第2回 忘却について
わたしとはわたしの記憶だ。はたしてそう断言してしまっていいのだろうか。わたしは考える。だが、わたしの内側にあって、わたしがどうしても考えることのできない部分もまた、強烈にわたしを作り上げているのではないか。わたしはその懸念から自由になることができない。
記憶を喪失してしまったらどうしよう。わたしはしばしば不安に襲われる。誰もがそうだろう。そのときわたしは、たちまち自分のアイデンティティーを喪失してしまうのだろうか。
生きるにあたって何よりも重要なのは過去についての記憶であり、わたしとはわたしの記憶だ。多くの人がそう考えている。だが忘れてしまうというのは、本当に不幸なことなのだろうか。記憶が甘美なものであるか、悲惨なものであるかは、ひとまず問わない。忘れることのできない記憶、癒しがたい記憶を携えながらこれからの生を生き続けることが、はたして幸福なのだろうか。だれがそれを受け合ってくれるのだろうか。
学生時代に太宰治が戦時中に書いた『お伽草子』を読んで、わたしは妙な感銘を受けたことがあった。
浦島太郎の伝説を知らない者はいない。海岸で子供たちに虐められている亀を救ったことが機縁となって竜宮城に招かれ、乙姫様と愉しい日々を過ごした男の話である。
あるとき太郎は故郷が懐かしくなり、暇乞いをする。乙姫は餞別にと、彼に玉手箱を与える。太郎が故郷に戻ってみると、三百年もの歳月が過ぎていたことがわかる。驚いて玉手箱を開けてみると、たちまち白い煙が立ち昇り、太郎は恐ろしい老人になってしまう。彼は乙姫の寵愛どころか、かつての故郷の人々も、そして何よりも若さを失ってしまったのだ。
太宰治はこの話をきわめて独自の形に脚色した。まず彼は竜宮を退屈きわまりない場所に設定した。昼もなければ夜もない。いつも五月の朝のようにさわやかで、樹陰のように緑の光線に満ちあふれている。太郎は亀に勧められ、海の桜桃なるものを口にする。三百年にわたって老いることがないという、神秘の果実である。
乙姫様は口をきくわけでもなく、だからといって太郎に嫌悪の感を抱いているわけではない。ただいつも微かに微笑しているだけである。どこからともなく琴の音が聞こえてくる。太郎は何をしても許されており、快適といえば快適である。とはいえ俗人である以上、何日もが経つうちに地上の生活が懐かしく思えてくる。泣いたり笑ったり、また怒ったりしている俗人たちの世界がなんだか美しいもののようにすら思えてくる。
太郎が突然に暇乞いをしたところで、乙姫様は驚くわけでもない。彼女はいつものように物静かで聡明である。ただいつものように無言の微笑でそれを受け容れ、餞別に小さな貝殻を差し出す。五彩の光を放つ二枚貝だ。太郎はそれを受けとり、亀の甲羅に乗って故郷の浜辺に到着する。
亀は太郎に向かって、この貝は開けて見ない方がいいと忠告する。中には竜宮の精気のようなものが籠っていて、陸上で開けたとたんに奇怪な蜃気楼が立ち昇ったりすれば、気が狂ってしまうかもしれないし、海の潮が噴出して大洪水になるともかぎらないと、親切心から警告を発する。だが乙姫様がそのような悪意を抱くはずもない。太郎は彼女を信じている。
案の定、太郎がいない間に、地上では三百年という時間が過ぎていた。生家に辿り着いた太郎は、しばらく思案した後に、二枚貝を開いてみる。たちまち白い煙が立ち昇り、彼は白髪頭の老人と化してしまう。
さて、ここから太宰の独自の解釈が始まる。「気の毒だ、馬鹿だ、などというのは、私たち俗人の勝手な盲断に過ぎない。三百歳になったのは、浦島にとって、決して不幸ではなかったのだ。」「浦島は、立ち昇る煙それ自体で救われているのである。貝殻の底には、何も残っていなくたっていい。そんなものは問題ではないのだ。」
貝殻を開ける・開けないは、太郎の自由であった。そして煙を浴びたおかげで、太郎は竜宮城で過ごした日々の記憶を残らず忘れてしまったのである。これは乙姫様の「深い慈悲」であったと、太宰は書いている。
「浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたという。」
