかでいたずらに焦燥に駆られ、生を摩滅させてしまうだろう。わたしは人生を摩滅させたというよりも、人生そのものによって摩滅させられてしまった人たちを、これまで何人も間近に見てきたから、それが予測できるような気がしている。

これからわたしは『人、中年に到る』の12年後の続編を書こうとしている。だが、正直にいって、まだ決定的な通しタイトルが決まっていないことを告白しておかねばならない。
順序からいって中年の後は老年であるから、「人、老年に到る」というのはどうだろうという声がする。それは一見妥当そうに見える。70歳になるわたしは、制度的には「高齢者」の範疇に入るのであろうし、数年前から名画座ではシニア料金を利用させてもらっているのだ。
とはいうものの、わたしがもし老年を名乗ったとしたら、わたしに先行している数多くの高齢者はどういう感想を抱くであろうか。山折哲雄さんや金石範キムソッボンさん、海老坂武さんといった、わたしが敬愛してやまない長老たちは、「何を若造の癖をして」と一蹴してしまいそうな気がしないでもない。
わたしは昨日、91歳になる母親に会いにいった。彼女はコロナウイルスの厄難が終われば、またモロッコの砂漠に行ってみたいと、とんでもないことをいっている。こうした困った母親に手を焼いている息子が、どうして自分を老人だと威張ってみせることができるだろう。
誰もが年老いる。だが老人のプロはいない。すべての若者が「青春」という言葉に振り回され、わけもわからぬうちにその青春を終えてしまうように、ひょっとして多くの老人は老人であることの意味も充分にわからないままに老年を終えてしまうのではないか。わたしもまたそうなるのではないかという懸念がないわけではない。ましてわたしは老年のとば口に立ったばかりだ。そんな初心者が「いよいよ老境に入って」などと訳知り顔で口にしたら、笑われるばかりだろう。人は飛び込み台からプールに飛び込むように、一足飛びに老人になれるはずがない。少しずつ、少しずつ、老人になっていくのである。
次回からは、もっと具体的なことを書いてみることにしよう。

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著者略歴

  1. 四方田犬彦(よもた・いぬひこ)

    1953年生まれ。東京大学にて宗教学を、同大学院にて比較文学を専攻する。批評家、詩人。映画と文学を中心に幅広く文化現象について探究。『映画史への招待』でサントリー学芸賞、『モロッコ流謫』で伊藤整文学賞と講談社エッセイ賞、『ソウルの風景 記憶と変貌』で日本エッセイスト・クラブ賞、『詩の約束』で鮎川信夫賞受賞。近著に『さらば、ベイルート ジョスリーンは何と闘ったのか』『戒厳』がある。

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