白水社のwebマガジン

MENU

「老年にはなったけど…」四方田犬彦

第3回 蝸牛のごとき勉強について

世の中にはひとつの言語を学ぶと自動的にそれをスライドさせて、いつの間にか隣にある言語もできるようになってしまうという人たちがいる。わたしにはそれがどうしてもできない。羨ましいとは思うのだが、自分が語学に関しては凡庸な才能しかもちあわせていないことは、子供のころから自覚していた。
だからキチンキチンと、煉瓦を積み上げるように勉強していかなければならない。まさに蝸牛のごとし。書物を読んでいてわからない単語にであうと、そのたびごとに立ち止まって辞書に相談し、しばらく考えてから先に進む。わたしはあるときから、勉強というのはこうした身振りの際限のない繰り返しであると認識するようになった。
外国語で書かれた一冊の本を読んでいるうちに、その書物の癖やら著者の好みのいい回しなどがだんだんわかってきて、安心して読めるということはある。大概の本はそうできていて、すっ飛ばして読んだり、当てずっぽうに見当をつけて先に進むことができるようになる。けれども細かく論旨を辿ろうと思ったり、必要あって訳筆を振るおうとすると、それだけで、どこかで躓いてしまう。海で泳いでいていつの間にか足の立たない深いところにまで進んでしまうことがあるが、そのときの感じに何となく似ている。
いったい何が書かれているのか、という問題ではない。著者がなぜそのようなことにムキになって、くどくどと語っているのかがわからないといったときのことである。何となくはわかるのだが、自分の言葉に直そうとするとそれができない。読み飛ばすというのと、自分で訳文を作成できるというのはまったく異なった行為であり、訳文をちゃんと綴ることができてこそ、人は眼前にある文章を充分に咀嚼できたことになる。いささか昔気質のいい方かもしれないが、わたしはそう考えている。わたしは日本語で書く人間である以上、外国語の文脈のなかで気楽にわかったつもりでいてもダメなのである。
急いで読んではならない。あらゆる意味で、速く読むことは禁物だ。もう60歳代も終わりに近くなるといいのは、急いで必要箇所を読み飛ばし、情報量だけを摂取すれば後の滓は不要、といったたぐいの読書をせずにすむようになったことである。ゆっくり読めばいい。気が向けばそこで立ち止まり、ああだこうだと夢想を手繰り寄せながら、また元の場所に戻って読み進めていけば、それで充分なのだ。
一冊の書物を読んでいると、以前に読んだ他の書物が次々と想い出されてくる。書架にいってそれを取り出し読み耽っていると、いつの間にか最初に読んでいた書物が置き去りにされてしまい、心の関心がどんどん別の方へと移ってしまう。しばらくして我を取り戻りそもそもの書物の読みさしの部分に戻ると、書物は最初、不機嫌そうな顔をしている。けれどもやがて気を取り直し、もう一度わたしの精神に付き合ってくれる。

