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「聖地 旅順への旅」渡辺浩平

第一回 仰ぎ見る表忠塔

 旅順の中心部に白玉山という山がある。白玉山は標高130メートルほどの小山で、その頂に塔が建つ。
 「白玉山塔」と呼ばれているその塔は、日露戦争終結四年目に、日本が建てたものである。旅順攻囲戦の戦没者慰霊のために、二年の月日をついやして完成させたのである。発案者は乃木希典と東郷平八郎だ。「表忠塔」と名付けられた。忠義をあらわす塔、という意味である。
 塔の形状は、慰霊をこめてローソクを模し、尖端は砲弾をかたどっている。中の螺旋階段は展望台につながっている。
 南に港口をひらいた旅順港には、北から龍河という川が流れこみ、川の東が旧市街、西が新市街だ。旧市街は清末にさかのぼり、新市街はロシアによってつくられた。帝政ロシアは、日清戦争で日本が遼東半島を割譲した後に、仏独とともに干渉し、その後、旅順を租借地とした。
 ロシアは港の東を軍港にし、その周囲に火砲をすえた。北側につらなる小山には堡塁をつくった。遼東半島の突端にある旅順は、ウラジオストクとならぶ極東の軍事拠点となり、西のクリミア半島のセヴァストポリに匹敵する、否、それよりも堅固な城塞となった。港のすぐ北にそびえる白玉山は、ペリペリーナヤ山と名づけられ、そこにも砲台をすえた。
 日露戦争における旅順戦は、当初海軍による港口をめぐる戦いとなり、ロシアはそこで戦死した将兵をペリペリーナヤ山に埋葬した。日露戦後、日本はその地を霊地として引き継ぎ、納骨祠と慰霊塔を建てたのである。
 旅順停戦後、戦場にあった遺体は火葬にふされ、一部の遺骨は郷里にはこばれたが、おびただしい量の骨がのこっていた。戦場掃除隊により収集され、一旦、白玉山の西麓の仮納骨堂におさめられ、納骨祠の完成をまって収容されたのである。納骨式がおこなわれたのは1907(明治40)年5月6日のこと、その二年後、納骨祠の南側に表忠塔が建造された。
 表忠塔の石材は山口県の徳山から運んだ花崗岩で、石垣には旅順港の海底に沈んだ日本海軍の閉塞船をひきあげ、そこに搭載されていた花崗岩が用いられた。前者は長州出身の乃木に、後者は東郷に由来する、ということなのだろう。
 旅順という街は、日清戦争後はロシアが、日露戦後は日本が、そして、太平洋戦争後はソ連が占領し、1955年になって中華人民共和国に返還される。この塔は、21世紀の今日に至るまで、この街の歴史を一世紀以上見つづけてきたこととなる。

