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「聖地 旅順への旅」渡辺浩平

第三回 名誉の負傷者

 水野廣徳は、旅順閉塞作戦を描いた『戦影』の末尾で、「我が大日本帝国は、所謂一等国の班に列し、東亜の小国民は、忽ち世界の大国民と為りすました」と書いた。日露戦争によって、日本は「一等国」になったのである。
 そのようなことを書くと、イヤそれは、日本人だけがそう思っていただけではないか、そう信じたかっただけではないのか、と反論されるかもしれない。そうかもしれない、がそうとも言えないのである。フランスの作家アナトール・フランスは、ポーツマス条約が締結された1905(明治38)年に出版した『白き石の上にて』で以下のように書いている。

 ロシヤが現在、日本海や満洲の隘路で犠牲を払っているのは、単にロシヤの貪欲にして野蛮な東方政策であるばかりでなく、全ヨーロッパの植民政策でもあるのです。そして他方ロシヤが贖っているものも、単にロシヤの犯罪であるばかりでなく、軍国的、商業的な全キリスト教国の犯罪でもあるのです(『白き石の上にて』白水社、1950年)。

 『白き石の上にて』は、4人のフランス人と1人のイタリア人がローマで会し、自らが描いた小説を示しつつ、人類史について意見をたたかわせる物語だ。時代を反映して、後段で、日露戦争が話題にあがってくる。
 まず、フランスの言う「全キリスト教国の犯罪」を説明する必要があるだろう。それは、ルネサンスを経て思想を覚醒させたヨーロッパは、発明と知識への欲求を高めていった。他方、そのことによって好戦本能も刺激され、西インド、アフリカ、太平洋へと領土を拡張、略奪と暴行を繰り返していった。それこそが、ヨーロッパの近代文明であり、そのような白人優位の秩序に有色人種が果敢に挑んでいる、それが日露戦争だ、というのである。
 フランスによれば、日露戦争前夜、欧州の識者は日本に「従順たれ!」と諭していた。「シャルル・リッシュ博士」は日本人の骨格を示して、「猿と人間との中間に位する動物」とし、日露戦争は「猿と人間との戦い」だ、と述べた。ここで言うリッシュ博士とは、アナフラキシー・ショックの研究で後にノーベル生理学・医学賞を受賞するシャルル・ロベール・リシェのことである。
 ドレフュス事件以降、社会主義に傾斜したフランスにとって、旅順の陥落は、これまでの「全キリスト教国の犯罪」をあばく契機となる、ととらえられた。
 『白き石の上にて』で描かれる未来は、社会主義による欧州の統合・ヨーロッパ人民連邦の成立だ。そこには、争いごとがなく、裁判所も軍隊も存在しない。連邦に暮らす人々は、能力に応じて働き、必要に応じて得ることができる。つまり、共産社会が実現するのである。そのきっかけをつくったのは日本だ。「日本が、黄色人を白色人に尊敬させることが出来るようなことになれば、日本は人類のために大きな貢献をしたことになる」というのだ。
 その後に誕生した現実の社会主義国家と日本の歩みを知るものにとっては、1905年のアナトール・フランスの見立てを素直に受け入れることは難しいが、当時の日本人が、日露戦争の勝利を経て、「東亜の小国民」から「世界の大国民」となったと自負したことを、現代人が揶揄することはできないのではないか。キリスト教国のすべての人々が、日本を「一等国」であり、「大国民」であると認めたかどうかは別にして、少なくとも黄色人種を、「人間」として扱わざるをえなくなったのである。
 だが、日露戦後に米国の西部で起こったことは、日系人に対するいわれなき差別であり、忌避だった。1905年春に米国に渡った日本人は、サンフランシスコに到着するやいなや、「ジャップ」とののしられ、馬糞を投げつけられた、と回想している(アイリーン・スナダ・サラソーン『The一世‐パイオニアの肖像』読売新聞社、1991年)。
 カルフォルニアにおける日系人排斥は、1924年の移民法をもって完成することとなる。それは、一等国を自負する日本人の顔に泥を塗る行為であり、「売られたけんか」となった(橋川文三『黄禍物語』岩波書店(文庫)、2000年)。
 時を同じくして米国は、海軍を増強し、太平洋に巨大な影響力を行使しはじめていた。仮想敵は言うまでもなく日本だ。太平洋の中央に位置する軍事拠点・真珠湾は、当時の多くの日本人にとって、「日露開戦前の旅順」とうつった。火山の多いハワイ諸島は、陸地と海面の境界線が直線的で、真珠湾はハワイには珍しく、多くの入り江を抱く港だ。水野廣徳の描く日本と米国の未来戦記でも、軍港マニラやハワイは、旅順の延長線上として描かれている。
 その話はあらためてすることとして、今号のテーマは、『戦影』の掉尾にあった「不具の廃兵」と「無告の孤独」である。日本を「一等国」に、日本人を「世界の大国民」にならしめた日露戦争の負傷兵は、日露戦後、どのように扱われたのか。そのことも、旅順に聖性を付加する要因となっていくのである。