わたしの机のうえにはさまざまな辞書が散らばっている。
表紙が剝がれてボロボロになった英和辞典。表紙が黄色だったり、灰青色だったり、何冊目かの仏日辞典。娘の結婚資金を捻出するために金素雲キムソウン先生が独力で作り上げた韓日辞典。こんなもの、どうして買ったのだろうといまだに思うイタリア料理語辞典。せっかく手に入れたものの、ほとんど使いこなせなかったフリウリ語=イタリア語辞典(イタリア東北部には、80万人が使用するそのような言語が、確固として存在しているのである)。電池が切れたまま放りっぱなしにしている、インドネシア語=日本語の電子辞書・・・・。
どの辞書にも思い出がある。それを買い求めた動機。場所と時期。手に持ったときの重さと感触。紙の匂い。ときおり挿入されている絵図の不思議な雰囲気。折れてしまったり、破れてしまった頁。わたしの手元にあるもっとも古い辞書は14歳のときに買い求めた独日辞典である。小ぶりで細長いこの辞書は、今でも薄い頁を捲るたびに独特の香りが立ち上ってくる。
わたしは机に散らばっている辞書のなかから、一冊の辞書を手に取ってみせる。ときどき見かけるのだが、なかなか意味の全体を把握できないでいるフランス語の単語を、いい機会だからこの際キチンと理解しておきたいと思ったからだ。ところが何としたことだろう、辞書にはその単語が掲載されていない。慌てて別の単語を引こうとするが、それもまた載っていない。ほんのわずかではあるが、それと綴りの異なる単語が載っている。わたしは自己嫌悪に襲われる。いったい自分は何という思い違いをしていたのだろう。こんな簡単な単語の綴りさえ引きそびれてしまうのだから。
すっかりしどろもどろになったところで、わたしはその辞書が葡日辞書であったことに気付く。つい先ほど、ポルトガル語で知りたい言葉があって、わざわざそれを本棚の隅から取り出してきたことを、雑事にかまけてすっかり忘れてたのだ。慌てていつもの仏日辞書を探すと、はたしてそれはいつも通り、机の上、目の前にあった。知りたい単語はただちに判明し、わたしは胸を撫で下ろした。
こうした間違いなら、オッチョコチョイの出来ごとなので、笑ってすますことができる。だが次に述べるケースは、いささか深刻な気持ちにならなくもない。
オックスフォードの英英でもいい、プチ・ロベールの仏仏でもいい。ちょっと日本語の辞書にはでてこない単語を調べようとして、重い辞書を本棚から引き摺りだし、机の上に拡げてみる。お目当ての言葉はただちに見つかった。やったねと思った瞬間、わたしはあることに気付く。その単語の説明を読んでいくうちに、例文のひとつの下に万年筆で傍線が引かれているのだ。
万年筆を用いなくなってもう長い歳月が経っているのだから、これは相当昔、おそらく大学院にいて論文を書いていたころに引いたものだろう。わたしは見当をつける。ということは、もう40年以上の歳月が流れているわけだ。そこで気になって、その例文に使われている別の単語を調べてみると、その項にも同じ万年筆で傍線が引かれている。しかも細かな字で、書き込みまでがなされている! 
何ということはない。わたしは40年以上前に調べ、勉強したつもりになったいる単語をすっかり忘れてしまい、一冊のぶ厚い辞書のなかで、まったく同じ経路を辿って調べごとをしていたのだ。
こうした体験が二度三度も続くとだんだん心配になってくる。いったいこの40年にわたって自分は何を勉強していたのだろう。調べごとをするのだといって部屋に閉じこもりながら、調べては忘れ、調べては忘れという作業をただただ繰り返してきただけではないか。
いささか尾籠な喩えではあるが、ファーブルの『昆虫記』に地下の洞のなかに閉じこもり、自分が排泄した糞を食べてはふたたび排泄し、さらにそれを口にしてやまないコガネムシの話があるが、ひょっとして自分もまた研究と称して、似たようなことを続けてきただけではないだろうか。なるほど、かつてわたしはその単語の意味を苦心して調べ上げ、その用例を理解していたのだった。ただしばらくしてそれをすっかり忘れ、記憶はみごとにリセットされてしまった。そこでまたしても「初心に戻り」同じことを行なっている。ひょっとしたら、これからの人生でも、また同じ単語を調べてみるのかもしれない。わたしにはそれが自分の宿命のような気がしている。