聖地旅順

 前回の「webふらんす」での連載「北鎮の墓碑銘」では、旭川の第七師団、特にその下にあった札幌月寒の歩兵第二十五聯隊に焦点をあてて、近代日本を北から描くという試みをし、一書にまとめた(『第七師団と戦争の時代』)。
 今回は「主人公」を第七師団から、旅順という街に変えて、日本の近代史の一面を描いてみたい。
 では、なぜ旅順なのか。
 それは、旅順がかつて日本の「聖地」だったからだ。
 1939(昭和14)年に旅順市役所が発行した小冊子の名はまさに、「聖地旅順」である。その数ページのパンフレットは国立国会図書館のデジタルアーカイブで読むことができる。
 聖地旅順 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
 では、なぜ旅順は聖地となったのか。
 それは、かの地が、日本の大陸進出の創始の地だったからだ。進出とは領土と権益の拡大であり、それは侵略でもある。
 旅順が帝国日本の聖地であったという史実は、この文章を眼にされた方にとって、さして驚くにあたらないことだろう。司馬遼太郎は、この聖地という語が発するものを「磁気」という言葉で表現している。「日露戦後、旅順は地理的呼称をこえて思想的な磁気を帯びたようであり、その磁気はまだ残っている」と述べているのだ(『坂の上の雲』あとがき四)。
 私は1980年代後半から90年代後半にかけて、二度ほど中国で仕事をしていたので、その間、その磁気を感ずることが少なくなかった。大連出張は幾度もあったが、旅順を訪れることはできなかった。中華人民共和国においても、旅順は軍港であり、外国人に門戸を閉ざしていたからである。
 駐在員や記者の中には、身分を隠して、大連から旅順へはいる人もおり、時折、その時の話を聞くこともあった。ロシア、そして日本の租借地時代の建物がのこっているとのことだった。その度に、旅順の磁気も強度を増していくこととなった。
 私が旅順を訪れたのは2013年3月のこと、その数年前に、海外の旅行者も行けるようになっていた。大連の大学で、北海道大学を紹介するイベントがあり、数日間、大連に滞在することとなった。当時、北大北京事務所の所長は鈴木賢さん(現明治大教授)で、かれがイベント開催中の休みを利用して旅順を訪れたことを聞いた。二〇三高地の斜面に、乃木保典(のぎ・やすすけ)の戦死碑があった、という話を耳にして、「この機に行かねば」と思い立ったのだ。
 大連をたつ日に、タクシーをチャーターして旅順へ向かった。荷物を車のトランクにつめ、そのまま空港へと行く旅程で市街をまわった。曇天の寒い日だった。二〇三高地から港をながめると、靄のむこうに旅順港が見えた。旅順博物館では、大谷探検隊が発掘したミイラに見入った。
 白玉山塔、つまり表忠塔については、予備知識を持ちあわせていなかった。入口横の由来には、二万人あまりの中国人労働者によってこの塔が完成した、と書かれている。塔正面の文字ははがされていた。白玉山塔という名がつけられたのは、1986年のことだという。
 階段を登りきると展望台にでる。表忠塔という文字は消されていたが、欄干には帝国陸軍の記章である五芒星がのこっていた。南の海側には港口が見える。その狭さは肉眼でも確認できた。すぐ右に老虎尾半島が横たわっていた。
 後に戦前の旅順戦跡ガイドブック『旅順戦蹟案内の記』(昭和2年)を眼にして知ったことだが、展望台の山側にまわると、日露戦争の戦場が見わたせるという。「渤海と関東州の全景は挙げて眼底に映じ、言語に絶する雄大なパノラマである」と記されていた。西の渤海、さらに、関東州が望見できるというのだ。 
 お恥ずかしい話だが、私は高いところが苦手なので、その時は、階段から上半身だけ出して、海側にカメラを向けて幾枚かシャッターをきり、足早に降りてきてしまった。見学者は私一人、ゆっくりと眺望を楽しむ心の余裕がなかったのだ。
 なお、関東州という概念は、大連、そしてその北の金州をふくむ遼東半島南部のことで、日露戦後に日本が租借した地域を指す。関東とは山海関の東という意味だ。日露戦争ではその関東州以外に、旅順長春間の鉄道とそれに付随する権益を得ることとなった。
 入口を出て、再度、塔の全景を眺めると、尋常ならざる威圧感でせまってきた。「凡そ日本人の築造した営造物中、旅順の表忠塔ほど規模の宏大にして、設計に偉観あるものは古今稀なり」。前掲書は塔の威容をそのように語る。
 だが、その後に、日本とロシア(ソ連)の国交が回復し、東亜に平和が訪れた現在、塔の尖端が砲弾なのは、「日本技術者の千慮の一失」と評するのである。表忠塔に砲弾なかりせば、天下に誇れる記念塔となった、という。
 このような表現は、「軍縮」と「デモクラシー」が支配的な潮流となった大正という時代の余韻をのこすものではなかろうか。昭和14年に編まれた別のガイドブック『旅順戦蹟読本』には、そのような軍事に距離をおく文言は見られない。
 旅順を形容するのに「聖地」という言葉が使われだしたのは、昭和にはいってからのことだ。旅順は、時代ごとにそのとらえ方も変化していく。その点もこれから見てゆきたい。