負傷者の古参・櫻井忠温

 日露戦争では多くの将兵が負傷した。腕や足を失うといった犠牲をはらう人も少なくなかった。病気をふくめ障害をおった負傷者は「癈兵」と呼ばれた。その呼称は、日露戦後、明治天皇の「癈痼ト為リタルモノヲ悼ム」という勅語に由来する(「癈兵の哀歌」『日本残酷物語』平凡社(文庫)、1995年)。
 日露戦争における負傷者の数は、それ以前の戦いと比べて格段に多かった。前掲書には六万人と記載されている。この数は軽傷もふくめてのものだ。同書には、1932(昭和7)年の数字として、癈兵三万六千人という数が記されている。年金受給の重傷者が一万六千人、中度の賜金受給者が約二万人だ。同じく、昭和7年の数字で、日清戦争の癈兵が、前者後者をあわせて、約二千三百人なので、日露戦争の負傷者が、日清戦争と比べてはるかに多かったことが分かる。いずれにしても、日露戦後に数万の負傷者が日本にもどってきたのである。
 そのような負傷者の一人に櫻井忠温がいた。前号で触れた『肉弾』の作者である。櫻井は水野廣徳と同じ松山出身で、歩兵第二十二聯隊の聯隊旗手として、乃木指揮下の第三軍に属し、第一回の旅順総攻撃に参加した。水野は、大白山、大狐山などの戦闘を経て、望台の突撃で負傷した。
 『肉弾』が描く戦闘は壮絶の一語につきる。戦友の死骸を踏み越え進軍する。死体はおりかさなり、屍山血河をなす。全体を統率する指揮はほとんどなされず、聯隊ごとの攻撃がくりかえされた。のちにある参謀が、「人間はいくらもあったが、弾がなかった」と語ったという(「顔(自叙歴)」『櫻井忠温全集』第六巻、1931年)。そのような戦闘が幾度も幾度もくりかえされていった。その先に、二〇三高地があり、旅順港があった。
 櫻井は望台にのぞむところで、銃弾をあびる。望台は旅順港の北東にあり、その山を越えれば、旅順市街までは平坦な道のりだ。
 うけた傷は十一箇所、医者の診断は、「全身ハチの巣銃創」だった。が、幸いにも、傷は左右の手足のみで、頭も胴も腹も無事だった。
 帰国後、櫻井は広島の病院に入院する。忠温の兄・櫻井彦一郎は大隈重信と面識があり、大隈の手配で当時の軍医総監・菊池常三郎の手術をうけることとなる。名医の執刀により、櫻井は軍籍にとどまる身体をとりもどすことができた。
 なお、補足的な説明をくわえると、『肉弾』にはセオドア・ローズヴェルトの推薦文がよせられているが、ローズヴェルトに『肉弾』を贈ったのは大隈である。櫻井彦一郎は鷗村の筆名を持ち、多くの翻訳や文筆がある。新渡戸稲造の『武士道』は鷗村訳だ。
 治療中に『肉弾』は書かれた。櫻井は右手を失ったので、ペンを左手で持った。その書が1906(明治39)年に出版され、千を超える版をかさねるベストセラーとなった。さらに、英語、ドイツ語、フランス語のみならず、その他の多くの言語に翻訳されることとなる。
 負傷の話にもどる。昭和に入ってからのことだが、櫻井は姫路の陸軍病院で傷病兵を前にして講演をしている。自らを、「負傷者の古参」と称し、その誇りについて述べている。かれは、三十年このかた包帯を絶やすことはなかった(櫻井忠温「無題」『傷痍軍人に捧ぐ』厚生省、1938年)。
 癈兵が「傷痍軍人」と改称されたのは、1931(昭和6)年のことである。それは、負傷者を再度、動員するための便法だった。つけくわえると、「厚生省」が誕生したのは、上記の『傷痍軍人に捧ぐ』が出版された同年の1938(昭和13)年のこと。その目的の一つに、傷痍軍人対策があった。その事務は同省の傷兵保護課が所管した。傷痍軍人の手記を集めた『傷痍軍人に捧ぐ』も、傷痍軍人行政のお披露目の一つだったのだ。
 利き腕の右手を失った櫻井は、左手でペンと絵筆をとった。かれは子供のころから、絵を得意としており、のちに画文集も出している。櫻井は、陸軍経理学校生徒隊長、京都、小倉の師団の副官といったいわゆる学校附、司令附という職務で陸軍生活をおくり、1924(大正13)年に陸軍省新聞班長となっている。新聞班は1919(大正8)年に誕生し、陸軍の広報活動や新聞検閲をおこなう組織だ。日露戦争のベストセラー作家であった櫻井にとって、「陸軍の宣伝」はうってつけの仕事だった。櫻井は1930(昭和5)年に少将で退役、その後も文筆をつづけた。第一次世界大戦の戦跡訪問記や、旅順再訪記なども書いている。櫻井の眼から見た旅順はあらためて触れることとする。