ギリシャ神話にシジフォスという王様がいた。
生まれつき才知に長けていて、死神の手に手錠をかけてしまったり、冥界から脱走して現世に戻ったり、さんざん神々を馬鹿にしてきた。そこでとうとうゼウスに捕らえられ、誰もいない荒地で巨岩を山の頂上まで運び上げるという苦役を課せられることになった。汗水を垂らし、やっとのことで岩を運び上げると、岩は自動的に坂の下へと転がり落ちていく。シジフォスはしかたなくもと来た坂を下り、ふたたび岩を頂へと運び上げようとする。いつまで経っても終わらない。神々は彼に、未来永劫に続く劫罰を宣告したのだ。
めちゃくちゃな、わけのわからない(アプシュルド)話である。人間はこのシジフォスのように、何の意味もなく苦役を続けているだけでいいのだろうか。彼を自由にしてやるべきだ。
前世紀には、そう考えて抵抗の教えを説いた人物がいた。20歳代のわたしのとって憧れの的であった、アルベール・カミュという哲学者である。だが現在のわたしは少し違う考え方をしている。
ひょっとしてこのシジフォスは、みずから望んでこの巨岩運びを志願したのではないだろうか。たまたま王様の一族に生まれついたものだから、子供のころから泥遊びも土なげごっこも自由にさせてもらえず、他の子供たちが泥だらけになって思う存分遊び回っているのを羨ましく眺めていた。彼に課せられた刑罰、つまり巨岩を山頂に運ぶという労働は、それをはじめから労働だと思うから間違ってしまうのであって、先入観を捨てて虚心に眺めてみよう。実はあれは遊びではないだろうか。いや、スポーツだといっていい。現にオリンピックでは、いったいこんなことが何の役に立つのだろうといった運動を、筋肉隆々たる選手たちが汗水たらして真剣に行っているではないか。シジフォスは好きなだけ岩と戯れることができるので、すでに充分幸福なのだ。もう誰にも邪魔されることなく、いつまでも遊んでいられるのだ。
こう考えてみたとき、わたしは外国語の辞書を引いては忘れるという、ほとんど人に理解されないであろう作業に腹を括ることにした。一見したところ、シジフォスの岩運びにも似て、際限ない反復のさなかにある自分を、もはや嘆くことはないと開き直ることを決めた。砂漠には河がない。だがひとたび大雨が降ると、かならずいつもの道筋に沿って河ができ、ふたたび消えていく。これを涸れ河(ワジ)を呼ぶ。わたしがこの涸れ河のように辞書と戯れていることは、いうなればわたしの悦びでなくて何であろう。長い歳月の後にわたしが同じ単語を同じように調べ、同じ例文に感銘を新たにすることは、わたしの望むところであり、あえて強い言葉を用いるならば、わたしの宿命ではないだろうか。
実はわたしの家の台所には、くだんのオックスフォードやプチ・ロベールよりもはるかにぶ厚い、イタリア料理のレシピ集が置かれている。もう30年ほど前に刊行された料理書だ。信じられないことに、そこには1800種に及ぶパスタの調理法が記されている。ニンニクとトウガラシだけのスパゲッティ、南瓜を用いたトルテリーニ、ブロッコリーの茹で汁で茹でたオレッキエッテ、ホウレンソウを混ぜ込んだフェットチーネ・・・・わたしはこの書物を手に入れて以来、自分が調理したレシピにはかならず印をつけ、律儀に日付と感想を記してきた。もっとも30年が経過してもわたしが試みたパスタは全体の10分の1,わずかに200種類ほどに過ぎない。あと1600のレシピのうち、わたしはいくつまでを自分の舌で体験することができるだろう。
このパスタ・ブックが、この30年の間にわたってわたしがもっとも繰り返し頁を開いてきた書物である。聖書や辞書の比ではない。もちろん気に入ったパスタなら何回でも調理してきたわけであり、そのたびごとに日付と感想が書き込まれている。辞書の中にある単語の森に踏み込んで未知の単語を調べるのと、料理本の頁を開き、その日に冷蔵庫にある食材を念頭に置きながらパスタを茹でることの間には、どれほどの違いがあるのだろう。この頃になると、実は何も違いがないような気がしていなくもない。