一般に知られている話では、浦島太郎は開けてはならぬという玉手箱を開けてしまったがゆえに老人となってしまった。乙姫様の忠告を蔑ろにした愚行の報いとして、彼は巨大な喪失感のうちに生きなければならなくなったとされている。だが太宰の解釈は逆で、竜宮城での快適な暮らしを忘れ去ることによって、太郎がむしろ幸福な晩年を過ごしたのだと語っている。
たとえいかに奇妙な場所であったとしても、竜宮城はそれなりに快適で幸福な場所であった。その竜宮城への回帰の道を閉ざされ、永遠に到達できないものとして、思い出を抱き続けることは、やはり不幸なことでなくて何であろう。それは残りの人生を深い後悔のうちに過ごすことだ。であるならばいっそのこと、すべての思い出があっさり消滅してしまった方が人間は幸福になれるのではないか。太宰はそう説いているのである。乙姫様はちゃんとそこまでを見通していた。この聡明な女性は、自分とともにすごした日々を太郎に忘れさせることで、彼を永遠の喪失感から解放してあげたのである。
忘却は不幸なことではない。忘却できないことこそ不幸なのだ。『お伽草子』を読んで以来、わたしを捉えているのは、この逆説である。
記憶を喪失することの不幸に対し、記憶から解放されることの幸福が存在している。想い出すのも忌わしい記憶が消滅するというわけではない。幸福な記憶も含め、いっさいの記憶が消滅するという事態のことである。それは自分を失うということだろうか。いや、むしろ、自我に白紙還元を施し、生をもう一度やり直すことに通じているように思われる(もっとも、もしもそれが完璧に可能であった場合に限られているのであるが)。だがそれが、人格を持った一人の人間にとって死に等しい事態であることを、誰が指摘することだろう。
わたしは空想する。
自分の内側にある、あの想起するだけで忌々しい時代の思い出から自由になれたとしたら、心はどれほど快哉を叫ぶことだろう。あの陰鬱な小部屋、あの憂鬱そうな表情の人々、あの湿った空気と思いやりのない言葉、責め立てるような眼差しが、脳裡からいかなる痕跡もともなわず消滅してくれたとしたら、わたしはどれほどの幸福感に襲われることだろう。
わたしはさらに子供じみた空想を続ける。
もしビートルズの曲の記憶が消えてしまい、彼ら4人のことをまったく知らないままに人生を過ごしながら、何かの偶然で「イエスタデイ」や「ヘイ、ジュード」の旋律を耳にしてしまうことがあったとしたら。その瞬間、わたしはどれほどの歓喜に包まれることだろうか! ビートルズばかりではない。ヴェルディの『リゴレット』のアリアは、モーツァルトの幻想的なピアノ曲はどうだろうか。おそらく心はかつて15歳のときに戻ることができるだろう。初めてこうした曲を聴いたときの、世界がどこまでも展がっていくような感動を、もう一度体験することができるだろう。
ビートルズとヴェルディ、モーツァルト。わたしはその年以来、何十回となく、繰り返し彼らの音楽を聴いてきた。おかげでいくつかの曲では、その隅々までを記憶していて、その再現が正確かどうかは別にして、いつでもそれを口遊むことができる。退屈なとき、嫌なことに出逢って気持ちが鬱屈しているとき、それが自分の心に安堵をもたらしてくれることを、わたしは体験的に知っている。とはいえそれは、初めてラジオの深夜放送でビートルズの「新曲」を耳にしたときの驚異とはまったく別のものである。音楽というものは、厳密にいうならば、一回かぎりの体験だった。わたしは「ヘイ、ジュード」を聴きながら、いったい自分はどこへ連れ去られていくのだろうという、途方もない気持ちを抱いていた。もしこの偉大なという曲の記憶が都合よくなくなってしまったなら、わたしはその新鮮な感動をふたたび自分のものにできるかもしれないのだ。
わたしが子供の頃、まだ「認知症」という言葉は使われていなかった。日本人男性の平均寿命がまだ60歳代で、女性のそれが男性をわずかに越していると小学校で教えられた時代のことである。
平均寿命がどんどん伸長し、90歳を越しても平然とそのあたりを元気に闊歩している人たちが増えてくるにつれて、高齢化による記憶と認識の障害が深刻なものとして論じられるようになった。