勝典の霊をともなって

 旅順表忠塔の除幕式が行われたのは、講和から四年後の1909(明治42)年11月28日のことだった。式典には、伏見宮貞愛(ふしみのみや・さだなる)、北白川輝久(きたしらかわ・てるひさ)が参加し、参列者おおよそ1300人。乃木希典も東郷平八郎も参列した。乃木はその時、妻・静子をともなって、長男・勝典(かつすけ)、次男・保典の戦没地をまわっている。
 勝典、保典ともに日露戦争に参加し、勝典は、希典が宇品を出航する直前に、金山の戦いで負傷し、翌日1904(明治37)年5月27日に亡くなっている。保典は同年11月30日に二〇三高地で戦死している。第七師団が、高地を占領する直前のことである。
 先に触れた通り、二〇三高地には保典戦死の碑がのこっているが、『大連・旅順歴史ガイドブック』(大修館書店)の著者・木之内誠さんによれば、その碑は人民共和国建国後に壊され、現在のは再建されたものだという。なお、元の写真は、以下で見ることができる。
 旅順 二〇三高地乃木保典君戦死之所 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ (kyoto-u.ac.jp)
 乃木家は二児を亡くしたことで世継ぎが絶えた。乃木は自らがひきいた第三軍の旅順戦で、二万余の将兵を犠牲にしたが、長男、次男の戦死で、当時の日本人の乃木への感情は深まることとなった。「一人息子と泣いてはすまぬ、二人なくした人もある」という俗謡にその心理があらわれている。
 乃木希典については、あまたの書籍があるので、多くを語る必要はないだろう。ここでは除幕式までの史実を記して、乃木にとっての旅順を確認するにとどめたい。
 乃木第三軍に従軍した米国の新聞記者・スタンレー・ウォシュバン(『乃木大将と日本人』講談社学術文庫)によれば、奉天会戦を終えた第三軍は、明るさに満ちていたという。司令部のあった法庫門で催された相撲大会では、名勝負に「呵々として大笑」する乃木が描かれている。
 第七師団の将校の宴席にまねかれた折は、「一同の士気すこぶる旺盛、戦熱燃ゆるばかりなる」と記している。第七師団の将校団は、ウォシュバンら海外の記者に対して、「自分たちに従軍せよ」とさそった。
 大迫尚敏(おおさこ・なおはる)師団長をはじめとする第七師団は、旅順陥落から奉天会戦に至る自らの軍功を自負する気持ちが強かったのだろう。ウォシュバンも第七師団が、「二〇三高地で雷名を轟かした」ことに触れている。
 しかし、9月になって講和会議の内容が伝わると、司令部は沈鬱な空気につつまれる。賠償金はとれず、領土は樺太の南半分、というものだったからだ。「小村(寿太郎)大使は帰朝すると暗殺されるだろう」とささやく青年将校もいた。乃木は「痛ましい失望」につつまれ、「人を遠ざけて蟄居し、幕僚は将軍の急病を発表した」。
 講和がせまり、ウォシュバンら記者を慰労する宴会の案内がきたが、そこには、乃木の欠席が記されていた。だが、宴席の最後に、乃木は突然あらわれ、乾杯の挨拶をする。「覆いがたい憂愁」をたたえていた。
 乃木が第三軍司令部のあった法庫門をたったのは、ウォシュバンら記者が去って数か月後の12月29日のことだった。1月1日に旅順にはいり、5日間、各砲台を巡視した。大連を経て宇品へ、1月14日に新橋駅に到着している。
 その日の新橋駅は乃木の凱旋を待つ人であふれていた。その数、数千人。ホームの先で、各大臣に親任官、衆議院、貴族院の両議長、陸海軍の将軍が待った。軍楽隊の演奏のもと、日比谷公園では花火があがった。『明治天皇紀』は以下にようにつづる。