わたしは高校生のころから、物怖じしないで人と会うことを心掛けてきた。この人の顔を間近で見てみたい、会って絶対に話をしてみたいという人物がいると、何とか努力して住所を探り出したり、知り合いを介して訪問の約束を取り付けるということをしてきた。
わたしの長年(?)の経験からすると、生涯にわたる巨大な仕事をすでになしとげた人というのは、予想に反して案外会えてしまうのである。彼らの多くは年少者に寛容で、一向に好奇心に衰えを見せず、自分にとって未知の世界に住んでいる若者に関心をもっている。
その逆が次の世代、つまり中年層の人たちだった。彼らは現役で仕事をしていることもあって、非常に多忙である。その上に、年齢的にいって自分のすぐ次の世代である年少者に、本来的な警戒心を抱いている。競争意識を剥き出しにする者もいれば、冷淡に会見を敬遠してしまう者もいた。若い頃のわたしはこうした拒絶反応を前にしばしば失望したが、今ではその事情がよく理解できる。要するに邪魔されたくないのだ。彼らは目下、本質的な仕事にとりかかっている最中であり、必要もない雑事に時間を取られたくないのである。わたしは彼らが見せた冷淡さを非難する気になれない。というのもわたしにしたところで長い間、不用意に接近して来る年少者を遮断してきたからこそ、自分の仕事に集中できたからだ。
わたしが長らくその書物から影響を受け、敬意を抱いていた人の多くは、わたしをきわめて寛容に迎え入れてくれた。わたしが準備してきた質問に対し、わたしの無学を嗤うことなく丁寧に応えてくれたし、わたしが少し緊張しているのを見抜いて、リラックスするような話題を向けてくれもした。こうしてわたしは大岡昇平や埴谷雄高、藤枝静男といった『近代文学』の作家たちの謦咳に接することができたし、ソウルでは詩人の金素雲キムソウンの家をいくたびも訪問することができた。わたしは年長者との邂逅に関するかぎり、きわめて幸運な人生を送ったと思う。雑誌の編集者や新聞記者ででもなければ、こうした貴重な体験を重ねることはできなかっただろう。しかもわたしは、仕事ジョブとして彼らと逢ったわけではなかった。
私淑する人物がいたなら、一度でもいいからその人物の謦咳に接しておくということ。これは重要なことである。当時はただちに気付くことはなかったとしても、後になって自分の進んできた道を振り返ってみると、その出逢いが大きな意味を持っていたことが判明する。わたしの人生にはそういったことがいくたびかあった。
わたしから手紙を出して逢いに行ったところ、これはもう次元が違う。とうてい自分の及ぶところではないと観念した人物が、何人か存在している。知識の量や体験の壮絶さに圧倒されたというのではない。その人物の思考の身振り、その虚心にして自在な振舞いにただただ感嘆し、そのにこやかな表情の奥に深い叡智が宿っていることを知ったということである。この場を借りて、二人の人物について書いておきたい。