勇士の一大楽園

 1905(明治38)年8月23日の明け方4時の横浜、巡査が泥まみれの男を発見する。男は夏目金次郎、24歳、二〇三高地からの復員兵だった。
 金次郎は、前年の11月に二等卒として旅順に出征し、同月30日に負傷、手術により右腕の肘から先を切断した。二〇三高地陥落直前のことである。
 翌年1905(明治38)年3月に除隊するが、実家は赤貧洗うがごとし、川崎の親族に身を寄せることとなった。しかし、そこの家計も苦しく、これ以上迷惑はかけられないと家を出て、自殺をはかったのである。だが、飛び込んだ掘割は干潮で水浅く、本懐をとげることはできなかった(1905年8月24日東京朝日朝刊)。
 日露戦争では、このように除隊を余儀なくされ、行き場を失った癈兵があまたあらわれた。かれらは、恩給の増額や一次賜金を得ることはできたが、その額は微々たるものだった。
 なお、金次郎については、8月24日の報道(「名誉の勇士自殺企つ」)の6日後に続報がでる。記事曰く、自殺の意図は、二〇三高地の戦いで多くの戦友が死んだのに、自らは癈兵となり、再度の出征がかなわないことにあった。その後、周囲の斡旋により、製糸工場に職を得たことが伝えられた。また、複数の篤志家から見舞金が届いた(1905年8月30日東京朝日朝刊)。
 自殺未遂を報ずる記事の末尾には以下の文が記されている。「後援の任に当る諸氏よ願はくは此憐れむべき勇士をして悲境に沈淪せしむる事なきよう後援の実を挙げられたきものなり」。金次郎への就職斡旋と見舞金は、この呼びかけに応えたものだったのだ。
 夏目金次郎の一件は、美談へと転じたが、多くの癈兵は社会の片隅で、まさに悲境に沈淪せねばならなかった。普通の家は、働き手にならない負傷兵を養うことはできなかった。そこで、癈兵が生活する施設・癈兵院が構想された。その設立を先導したのは愛国婦人会だった。
 愛国婦人会は奥村五百子(いおこ)によって設立された組織だ。北清事変の折、奥村は慰問団の一人として戦場におもむき、婦人会の創設を決意する。その目的は、軍人に後顧の憂いを抱かせないことにあった。
 愛国婦人会は1901(明治34)年に創立されている。初代会長には岩倉久子がついた。久子は岩倉具視の次男・岩倉具定の妻である。その後、総裁に閑院宮智恵子(閑院宮載仁親王夫人)が就任し、同会には、皇族婦人が名をつらねた。
 愛国婦人会による癈兵院創立の議論は、早くも婦人会設立の翌年、日露開戦の二年前から起こっている。ドイツを模した戦時負傷者施設の設立が構想された(1902年5月27日東京朝日朝刊)。1904年1月には、会合で癈兵院設立が決議されている(1904年1月27日東京朝日朝刊)。日露戦争では、開戦前から、負傷兵に対する援護策が準備されていたのである。
 日本海海戦が終わった1905(明治38)年6月には、参謀総長の山縣有朋が陸軍大臣・寺内正毅に、「癈兵院設立ニ関スル意見」を提出している(郡司淳『軍事援護の世界』同成社、2004年)。
 癈兵院の設立をうたった癈兵院法は日露戦後の1906(明治39)4月に公布される。癈兵院は法律の施行の翌年1907(明治40年)年2月に、旧陸軍病院渋谷分院跡に開設された。翌年1908(明治41)年6月には新たな癈兵院が誕生するのである。
 巣鴨に生まれた新癈兵院の敷地は、宍戸藩松平家の下屋敷で、一万八千坪におよぶ広大なものだった。建屋の南には庭があり散歩道がつづいていた。明治天皇から下賜された丹頂鶴や孔雀が飼育された。新聞は紅葉の美しさをたたえ、癈兵院を「勇士の一大楽園」と呼んだ(1908年11月30日東京朝日朝刊)。
 新たに誕生した東京癈兵院の設備は充実していたが、入院する負傷兵は多くはなく、定員を満たすことはなかった。それは、癈兵院の入院により、恩給がたたれることが主な理由だった。日本的な習慣により、家族の世間への体面が、負傷者の入院をふみとどまらせる原因ともなっていた(郡司淳前掲書)。
 昭和にはいってからのこととなるが、東京癈兵院は、1934(昭和9)年に「傷兵院」と改称され、二年後に小田原に移転、1938(昭和13)年に厚生省が誕生した折、同省の所管となり、1940(昭和15)年に箱根に傷痍軍人箱根療養所が併設されることとなる。その箱根療養所が現在の国立箱根病院だ。
 戦時期から戦後にかけての箱根療養所、箱根病院における傷痍軍人の暮らしについては、東京九段にある「しょうけい館(戦傷病者史料館)」で詳しく知ることができる。そこで私は、戦後、恩給を受けとれなくなった傷痍軍人が、寄木細工をつくり、収入を得ていたことを知った。箱根名産の寄木細工は、子供の頃、我が家にもあった。