 是の日官民有志の希典の凱旋を新橋及び沿道に迎ふるもの頗る多く、前後其の比を見ず、蓋し希典が人と為りを敬慕し、其の旅順攻撃の困難を思ひ、且二児を戦場に併せ失ひし苦衷を察し、特に同情を表するもの多きに因るなり(『明治天皇紀』第11巻)

 乃木の帰還は、他の将軍の凱旋とは異なるものとなった。侍従武官が迎え、ただちに参内した。そこで述べたのが「復命書」である。
 復命書には第三軍司令官の命をうけてから、旅順攻囲戦、その後の北進、奉天会戦、停戦までの過程が述べられている。最後のくだりを引く。

 本軍ノ作戦目的ヲ達スルヲ得タルハ/陛下ノ御陵威ト上級統帥部ノ指導並ニ友軍協力トニ頼ル。/而シテ作戦十六箇月間我将卒ノ常ニ勁敵ト健闘シ、忠勇義烈死ヲ視ルコト帰スルガ如ク、弾ニ斃レ剣ニ殪ルルモノ皆/陛下ノ萬歳ヲ歓呼シ、欣然トシテ瞑目シタルハ臣之ヲ伏奏セザラント欲スルモ能ハズ。然ルニ斯クノ如キ忠勇ノ将卒ヲ以テシテ、旅順ノ攻城ニハ半歳ノ長月日ヲ要シ、多大ナ犠牲ヲ供シ、奉天附近ノ会戦ニハ、攻撃力ノ欠乏ニ因リ退路遮断ノ任務ヲ全ウスルニ至ラズ、又敵騎大集団ノ我ガ左側背ニ行動スルニ当リ、此ヲ撃摧スルノ好機ヲ獲ザリシハ、臣ガ終生ノ遺憾ニシテ、恐懼措ク能ハザル所ナリ。/今ヤ闕下ニ凱旋シ、戦況ヲ伏奏スルノ寵遇ヲ担ヒ、恭シク部下将卒ト共ニ、天恩ノ優渥ナルヲ拝シ、顧ミテ戦死病没者ニ此光栄ヲ分ツ能ハザルヲ傷ム(「復命書」『乃木希典全集』下、国書刊行会)。

 なお、この復命書は、翌々日の官報に掲載されたが、「攻撃力ノ欠乏ニ因リ」は原文がけずられ、圏点での表記となった。「国民をして兵力の不足をしらしめざらんとする」意図による(『明治天皇紀』第11巻)。日露戦争が辛勝であった事実は隠されていたのである。
 この時の乃木と天皇との会話は人口に膾炙した逸話なのでご存じの方も多いだろう。
 乃木は後段の多大な犠牲を出したくだりに至ると、嗚咽し、言葉がとぎれた。読み上げた後、「切腹して罪を謝し奉りたい」と明治天皇にもとめた。天皇は「卿もし死を願うならば、われの世を去りてのちにせよ」とかえした。この言葉が大喪の日の自刃へとつながっていく、と解釈できるだろう。
 このエピソードは、司馬遼太郎が言うところの「煩わしい乃木神話」へと道をひらくもの、とも言える。他方、かれの心根が読み取れるようにも思う。旅順の攻略に長い月日をついやしたこと、奉天会戦では好機をのがし、敵を撃破することができなかったこと、が述べられているのだ。「弾に斃れ剣に殪るるもの皆、陛下の萬歳を歓呼し、欣然として瞑目した」という言葉を、当の大元帥の前で語ることも、明治という時代の「武」を感じさせる。最後の「顧みて戦死病没者に此光栄を分つ能はざるを傷む」という文言は、乃木の真率な気持ちなのだろう。
 乃木は凱旋後、慰霊行事には参列したが、歓迎会への参加はことわった。法庫門の第三軍司令部をたつ際に、以下の詩をつくっている。