グナワン・モハマッドに会ったのは2007年の9月、ラマダンの真最中だった。インドネシア映画の研究で3か月ほど、ジャルタに滞在していたときのことである。
グナワンはインドネシアを代表する知識人の一人である。1965年、アメリカと手を組んだスハルトがスカルノを軟禁して独裁政権を樹立すると、ただちに週刊誌『テンポ』を創刊し、言論人としてそれを批判する側に廻った。24歳のときである。雑誌はいくたびも発行禁止をいい渡され、グナワンは編集長として受難を余儀なくされた。彼が『テンポ』に毎号連載している一頁コラムは、ミラノのエーコが『エスプレッソ』に書き続けてきたコラムに似て、インドネシアの知識層にとってある意味の指針だった。
そのグナワンに会いたいと思い、わたしは1990年代に最初にジャカルタに滞在したとき、人を介して会見を申し込んでいた。ところが運の悪いことにその前日、彼は逮捕されてしまった。その後スハルトの独裁政権が倒れると、彼は自由な言論活動をようやく再開できるようになった。わたしは十年の後に、彼に会えることになったのである。
芸術家たちの小さな溜まり場であるカフェに現れたグナワンは、考えていたよりもはるかに小柄で、40年にわたってインドネシアの言論界で自由のために闘ってきた闘士とは思えない、優し気な表情をもった人物だった。
ラマダンというのは単に食物を摂取しないというのではないんだよ。精進潔斎をしていると、ふだんは意識していなかった肉体とか欲望といったものを強く意識するようになる。人間と宇宙との関係を見つめ直すにはいい機会だ。断食はしてもいいし、しなくてもいいのだけれど、していない者はしている者をやっぱり畏怖することになる。断食をしている者はというと、自然と自分が高みに持ち上げられるような気持ちになってくる。自分は食物を断って口にしないわけだけれど、引き上げられたくはない。人から尊敬などされたくないのだよねえ。グナワンは大体そのようなことを語った。
わたしたちは日本とインドネシアの話をした。それからボスニアの戦争。グナワンは旧ユーゴの戦争について、何篇か詩を書いている。そのひとつはわたしも読んだことがあるが、息子たちを殺害され村を追放された老女たちが、ただひとつ、息子の首だけをボロ布にくるんで長い道のりを行ったという、悲痛な詩だ。わたしがその詩を読んだという話をすると、じゃあ全詩集をあげるから、何でも気に入ったものを日本語にしてくれていいよと彼はいった。わたしのバハサ(インドネシア語)はまだ勉強を始めたばかりで、とうてい彼の詩をスラスラと読むまでには達していない。躊躇していると、ほら、バハサと英語の対訳だから、きみにも読めるよといってくれた。
話はいつの間にか現代思想に移っていた。ジャカルタではドゥルーズがブームで、書店に行くと『ニーチェと哲学』が平積みになっていたりする。グナワンはデリダが面白いという。昔のジャワ語では、差異と遊戯というのが同じ言葉なのだ。あるものが他のものと異なっているというときには、二つのものが遊んでいるといったんだ。何の衒いもなくそう語るこの人物のなかでは、ジャワの伝統的な思考法と現代思想がいささかも矛盾することなく、自分の思想として溶け合っている。
だが、わたしが付いていくことができたのはそこまでだった。フランスの現代思想の話が一段落したところでグナワンは、そういえばといいながら、話題をイブン・アラビーに変えた。中世イスラムの神秘哲学者である。デリダのいってることはちょっとイブン・アラビーにも通じるところがあるよね。グナワンはそれから、イブン・スィーナーやイブン・ルシュドについて、ひとしきり自分の考えを述べた。
わたしは付いていくのが精いっぱいだった。理解できないままに相槌だけは打つという時間が過ぎた。デカルトやスピノザといった西洋哲学、それにデリダやドゥルーズのことならば、特に詳しく読み込んだ専門家というわけでなくともも、見当がつかなくもない。だが目の前のこの人物は、つい先日、獄から出てきたばかりだというのに、デリダと中世イスラム思想の対応関係について平然と語っている。何の衒いもなく、まったく普段着のままの格好で。わたしはまったくお手上げとなった。
イブン・アラビーの書物を手に取ったことがなかったからではない。わたしを圧倒したのは、眼前にいるこの人物が、ラマダンの意味に始まって、デリダ経由でイスラムの神秘思想へと自然に話を移していく、その思考の身振り、身振りが生来的に携えている自然さにであった。ジャカルタは基本的にイスラム社会である。インドネシアがアラビア語圏ではないことは事実ではあるが、グナワンにとって中世イスラム思想とは、自分を育み育ててきた文化的伝統に他ならない。わたしは東京でも北京でも、またニューヨークでも、パーティの席上でデリダやドゥルーズの話を愉しそうにしている人々の間に居合わせたことがないわけではない。だが、そこでワイングラスを片手にもちながらフランスの現代思想について嬉々としてお喋りをしていた人たちは、はたして前近代のジャワ語や中世イスラムの神秘思想に関心をもっているだろうか。デリダの哲学の脇にそうした知の体系を置いて、その照応と差異を遊戯として・・・・・思考するということを思いついたことがあるだろうか。しかもグナワン・モハメッドはスハルト政権下にあって、短くない獄中生活を終えたばかりなのだ。
このときばかりは、自分が伝統的な日本思想や仏教思想についてほとんど中学生並みの知識しか持っていないということに情けなさを感じた。勉強が足りない。だが勉強を重ね、知識が増えればすむという話ではない。知識を前にして自然と現われる生来的な身振りの問題なのだ。グナワンがデリダやドゥルーズについて語る言葉の間になかにさりげなくイブン・アラビーの名前を滑り込ませたように、自分もまた同じような文脈のなかにドーゲンやヒタラ・アツタネを滑り込ませ、平然と対話を続けることができたとしたらどれほど痛快なことだろう。わたしはつい空想してしまったが、それは努めて知識を増やして解決するような問題ではないような気がしていた。