義手と祭壇

 九段の「しょうけい館」には乃木式義手も展示されている。義手は乃木希典の発案で、当時、軍医総監だった石黒忠悳(いしぐろただのり)の助言をうけて、製造された。同館の資料によれば、その誕生は、ポーツマス条約の翌年のことだという。
 日露戦後、乃木は石黒宅を訪れ、手をうしなったものがタバコをのめるようにする工夫はないか、と語った。それから乃木の試作がはじまる。しばらくして、厚紙で造作をほどこした模型をもって石黒邸を訪ねた。それを砲兵工廠に持ち寄りつくらせたのが乃木式義手だった。そのレプリカが「しょうけい館」に展示されているのだ。
 乃木希典は義手を自費でつくり、手のない癈兵にくばった。義手により多くの癈兵が絵を描き、手紙も書けるようになった。乃木の死後のこととなるが、第一次世界大戦前、ドイツのドレスデンでひらかれた衛生展覧会に乃木式義手が展示された。世界大戦後、ドイツでもいくつかの種類の義手がつくられるようになった。その中には、明らかに乃木式義手を模倣したものがあったという(石黒忠悳『懐旧九十年』私家版、1936年)。
 乃木希典は東京癈兵院をしばしば訪れた。院長の川崎寅三の回想によれば、その頻度はひと月に1、2回を数えた。皇族から贈り物があると、それを手土産に、癈兵院に現れた。石黒がスイカをもらい、それを乃木家に遣わすと、すぐに癈兵院へと持っていった。毎年3月10日の陸軍記念日になると、乃木は癈兵の部屋を一部屋ごとにまわった(1912年9月24日東京朝日朝刊)。
 1911(明治44)年6月に英国のジョージ五世の戴冠式出席のため東伏見宮依仁(ひがしふしみのみやよりひと)と同妃が渡欧した時、乃木は随行した。同年2月14日から8月28日まで欧州をまわったのだ。その折、ドイツで癈兵院を見学している。帰国後、乃木は東京癈兵院を訪ね、入院者にドイツの癈兵院の話を披露している。
 東京癈兵院の癈兵も乃木を慕っていた。乃木の葬儀にはこぞって参列した。東京癈兵院には、乃木の祭壇がしつらえられ、命日には、追悼会が催された。また、乃木家は香典をことわったが、しかたなく受け取った香典は、東京養育院(500円)、東京癈兵院(300円)、山口県庁府孤児院(200円)に寄付された。
 生前ある時、乃木は石黒に、失明した兵について、「私共が指揮の下に此等の人の目を潰させたやうなもの」と語っている(石黒忠悳前掲書)。「予は諸君の子弟を殺したり」と同様の発言である。
 櫻井忠温の証言にしたがえば、旅順攻囲戦は、全体の指揮はなく、ただ、聯隊ごとに攻撃がくりかえされるものだった。各部隊では、人間が弾としてつかわれた。負傷した癈兵は、確かに乃木の指揮によって癈疾となったと言える。
 石黒忠悳は先の書で、その説を否定するが、乃木の死者や癈兵への贖罪意識も、明治天皇大喪の折の自刃へとつながっていくのではないか。同時に、そのような癈兵への愛情にあふれていた、という乃木の表象は、他の「乃木文学」と同様に、美談として継承されていくこととなるのだ。

俺たちのことを忘れたか

 これまで述べてきたことはタテマエの話である。現実の救済活動があまねく癈兵に行き渡っていたかというと、決してそうではなかった。前節の冒頭で紹介した夏目金次郎の事件は、美談に変わるが、その陰には悲境に沈淪する人々が数知れずいたのだ。
 日露戦後、社会をつつむ空気も変化した。綱紀粛正をうたった戊申詔書が発布されたのは戦後まもない1908(明治41)年のことである。世は第二の鹿鳴館時代となっていた。欧化が進み、奢侈な気風も人々の心をとらえていく。
 巣鴨に癈兵院が誕生した数か月後に、「癈兵の不埒」という記事が掲載される(1908年11月5日東京朝日朝刊)。東京の牛込区(当時)に、「戦病、戦没者遺族救護」を目的とした東京慈善会なる団体があった。実態は、癈兵が小間物を販売する営利組織だ。警察は説諭の上、解散させたという。
 朝日新聞の紙面をおうと、「癈兵授産」をうたう広告が、1906(明治39)年秋頃から頻繁にあらわれるようになる。石鹸、歯磨き、香水、洗剤の商売を癈兵に勧誘するそのような内容である。広告にあらわれた組織のすべてが、「不埒」なものかどうかはわからないが、癈兵による訪問販売が社会問題化していたことは事実である。一例をあげると1910(明治43)年4月22日の記事(「偽癈兵の行商」)は以下のように書く。