もっとも年齢について、数字だけを根拠に論を進めていくわけにはいかない。従来は単純に先天的なものだと考えられていた男女の性を語るさいに、ある時期からわれわれは、生理学的な意味での「セックス」と、文化と個人史によって後天的に形成される「ジェンダー」とを、ひとたび理論的に分けて論じなければならなくなった。同じように、加齢agingの問題を考えるときにも、生理的肉体として否定しがたく現前している年齢と、社会的に形成され、個人が内面化を要請されている年齢とを、不用意に混同してはならないだろう。「年寄りは年寄りらしく」といった表現を通して誰もが踏襲(あるいは反発)することを強いられている年齢というものは、イデオロギー的な形成物にすぎない。われわれは社会によって「年齢」を強要され、指定された年齢を甘受するように命じられているのだ。
だがそうした事実を前提として踏まえたとしても、平均寿命が今日のように予想もしなかった伸長を示している現在、誰もが認知症の問題を避けて通ることはできないことは事実である。 わたしの生はこの先、どれくらいの時間にわたって続いていくのか。それは定かではないし、そこには何の保証もない。だが時間が経過すればするほどに、認知症の圏内に接近していく可能性はどんどん高まっていく。逃れるすべはない。すでにわたしの知っている年長者のいくたりかは、みごとに記憶が消滅した世界の住人と化しており、わたしはかつてのように彼らと愉快に対話をしたり、連絡を取りあったりすることができなくなってしまった。彼らの存在は、その家族や側近の者たちがときおり声を潜めながら示す、何か忌わしいものと化してしまった。わたしは間接的に彼らについてなされた噂や報告を頼りに、それとなく彼らの現状を推し量るばかりである。
わたしはこうした年長者を気の毒に思うが、かといって、とりたてて罪障感に襲われるわけではない。というのも、わたしもまた彼らの年齢に到達したとき、彼らと同様に認知症を患っているかもしれないからだ。いずれは自分もなるぞ。なるからにはそれなりの覚悟を決めておかなければならぬと、わたしは自分にいい聞かせなければならない。
いつからか、わたしは誰かの身の上に起こることは、自分の身に起こっても何の不思議はないと考えるようになった。わたしだけが運よく厄難を免れるということはありえないのだ。およそ認知症なる症状が高齢者に到来する事態であるとすれば、それがどうしてわたしの身を訪れないことがあるだろう。
わたしはふと考えてみる。わたしが今こうしてパソコンを前に綴っている文章を、いやさらに遡って、11年前に江湖に問うた『人、中年に到る』という書物を、認知症を患うことになった未来のわたしはどのように受け止め、どのように読むだろうか。彼はここに書かれている言葉を頼りに、喪失したきりになっていた自分の過去を想起し、それをなんとか再構成を企てることができるのだろうか。自分が目の当たりにしている言葉を前に、それがかつて自分が確かに書いた文章であることを認識することができるだろうか。いや、ひょっとしたら彼は、書物を読むという行為すらも忘れてしまっているかもしれないのだ。
現在のわたしにとって認知症は、いまだに訪れたことのない未知の、広大な海である。この海のさらに彼方には、これも未知そのものである死の大陸が控えているわけだが、それについては別のところで書くことにしよう。認知症の海に少しずつ船を漕ぎ出だそうとしているわたしにとって、周囲の風景はどのように見えるのだろうか。それは際限もなく昏い波ばかりが打ち寄せる、不吉で陰鬱な海なのだろうか。それとも、後に失語症に苦しむ晩年を迎えることになるが、ボードレールが長編詩「旅」のなかで書いたように、気紛れな雲の戯れの下、豪奢な落日に輝くといった、知られざる期待の海なのだろうか。このような夢想につい耽ってしまうわたしに、太宰治のコントの教えが微かに残響していることを、わたしは否定しない。
自分が認知症の圏内に陥ってしまったと知った人間が、名状しがたい苛立ちと焦燥感に苛まれることは理解できる。それは死の宣告に似ているようで、根源的なところでそれとは異なっているように思われる。ある意味でそれは不死の宣告なのだ。
今ここで語っているわたし、世界を透明に認識していると信じているはずの<わたし>には、何が起きるのだろう。彼は生命の存続は保証されながらも認識の危機を宣告され、緩やかにではあるが思考の摩滅のサイクルのなかに参入してしまう。薄れゆく記憶と迫りくる痴呆。おそらくこの状況をもっとも正確に描いてみせたのは、『ガリヴァー旅行記』を著したスウィフトだろう。