 皇師百萬征強虜/野戦攻城屍作山/愧我何顔看父老/凱歌今日幾人還(皇師百萬強虜を征し/野戦攻城屍山を作(な)す/愧(は)ず我れ何の顔(かんばせ)ありてか父老に看(まみえ)ん/凱歌今日幾人か還る)

 凱歌はみずからを愧じいらせるものであり、子を失った父老にあわせる顔がない、との思いがあった。
 佐々木英昭『乃木希典』(ミネルヴァ書房)は、いわゆる「乃木神話」を読者に丸ごと提示する興味深い評伝だ。一般的に、功成り名を遂げた人物の伝記は、幾重にも装飾された被膜をはがしてゆき、実像にせまっていくものだが、同書は、そのような方法をとっていない。後世において、化粧をほどこされたであろう伝説や神話、いわゆる「乃木文学」を、その相違を指摘しつつ、被膜のままに読者に示しているのである。
 副題となっている、「予は諸君の子弟を殺したり」という乃木の講演での一節もまた、先の復命書のくだりと同様に、広く知られたものであり、同書によれば、多くの乃木伝(乃木文学)で表現に異同をともないながら引用されているという。
 ただ、この言葉を、先のウォシュバンの記述とあわせて読むと、乃木の心持ちが多少とも理解できるように思えるのだ。法庫門での苦悩は、講和条約における戦果の乏しさにあった。日露戦争、特に旅順での勝利は多くの将卒の犠牲の上になりたったものだった。軍人であるところの乃木は、後者の責任は負うが、前者に関与することはできない。かれの憂愁は、そのような軍人の分に関係するものと言えるだろう。
 旅順に関わる史実をもう一つだけ記しておくこととする。乃木希典は、ポーツマス条約締結三年後の1908(明治41)年6月に旅順を訪れている。表忠塔除幕式の前年のことだ。旅順の北郊に小案子山という山があり、その東の山麓にロシア軍の戦没者碑が建立され、その除幕式に参加するためだった。
 その地にはロシア人の共同墓地があり、そこに関東都督府陸軍部が慰霊碑を建てたのである。ニコライ二世は式典に、武官やロシア正教の聖職者を派遣した。日本からは乃木が参列した。
 関東都督府とは、関東州を統治する行政府だ。日露戦後、日本は関東州に軍政となる総督府を置いたが、英米への配慮から、1906年(明治39)年に民政となる都督府にあらためた。しかし、その長はかわらず、陸軍大将の大島義昌だった。
 都督府陸軍部とは、関東軍の前身である。関東総督の大島義昌は、日露戦争末期に新設された第十四師団と第十六師団を指揮し、日露戦後そのまま、関東州の長をつとめた。
 先の話となるが、関東軍の誕生は、1919(大正8)年4月のことで、関東都督府が関東庁と関東軍にわかれ創設されたものだ。満洲事変までの関東軍の任務は、「関東洲及南満洲ニ在ル陸軍諸部隊ヲ統率シ且関東洲ノ防備及満洲ニ在ル鉄道ノ保護ニ任ス」というものだった(防衛庁防衛研修所戦史室『関東軍〈1〉対ソ戦備、ノモンハン事件』(戦史叢書)朝雲新聞社)。つまり、1931(昭和6)年9月18日に発生した満洲事変までの関東軍は、日露戦争での戦果の保護という位置づけだったのである。
 ロシア軍人の慰霊碑に話を戻すと、帝国日本の要路にとって、慰霊の対象となるべき旅順にねむる霊は、日本の将卒のみではなかった、ということだ。『「国際化」の中の帝国日本』(有馬学、中央公論新社)の冒頭には以下の話が紹介されている。奉天会戦後、内務省は各県に対して、戦没者の碑表を建てる際には、「征露」という言葉を使わないよう通達を出した。同書は「ロシアは依然として日本の大陸政策にとって重要な、恐るべき相手であるという認識が存在し」ていた、述べる。
 クレオソートでできた「忠勇征露丸」は売られていたのだから、「征露」という言葉は広く使われていたであろう。つまり明治政府は、自らがおかれた環境を冷徹に認識していた、ということなのだろう。
 そもそも軍人であるところの乃木は、ロシア軍に対して敬意をもって接している。水師営の会見の折のステッセルへの配慮や、その後、かれが死刑判決を受けた際の、助命歎願からも、敵将を敬う気持ちが感じられる。但し、乃木の慰霊の対象に、日清戦争の旅順攻略作戦(いわゆる旅順大虐殺)で死んだあまたの中国人がふくまれていたかどうか、それはわからない。
 松下芳男『乃木希典』(吉川弘文館)によれば、乃木は、ロシア軍戦没者碑の除幕式参列にあたり、旅行用の鞄を三越百貨店に注文した。しかし、そこに刻まれていたイニシャルは、K.Nogiだった。品物を受けた副官はイニシャルをMへと修正するよう求めたが、乃木は、勝典の霊をともなって行くと思えばよい、とそのままにしたという。他者の過失をとがめない乃木らしいエピソードであり、また、旅順がかれにとって、霊地であることを示す逸話である。おそらく表忠塔の除幕式にもその鞄をもって出かけたのであろう。