 近来、癈兵院の癈兵なりと称し白衣を着(ちゃく)し赤十字の記章ある帽子を戴きたる者市の内外を行商し如何(いかが)はしき物品を高価に売付け若し之を拒めば忠勇なる癈兵を侮辱するものなり抔(など)と暴言を吐き散らす者あるが東京癈兵院に収容する癈兵は官の給与を受け其余生を楽しむものなれば行商に依り営利の途(みち)を講ずる如きは絶無なり上記の行商を為す者は癈兵の名目を詐称して世人を欺瞞する詐欺漢なれば世人は之に瞞着せられざる様注意ありたしと川﨑癈兵院長は語る(1910年4月22日東京朝日朝刊)。

 この記事があらわれるのは明治末年のことだが、時代が大正へはいると、社会の癈兵に対する眼もさらに変化をとげていくこととなる。ありていにいえば、かれらを忌避するようになっていくのである。上記のような「癈兵の不埒」や、「詐欺漢」がその流れを加速させた。
 江口渙に『中尉と癈兵』という小説がある。『モダン都市文学Ⅷ プロレタリア群像』(平凡社、1990年)におさめられている。初出は1919(大正8)年発行の雑誌『新小説』だ。日露開戦からすでに15年の月日が経っていた。
 創作ではあるが、明治から大正への時代の変化と、当時の癈兵のおかれた状況がわかるので、内容を紹介しておきたい。なお、江口渙は大正初年にデビューし、昭和になり社会主義に接近した作家で、活動家でもある。

 主人公の「園信次」は福知山聯隊(歩兵第二十聯隊(第十師団))少尉として日露戦争に出征した。1904(明治37)年夏におこなわれた遼陽会戦の最終局面、首山堡の戦いで、戦友が倒れていくなか、幾度も突撃を繰り返し、軍功をあげる。だが、敵砲弾によって左足を負傷し、膝から下を切断する。園信次は、その戦功によって中尉となり、功三級の金鵄勲章と勲六等の単光旭日章に叙せられ、年金三百円と恩給を受けることとなった。 
 首山堡の戦いは遼陽会戦の天王山だった。そこで戦死した歩兵第三十四聯隊の橘周太は、のちに海軍の廣瀬武夫とならぶ、陸軍の軍神となった。当時「園信次」は、しばしば新聞にも取り上げられた、そのような設定である。
 かれは帰還後、東京麹町にある旧藩主の家に身を寄せ、書記頭をつとめていた。それも、園の「赫々たる武勲」におうところが大だった。入院していた病院の看護婦と結婚しており、一家でその旧藩の地所で暮らすようになったのである。その旧藩主が他界し、代が若当主に変わると、育英会設立をぶちあげ、麹町の家屋敷は売却されることとなった。園は妻と二人の子とともに、借家へと引っ越さざるをえなくなったのである。その場所は巣鴨だ。