矮人国、巨人国と、世界のさまざまな地域で奇怪な種族を目の当たりにしてきた船医ガリヴァーは、ある王国でストラルドブルグと呼ばれている一群の人間たちに出逢う。彼らは一般人の間でごく稀に生まれる特異体質の人間で、その誕生は忌わしい凶事と見なされている。ストラルドブルグは不死という宿命を担っている。そのため若くして意気消沈し、八十歳を過ぎるあたりで、あらゆる痴愚欠点を併せもつようになる。頑固で、貪欲で、不機嫌で、あらゆる人間的な愛情に無関心となってしまう。九十歳ともなると歯も頭髪も失い、日常会話すら困難となる。もちろん記憶もなくなる。法律的には死を宣告され、あらゆる財産を没収されてしまうため、国家のわずかな援助によって生きるしかないのだが、すべての人間から嫌われ、軽蔑の的となる。彼らの唯一の希望は死ぬことであるが、それがかなわないため、一般人に対し激しい羨望と憎悪を抱いている。死という無常の宿命から解放された人類とはどれほど幸福なことだろうと、最初は会見を期待していたガリヴァーであったが、現実のストラルドブルグたちの不気味な醜さを前に、深い厭生感に囚われてしまう。
人間の不死をめぐるこの恐ろしいヴィジョンは、作者であるスウィフト本人が晩年に至って痴呆症となり、言語も記憶も喪失しながら生きながらえたという事実を知るにつけ、いっそう恐ろしいものに思われてくる。そういえばわたしははるか昔、学生だったころ、18世紀ダブリンに生きたこの人物を主題に修士論文を執筆したことがあった。今から思うとその忍耐強さに驚嘆するしかないが、3年の間、ただひたすらにスウィフトを読み続けたのだ。それが幸福なことであったかどうかは、わからない。今になって思い出しても、彼の著作は、いたるところで不気味な戦慄の走る、グロテスクで残酷なものであった。
認知症が初めて自覚されるようになった時期、わが身に降りかかってくる焦燥感と絶望。あることは鮮明に記憶していても、別のあることは朧げにしか想起することができず、さらに別のことに到っては、そのような出来ごとがあったことをきれいさっぱりと失念しているという脳の不均衡。まるで脳が他者に進駐されているかのようだ。だがこの絶望的な事態と何とか折り合いをつけたとき、人はひょっとして考えてもみなかった心的状態に到達するのではないだろうか。
認知症に罹った高齢者の少なからぬ者たちには、現在に対する意識が次々と欠落していく一方で、過去の記憶が強烈な形でせり上がってくることがある。現在と過去を分割していた閾が低くなるにつれ、生と死の間の境界もが少しずつ曖昧となり、その結果、意識のなかにもうとうに死んでいた人物が出現して、親し気に話しかけてきたりする。彼らは何かの事情で生き返ってきたわけではない。すでに死んでいるにもかかわらず、平然と会いに来るのであって、そこには意識がまだ混濁していなかった時期に特徴的だった生と死の対立や分断の認識がなされなくなっているのである。
森崎東の『ペコロスの母に会いに行く』(2013)は興味深いフィルムである。わたしはこの作品を、その年の日本映画のベスト1に選んだ。漫画家の岡野雄一の手になる四コマ漫画を原作としているフィルムなのだが、認知症についてのヴィヴィッドな観察眼と共感に満ちた挿話が次々と語られていく。岡野と思しき主人公の中年男性は、認知症となった高齢の母親をときおり施設に訪れる。もっとも彼女はもはや息子を見分けることができない。にもかかわらず息子は訪問のたびごとに、母親を通して自分の過去をめぐる新しい発見をすることになる。母親が携えてきた時間の向こう側に、幾層もの歴史の重なり合いを見る。
子供の頃にその名前だけを聞かされ、強烈な恐怖に襲われていた「ヨゴエハッチョウ」という女妖怪の正体は、実は眼前の母親だったのではないだろうか。この女妖怪にわが身を預けないかぎり、自分は母親を理解することはできないのではないか。息子は戸惑い、立ち尽くす。心の内側に母親への恐怖が眠っていたことを想い出したのだ。一方、母親はといえば、息子のこうした思いとは裏腹に心を思うがままに開放し、生きているうちは何かと距離のあった夫や妹が、死んでからの方が身近に自分に会いにくるようになったと告白する。