軍人の本分

 表忠塔の除幕式が行われた月のはじめに旅順駅に降り立った人物がいた。安重根(アン・ジュングン)である。11月3日午前10時のことだった。
 安重根はその一週間ほど前に、ハルビン駅で、伊藤博文を射殺し、身柄を日本側に引き渡され、旅順へと運ばれてきた。
 旅順駅から見あげると白玉山が見える。安重根も完成間近の表忠塔を眼にしたことだろう。かれはただちに白玉山の北東に位置する旅順監獄に収監される。
 安が伊藤を暗殺したのは、伊藤が韓国統監として、韓国の主権を奪ったからである。安重根は東洋の平和のためには、韓国の独立が前提となると考えた。他方伊藤は、東洋平和実現には、韓国の保護化が必要と考えた。その相違は、いまなお日韓の歴史認識を隔絶させる初発の問題となっている(李成煥、伊藤之雄「植民地の記憶と日韓関係」『伊藤博文と韓国統治』ミネルヴァ書房)が、ここではこの問題にこれ以上立ち入ることはしない。ここで抑えておきたいのは以下の点だ。
 安はその後、関東都督府裁判所での審理を経て、翌年2月24日に死刑判決をうけ、翌月の3月26日に処刑されるが、その間、かれと接触した少なからぬ日本人が、安重根の人となりと、その志操に心を動かされている。その一人に千葉十七(ちば・とうしち)がいた。
 千葉は宮城県の農家の三男として生まれ、軍人となり、後に憲兵となった。1909(明治42)年10月に言い渡された任務が、ハルビンからの安重根の護送だった。かれは、そのまま旅順監獄で、安重根の看守を命ぜられることとなる。
 むろん、陸軍憲兵上等兵の千葉十七は伊藤博文を暗殺した安を極悪人と考えていた。だが、キリスト教徒として祈祷を欠かさないなど礼節のある起居行動と、その言葉の端々から、安への認識を改めていった。
 千葉は安重根と三度ほど話す機会をもった。二度目の面談は、逮捕の翌年1910(明治43)年の元旦のことだった。千葉は安に凶行の動機を聞いた。千葉の甥・鹿野琢見が安重根の言葉をのこしている。