 園信次には文才があり、麹町にいた時にも、戦争譚を雑誌に投稿し、いくばくかの稿料を得ていた。借家への転居時はすでに大正にはいっており、出版社をまわっても、編集者からかえってくる言葉は、「欧州戦争のものなら何時でも戴きますが、日露戦争では読者の方があきあきしていますから」とすげないものだった。日露戦争の記憶は、遠いものとなっていたのだ。また園は、新たに欧州戦争を描くために必要な語学の素養ももちあわせてはいなかった。
 想像するに、このあたりを描くにあたって作者・江口渙の頭の中には、水野廣徳のことがあったのではないか。欧州戦争を描く水野については改めて記すこととする。
 話を『中尉と癈兵』にもどす。
 巣鴨の借家は風呂がなく、銭湯を使わねばならなかった。しかし、片足を失った園に投げかけられる視線は、「あわれみと蔑(さげすみ)と軽い嫌悪との心持が絡み合っている瞳ばかり」だった。
 日露戦後の数年間、風呂屋に行くと、「名誉の負傷」とささやかれ、見ず知らずの人から、戦闘の状況について聞かれることもあった。新聞で「園信次」の名を眼にした人もおり、かれの英雄譚に聞きほれる人もいた。しかし、十数年の歳月を経て、周囲の眼はすっかり変わってしまったのである。
 ある時、外回りから家へもどると、福知山聯隊の部下で、一等卒だった岡井が来ていた。岡井も負傷兵で左腕がきかなくなっていた。かれは一旦郷里にもどり在郷軍人会で書記をつとめていたが、景気悪化の余剰人員整理で職場をおわれることとなる。上京し、転がり込んだ先が「日本癈兵救護会」なる組織だった。
 その後岡井は、信次の留守に歯磨きなどの小間物を売りに来るようになった。その値段は市価よりも高かった。園の妻が逡巡すると、岡井は表に聞こえるように、園夫婦のなれそめを語る。園の妻は体裁を気にして、岡井から小間物を買わざるを得なかった。
 『中尉と癈兵』には、岡井以外にも、行商をする癈兵がでてくる。園が息子と銭湯へ行くところで、演説をぶつ「癈兵」に出くわした。かれらは二人組で、黒い詰襟の男が一席ぶち、カーキ色の服がしたがっていた。どちらも日露戦争の癈兵だ。前者は鉄嶺の追撃戦で、後者は樺太の占領戦で負傷したと自称し、陸軍省の発行する癈兵章を持っていると述べた。その詰襟男の口上を引く。長くなるが、かれらが、市価より高いものを売る理屈がお分かりいただけるだろう。