ヤン ヨンヒの『スープとイデオロギー』(2021)の母親もまた、歴史のなかで翻弄されてきた自分が、認知症のさなかに無意識から浮かび上がってくるのを体験する。彼女は北朝鮮に渡ってしまった三人の息子が夕飯が近いからもうすぐ家に戻ってくるだろうと、娘に向かって当然のことのように語る。この母親は生きながらにして肉親と次々と別離するという、あまりに悲痛な人生を生きてきた。そのため、ひとたび記憶の分節線が曖昧になったと知るや、向こう側の世界に渡ってしまった人々をただちにこちら側へと呼び招くことになったのだ。
こうした一連のフィルムのなかでもっとも大掛かりなものは、タイのアピチャッポン・ウィラーセータクンが撮った『ブンミおじさんの森』(2010)である。主人公の老人プンミは森のなかにただ一人で住み、自分の死期が遠くないことに気付く。彼の心残りは若き日、政府に命じられるまま、共産主義を唱える若者たちの虐殺に加担したことだ。昼でも薄暗い密林のかたわらに小屋を設け、ランプひとつで夕食をとっていると、とうの昔に亡くなって久しい妻が突然に現われ、いっしょに食卓を囲む。かと思うと巨大な猿が到来する。子供の頃、森の奥で失踪してしまった弟が、猿になって戻ってきたのだ。
プンミおじさんはいささかも動じることなく、彼らを招いて静かに食事をする。やがて彼は山奥の洞窟を死に場所と定め、居合わせた者たちを連れてそこへ赴く。もはや死の恐怖はとうに消滅している。それどころか、彼は自分の前世を自由に想い出したり、来世を予測できるまでになっている。
主人公は死を前にして、現世の記憶の枠組みからすっかり解放されてしまった。いや、それどころか、生者と死者、人間と動物との間に横たわる境界をも超えてしまい、過去・現在・未来を自在に往還できる力を身に付けている。この彼の精神の状態を今日の医学用語を援用して認知症と呼んだところで、ほとんど意味のないことだろう。プンミおじさんは近代人が(ひとたび喪失したものの)いまだに回復できないでいる、森の精霊に守られた世界の天蓋の下に生きているのだ。世俗的時間の秩序を超えたとき、はじめて人は生と死の境界を超え、それを幸福なこととして受け取ることができるようになる。その必要条件として求められているのは現世の出来ごとをめぐる忘却である。目の当たりにして来た悲痛な出来ごとを記憶として保持することから解放されることで、人は初めて死者たちを迎え入れ、彼らと分け隔てなく、親密に語り合うことができるのだ。
わたしは認知症について少なからぬ書物を読んだが、そのなかで思わず蒙を啓かれたと共感したもののなかに、六車由実の『介護民俗学へようこそ!』(新潮社)があった。著者は民俗学の研究家としてしばらく大学で教鞭を執っていたが、その後に介護士となったという人物であり、民俗学の方法論のひとつである「聞き書き」を介護の現場で用いることに成果を挙げている。わたしが先に言及した『ペコロスの母に会いに行く』の原作者である岡野雄一にも触れていて、その意味でわたしは、自分の関心領域と彼女の方法論の近さを感じ取ったのだった。
介護士としての六車さんの根底にあるのは、認知症を単純に治療すべき問題としては捉えないという姿勢である。認知症の者たちはそれぞれに固有の世界をもっている。彼らの生きている世界を欠落とは見なさず、逆に「もうひとつの豊かさ」として了解することの方が、介護する側にも介護される側にも幸福なことではないか。これが彼女の基本的姿勢である。日本では古来から「神遊び」「仏遊び」といって、巫覡の身体を通して神仏に地上に降臨してもらい、彼らと場をともにしながら歓びを分かち合うという習慣があった。不謹慎の謗りを免れない言葉であるかもしれないが、認知症に向かい合うとは実のところ、その認知症と「ともに遊ぶ」ことではないかと、六車は語っている。日常的に数多くの認知症の介護に携わってきた人にして、はじめて可能な表現かもしれない。