わたしが出逢ったもう一人の人物は、宗教学者の山折哲雄である。
かつて『先生とわたし』を執筆していたとき、わたしは東洋と西洋では、師と弟子の関係をめぐって大きな認識の違いがあることに思い当たった。一般的に西洋では、両者の間に基本的に3通りの関係がありうると考えている。弟子が師に反逆し、師を破滅させてしまう場合。逆に師が弟子を心理的に追い詰め、破滅させてしまう場合。最後に、両者が長い間の対立と反目の後に和解しあい、相互に深く信頼しあう場合。もっとも最後のものが稀有であることは、ここに書くまでもあるまい。山折さんはこうした事実を念頭に置きながら、東洋にはこの西洋的な類型学とはまったく異なった、三通りの師弟関係が存在していると、著書のなかで説いた。
ひとつは数多くの弟子に囲まれ、彼らを率いて諸国を遍歴するという孔子の道である。二番目は、徹底して弟子をもつことを拒み、晦渋な真理を説く孤高の賢人として生きる、老子の道である。三番目のものはきわめて難解であるが、禅宗の説く道である。臨済の教説には、人は師に出逢っては師を殺し、祖に出逢って祖を殺せという一節がある。仏弟子を称するならば、仏の屍を乗り越えていくほどの気力と大胆さをもって修業を続けないと、とうてい悟りは覚束ないという恐ろしい決意が、そこには語られている。
わたしは京都に山折さんに会いに行った。
彼は単刀直入に、親鸞を読んだことがあるかねとわたしに訊ねた。
はい、『歎異抄』を一応読みましたと返事をすると、あんな短いものじゃあだめだ。あれは親鸞が死んで何十年も経った後、弟子の一人が想い出して纏めたものにすぎない。本当に親鸞があのように語ったかどうかも怪しいものだと答えが戻ってきた。山折さんはわたしに『教行信証』を読まなければいけないといった。『教行信証』は親鸞が52歳のときに一応の完成を見た理論的著作で、全6巻。夥しい仏典を自在に参照しながら、いかなる極悪人でも救済されるのであれば、それはどのような条件のもとにおいてであるかという難問を解き明かそうとした大著である。
この出逢いから10年が経ち、わたしはついに『教行信証』を読破し、親鸞について一冊の書物を著した。・・・という風に書くと、いかにも楽々と書き上げたような印象があるが、実は何回も書いた原稿を廃棄し、七転八倒してようやく完成を見たという苦心の作であった。これでグナワンに会っても、威張ってシンランとデリダとはねえなどと、さりげなく口にできるのではないか。書いている最中にはそう思ったこともなかったわけではないが、いざ印刷された本を手にしたときにはすっかり疲れきっていて、とてもそのように軽口を叩ける心境ではなかった。
ともあれわたしは自分の親鸞論を片手に京都に向かい、山折さんにもう一度会った。
山折さんはわたしの新著を見て、「あっ、そう」という表情を見せただけである。口を突いて出たのは、『シン・ゴジラ』のことだった。
どうして『シン・ゴジラ』なのか。わたしの専門の一つが映画研究であるから話を合わせてくださった、というのではまったくない。今の自分にとって気になってしかたがなく、解決すべき問題のひとつだといわんばかりの口調である。大評判の怪獣映画についての解釈がひとしきり終わると、今度はカズオ・イシグロの小説とその映画化のどちらが深い人間洞察を示しているかという話になった。いつまで経っても親鸞が出てこない。