 みなさん、我々はかつてみなさんに代って国家のために命懸けで敵と戦いました。無論命懸けで戦争に行ったものが無事に生きて帰って来られれば、それだけでも十分有難い事であるかも知れません。然し生きて帰っては来たもののこんな不具になった以上何処へ行っても使ってはくれず、自分で働きたくっても働くわけには行きません。手内職をして死ぬほど稼いだ処で健康な者の半分も稼げません。殊に物価騰貴の折柄このままで行けば吾々は結局飢え死にをする外はないのであります。それも吾々だけが飢えるのでなく、親兄弟までも飢えるのであります。だから吾々はみなさんのご同情に訴えて是非とも多少のお助けを希いたいのであります。若しかつてみなさんに代わって働いた名誉の負傷者が、平和の時代になってからその名誉の負傷のため働けなくなって飢え死にをしなければならないのを少しでも気の毒とお思いなさって下さる方があれば、どうか吾々の売っている品物をお買い下さい。吾々は偽物の癈兵のように玄関に座り込んで無理に押しつけをするようなことはいたしません。唯、厚い御同情に訴えるのであります。

 男の演説は、悲壮をよそおい、誇張をまじえていた。それゆえに、聞いているものに空虚な感情をもたらし、同じ癈兵である園信次にさえ、忌避感をいだかせるものだった。その誇大な演技は、原稿の売り込みのために出版社をまわる園自身を想起させた。
 数日してまた岡井がやって来た。園は、詐欺同然のことはするな、と岡井を追い払う。家を出た岡井は表通りで、仲間の癈兵に、「遣繰中尉の吝嗇坊野郎がとうとう怒りやがった」とわめきちらした。この場合の「遣繰(やりくり)」は貧乏と同義であろう。岡井が商売をはじめる前、上官だった園は、岡井にいくばくかの金を渡していたが、恩を仇で返されることとなったのだ。
 岡井をふくむ七、八人の癈兵は、通りで口上をぶちはじめた。それは、以前の黒い詰襟の男の話と同じような内容だった。路地の家はどこも戸口を閉じ、ひっそりと静まりかえっている。
 業を煮やした癈兵は、口ぎたなくののしるのである。「貴様達のために不具となった俺達の事を忘れたか……恩知らず奴。吝嗇坊……貧乏人……馬鹿野郎」。
 その言葉は、園の忍耐の限度を超えるものだった。「自分も軍人であり、同じ癈質者である以上、あの罵詈讒謗だけは是非とも止めなければならない、いくら何でもあんまりだ」と心のなかで叫ぶ。
 だが、片足の園は容易に立ち上がれない。松葉杖を妻から受け取る前に、岡井ら癈兵の行商人は、「癈兵の歌」なる悲しい調べをうたいながら、巣鴨の路地を去っていくのである。