 大韓国の歴史は日本より古いこと、そして古来東洋の各民族は自分だけを大切に守り、他を侵略したということは殆どなかったこと、ところがここ数百年欧州列強は武力をもって他を侵略するをつねとし、近時それを東洋に及ぼし、とくにロシアはその最たるものであったこと、そして日露戦争では開戦にあたり日本の天皇が「東洋平和を維持し、韓国独立を鞏固にする」との勅語を発したこと、そこで韓国人民は清国人民ともども陰に陽に日本を応援したこと、日本は予想に反し勝利を得ることができたがロシアに勝ってからは手の平をかえすように欧米と提携して東洋の仲間である韓・清両国を裏切りこれを侵略する政策を次々と展開するに至ったこと、その中心が伊藤公と認められること、このような政策は韓国の危機であるだけでなく東洋全体の不幸であること、心ある韓国人は日本人がその国を愛するのに劣らず自国を愛しその独立が危うくなっているのを心配していること、自分はこの危機を座視できず昨年春同志を糾合し東洋平和を維持出来るまでは千辛万苦を冒して国事に尽瘁(じんすい)しようと全員左薬指第一関節を切断して血盟したこと、そして自分たちは韓国の独立のみならず日本も清国も含めた東洋の平和を一途に念願しているものである(「安重根と千葉十七」鹿野琢見『法のまにまに』海竜社)。

 そして、「自分の行為があとに続く憂国の同志の決起を促し、韓国永遠の歴史に一個の捨て石となれば自分は満足である」と述べた。
 左手薬指のくだりは説明が必要であろう。抗日のための義兵団設立にあたって、安ら有志は誓いをたてるために薬指の第一関節を切り落としている。「断指同盟」である。
 千葉は安重根に書をしたためてほしいと依頼していたが、それが実現したのは処刑直前のことだった。安重根は千葉が用意した絹布に以下のように書いた。「為国献身軍人本分(国のために身を献ぐるは軍人の本分)」。書には安重根の手形が押されている。そこには薬指の先はない。
 安重根のこの証言は、鹿野琢見が生前千葉から聞いていた話を『日本法律家協会会報』(昭和55年5月)に記し、前掲書におさめられた。安重根が処刑されてから70年の月日が経っているので、正確さを欠く点もあるだろう。
 千葉は退役後、安重根の遺徳を景仰し、日々をすごした。十七がなくなってからは、妻(鹿野の実叔母)が遺志をつぎ、仏壇に安重根の書をかけ、十七と安の位牌をならべ手をあわせた。なお、その書は千葉の姪によって韓国政府に寄贈され、現在はソウルの安重根義士記念館に展示されている。
 余談となるが、鹿野琢見は小学校の代用教員を経て、仙台の野砲兵第二聯隊にはいり、その後、陸軍士官学校にすすむ。戦後は、東北大学で法律を学び、弁護士となるという立志伝中の人だ。かれはまた、戦前、商業イラストで一世を風靡した高畠華宵(たかばたけ・かしょう)のコレクターとして著名で、東京本郷の弥生美術館、竹久夢二美術館の創設者である。

いい死処を得られた

 先に示した『乃木希典』(佐々木英昭)で強く印象にのこったのは、伊藤暗殺事件についての乃木の評言だった。
 乃木は伊藤の死に接し、「イゝ死処を得られた」、「羨望に堪へず」と述べている。また、安重根についても、「エライ男だ」と語っていた、というのである。
 引用元の一つは大庭柯公(おおば・かこう)の記述だ。柯公は日露戦争前後から第一次世界大戦後にかけて活躍した新聞記者である。ロシア語をまなび、30半ばで記者となり、ロシア革命後の1921(大正10)年にシベリアからロシアに向かい、消息をたった。後にわかったことだが、スパイ容疑でボリシェビキに銃殺されたという。生還が望めなくなった1925(大正14)年に友人知己らによって全集が刊行されている(『大庭柯公研究資料』大空社)。そこに収録された「乃木大将」から引く。