認知症のさなかにある者は次々と話をする。彼らの語りのなかでは、とうに死んでしまっているはずの家族が会いに来たり、もとから家に住み着いていたりする。それを記憶障害であるとか妄想といったレッテルのもとに、一言で片づけてしまってはならない。日本には『遠野物語』がそうであったように、名もない人々が面白おかしい物語を互いにしあい、歓びあうという伝統文化があった。認知症の人たちが口にする語りとは、それが現代にあって、村落共同体を離れた個人の口から発せられる物語ではないだろうか。
ひとりの女性が昔話を語る。いくたびも、いくたびも繰り返す。そのたびごとに記憶が蘇ってくるのか、少しずつ細かな挿話が付け加えられていき、微妙な変化が生じてくる。日によって、また聞き手によって、登場人物が入れ替わったりすることもあれば、語りの順序が逆になっていたりする。だがこうして語りが変幻自在に発展していくありさまこそ、まさに物語が誕生しようとする原初の瞬間ではないだろうか。民俗学者である六車はそれを、「昔話の語りの原風景」であると呼ぶ。
認知症の人たちは平然と時空を飛び越えてしまう。生者と死者の境界をも乗り越え、眼前の現実から、眼には見えていないもののその傍らに存在している別の現実へ、さらに第三の現実へと移っていく。世界は多元的であり、往還が自在であり、しかも未知に満ちている。
「現実はひとつであり、認知症の人たちの見ている世界もまたひとつであり、だとすれば、認知症の人たちの世界を共にすることで、凝り固まった自分たちの世界もより豊かになるのではないだろうか。」
ここでもわたしは先に名を挙げたアピチャッポンに出くわしてしまうことになる。彼が最初に監督した長編ドキュメンタリー『真昼の不思議な物体』のことだ。このフィルムをはたしてドキュメンタリーと呼んでよいのかは、いまだに自信がない。というのも、いかにも真実の証言記録という風に始まりながら、あるときから語りが荒唐無稽な領域へと突入してしまうからである。
フィルムはイサーン(タイ東北部)のある田舎町から始まる。貧困と社会的矛盾、流入民の生活の困難といった状況が、いかにも社会派的ドキュメンタリーのタッチで紹介される。だがあるときひとりの少年が、空中に不思議な飛行物体を目撃したと証言したあたりから語りに転調が生じる。それを聞きつけたひとりの村人が謎の少年を目撃したといい出し、それが契機となって村人たちがめいめい、好き勝手に物語を思いついては、カメラに向かって語り出す。先に言及された謎の少年の物語にはどんどん尾鰭がついてゆく。正真正銘の宇宙人だったと断言する者もいれば、あの子供はセメント詰めにされ、どこかに埋められているといい張る者も出てくる。いったい何が真実で、何が虚構であるかがわからない。観客がすっかり当惑していると、画面はいつしか舞台となった村を離れ、バンコクすらも素通りして、南タイの浜辺へと移っていく。そこでは子供たちが犬と無心に遊んでいる……。
『真昼の不思議な物体』は、子供たちの自在の造話力に委ねられたフィルムである。世界は一元的原理によって、厳粛に形成されているのではない。語り方によって無数に分岐し、それぞれが互いを排除しないままに進展していく多元世界であり、そこには真実と虚偽の対立はない。いや、それどころか、記憶と忘却の区別すら存在していない。物語は語られる先から消滅してゆき、ほんの少し異なった、別の物語にとって替わられる。だがそれとて一瞬のことで、さらに次の物語が、まるで無限に存在しているかのように出番を待っている。しかもそうした物語という物語が真実であり、証言者の記憶に基づいているという保証はどこにもない。アピチャッポンが視覚化してみせたこの世界とは、実は大江健三郎が『同時代ゲーム』を発表して以来、1980年代から現在に到るまで、故郷の森を舞台に繰り返し語り続けた、ありもしない昔話の空間にも通じている。
わたしは書きながら考えている。
もし来るべきときにわたしが認知症に陥ったとしたら、わたしはここに記したことをはたして記憶しているだろうか。その内容どころか、それを書いたということさえも忘れてしまっているかもしれない。とはいえ、まったき忘却のなかでも、わたしが何十年もの習慣としてモノを書いているとしたら。この空想はわたしを夢中にさせる。いったいわたしは何を書いていることだろう。記憶という記憶を喪失した後でわたしが向かおうとするエクリチュールは、おそらくサミュエル・ベケットが試みたものに近づいていくのではないだろうか。