 要約では、原作の持つ味わいを充分に伝えることはできないだろうが、主人公「園信次」のやるせなさは、多少ともお伝えすることができたのではないか。日露戦後の癈兵のおかれた状況と、明治から大正への時代の変化が、胸に突き刺さってくる、そんな結構の小説である。

例の残桜会で今度は

 これまで述べてきたことは、国家政策としての癈兵救護と、その措置が十分でないために、癈兵が手をそめる怪しげな商売と、かれらを見る社会の眼の変化である。
 『近代日本の戦傷病者と戦争体験』(松田英里、日本経済評論社、2019年)を読み、日露戦後しばらくしてから、癈兵自らが団体を結成し、待遇改善のために立ち上がった史実を知った。
 第一次世界大戦を機に、物価が高騰し、暮らしを直撃した。そんななか、1919(大正8)年に、恩給増額をもとめる組織・残桜会が結成されたのである。会員は癈兵とその遺族からなっていた。大正8年とは、先の江口渙の小説が発表された年である。残桜会をふくめた癈兵団体のはたらきが奏効し、1923(大正12)年に公布された恩給法では、増額が認められることとなった。
 だが、残桜会はその後、内紛をおこす。理事長の谷田志摩生(しまお)が会員に恩給増額を成功させた報酬をもとめ、そのことが暴露されたのである。今度は谷田が、自らを告発した幹部を名誉毀損で訴える。残桜会の内訌は法廷の場に持ち込まれることとなった。裁判では、癈兵をつかっての金儲け、という谷田の発言までが証言された(1924年8月21日東京朝日夕刊)。結果、300名の廃兵が残桜会を脱会(同年10月31日東京朝日夕刊)、別組織・東京癈兵団の支部が結成された(同年11月1日東京朝日朝刊)。
 1925(大正14)年1月16日の残桜会による癈兵遺族連合大会では、関東大震災で給付された救護品の不正を告発するビラがまかれ、殴り合いまで繰り広げ、巡査30名に憲兵までもが出動した。事件を報じる記事には、「例の残桜会で今度は大格闘」との見出しが付けられた(同年1月17日東京朝日夕刊)。
 そのような事件の後におこなわれたのが、残桜会による満鮮追悼旅行であった。「例の」という不名誉な記事の3か月後のことだった。
 それは、日露戦争の戦跡をまわり、戦没者を慰霊する旅である。一行は二百名あまり(1925年4月13日読売新聞朝刊)、その中には癈兵と遺族、さらに僧侶3名がふくまれていた。
 4月13日に東京駅を出発し下関へ、15日に下関から船で釜山へ、釜山から京城、平壌を経て、安東、奉天、撫順、渾河、遼陽、水周子、最後に旅順、大連をまわって、船と鉄道に分かれて帰国した。朝鮮半島を北上し折り返して遼東半島を南下するコースである。大連から門司への到着が4月27日、二週間の旅だった。
 旅順では、白玉山の納骨祠で手をあわせた。二〇三高地へものぼった。大連では市民の歓迎をうける。癈兵は旅順でいかなる感慨をもったのか。
 実は、この追悼旅行はワシントン会議のあとのことだ。1921(大正10)年11月から翌年2月にかけておこなわれたワシントン会議では、海軍の軍縮が決まった。日露戦争でつかわれた艦船も廃棄された。その中には、東郷平八郎が乗艦した連合艦隊の旗艦・三笠もあった。
 中途半端な終わり方となって恐縮だが、この続きは、ワシントン体制という軍縮の時代を説明しつつ、語りなおした方がよいだろう。この満鮮追悼旅行、そこにおける、旅順戦跡巡礼の話は第六回でする。

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授、現在、特任教授。専門はメディア論。主な著書に『第七師団と戦争の時代 帝国日本の北の記憶』『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)他。

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