わたしはついに痺れを切らし、自分は10年前におっしゃられた通り、『教行信証』を読みましたと報告した。すると山折さんは、「あれはねえ、50歳くらいのまだ若い頃に書いた書物だということですよ。親鸞の本当の境地は、彼が80歳以降に執筆した和讃。それに奥さんに向けて書いた手紙です。それを読み解かなければ親鸞のことはわかりませんね」、とスラリといった。わたしは柔道の組手でいきなり足を外されたような気持ちになった。そもそも『教行信証』を読まなくては話にならないといったのは、山折さんではなかったのか。
驚くべきことはそれだけではなかった。しばらく話しているうちに判明したのだが、山折さんの手許にはもう柳田国男全集も、長谷川伸全集もないのだという。あっても邪魔になるばかりだから人にあげちゃいましてねと、笑いながらいう。
「でも親鸞全集だけは手放すわけにはいかないでしょう」と、わたしは訊ねた。
「なあに、あれも若い人が読みたいというので、この正月にあげちゃいましたよ。」
もうこれは次元がまったく違うと、わたしは観念した。山折さんから10年前に受けたアドヴァイスを頼りに真面目に親鸞の著作を読み続け、なんとか自分なりの考えに到達できたと思っていたわたしは、それを報告しに行った現場で、みごとに打っちゃりを食わされてしまったのだ。反論のしようがない。反論しようにも、相手はすでに親鸞全集を人に譲って平然としている。長年にわたって読み続け、何冊もの著作の対象としてきたというのに、その親鸞への執着からみごとに解放され、飄々として怪獣映画の話をしているのだ。これではいつまで経っても追いつくことができないではないか。
ここまでが4年前の出来ごとである。山折さんはこのとき89歳。もう人生において充分に読んだ。充分に思考し、充分に書いた。書物に未練はなく、自分の解放のためにはすべてのものを周囲から遠ざけておきたいという心境なのだろう。
価値のない書物を処分するというのではない。読み終わったので不要になった書物を引き取ってもらうというのでもない。生涯にわたってかくも深い情熱をもって読み続け、論じ続けてきた著者たちの著作を平然と手放してしまうというのだから、ただごとではない。それは著述の分析や解釈といった次元を超え、学問的思索という域からも自由なところから親鸞に向き直ろうという意志の表明なのか。
仮にわたしが同じ年齢に到達することがあったとして、すべての書物を処分してしまうという決断を下すことができるだろうか。おそらくそれを実行したならば自分が大きな解放感に見舞われることは確実だろう。だが自分にはそれだけの勇気をもつことができるだろうか。そのためにはあまたの書物を前に、後悔が残らないまでに思考を続けておかなければならないのだが、こればかりはわからない。

 

*本連載は今回で最終回となります。ご愛読ありがとうございました。なお、本連載に書き下ろしを加え、2023年春、書籍として刊行予定です。ご期待ください。

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 四方田犬彦(よもた・いぬひこ)

    1953年生まれ。東京大学にて宗教学を、同大学院にて比較文学を専攻する。批評家、詩人。映画と文学を中心に幅広く文化現象について探究。『映画史への招待』でサントリー学芸賞、『モロッコ流謫』で伊藤整文学賞と講談社エッセイ賞、『ソウルの風景 記憶と変貌』で日本エッセイスト・クラブ賞、『詩の約束』で鮎川信夫賞受賞。近著に『さらば、ベイルート ジョスリーンは何と闘ったのか』『戒厳』がある。

フランス関連情報

雑誌「ふらんす」最新号

ふらんす 2024年5月号

ふらんす 2024年5月号

詳しくはこちら 定期購読のご案内

ランキング

閉じる