 安重根の事に就ては「イヤどうしてエライ男だ」と僅か一言ではあつたが餘程稱揚されてゐられた模様が見えた。伊藤公の最期に關しては「大きい聲で言はれんが、イヽ死處を得られたものだ。私共もドウかマァ好(イヽ)死處を得たいと思うてゐるが、ナントモ羨しいことだ」と云はれた(「乃木大将」『柯公全集』第5巻、柯公全集刊行会)

 大庭柯公は長州出身で、報国隊にいた父が乃木と懇意だった。乃木が第十一師団(善通寺)の師団長をしていた時に、柯公は同師団でロシア語を教えている。よって、上記は乃木からの直話であろう。
 佐々木前掲書の「いい死処」「えらい男」という表現に接し、引用元にあたらねば、と思ったのは、その話がひっかかりつつも、どこか納得のゆくものだったからだ。その理由を記しておく。
 乃木希典は山鹿素行と吉田松陰を敬愛していた。1908(明治41)年発行の「日本及日本人」に、二人について寄稿している(「山鹿素行先生を尊崇するに至りたる動機」[明治41年4月1日『日本及日本人』]、「吉田松陰先生の薫化」[明治41年10月18日『日本及日本人』]『乃木希典全集』下、国書刊行会)。
 乃木家の遠縁に玉木家があった。その嫡男に玉木文之進がいた。文之進は山鹿流の兵学者で、吉田松陰の叔父であり、松陰は文之進に師事していた。
 希典は虚弱だったので学問を志そうと、16歳で玉木をたずね、そこで学芸と武芸に励んだ。文之進のもとで、素行の講義録『山鹿語類』や『中朝事実』を学んだ。自刃の四日前に、皇太子・迪宮(みちのみや)(昭和天皇)に『中朝事実』を献上している。乃木は日露講和の翌年から学習院院長をつとめており、迪宮は教え子であった。
 玉木文之進のもとにいた時、松陰はすでに禁固の身にあったので、乃木は松陰の謦咳に触れることはなかったが、文之進から、松陰について多くを聞いていた。獄中の松陰と文之進との間でかわされた文(ふみ)を預かっていた。しかし、西南戦争での遁走の折に紛失してしまったという。
 乃木によれば、長州藩においても、松陰を「疎暴」「狂体」と悪罵をなげつけるものもおり、当初、松陰に敬服していたのは、五十人にみたなかった。しかし、かれの死後、その思想は浪士に伝播し、維新への道をひらくこととなった。
 吉田松陰の思想とは、徳川幕府の正統性を否定する尊皇論であり、草莽崛起と呼ばれる民族存亡の折に、民は立ち上がらねばならない、とする能動的な主体論と言えるだろう。伊藤博文は松下村塾で学んだ。
 玉木文之進は、その門弟の多くが前原一誠による萩の乱に連座し、その責任をとって自害している。玉木の養子となった希典の実弟・真人(まこと)も、前原につき、戦死している。
 維新を実現する過程で多くの士が命を落としている。そのような記憶をもつ乃木にとって、死処をどこに得るかという問題が、人として何よりも大事な徳であったことは、説明の必要がないだろう。
 伊藤は、長州藩士として明治の鴻業に殉じた。安重根も、その堅固な志操を伊藤暗殺という行為によって全うした。「国のために身を献ぐるは軍人の本分」だからである。遺体は旅順監獄の墓地に埋葬され、その年に日本は韓国を併合した。
 話は現代に飛ぶが、韓国の廬武鉉(ノ・ムヒョン)政権は、朝鮮民主主義人民共和国と中華人民共和国との三か国で、遺骨発掘作業を行ったが、発見できなかった。朴槿恵(パク・クネ)大統領はハルビン駅に安重根記念館をつくることを中国政府に要請し、実現している。
 そのようにして旅順は、少なからぬ人々にとって、特別な意味をもつ場所となった。

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授、現在、特任教授。専門はメディア論。主な著書に『第七師団と戦争の時代 帝国日本の北の記憶』『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)他。

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