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「聖地 旅順への旅」渡辺浩平

第二回 水雷艇の旅順口


白玉山塔(表忠塔)展望台から旅順港をのぞむ。港口の右が老虎尾半島、左が黄金山。

 この連載は、日露戦争からはじまり、旅順がソ連によって占領されるまでの40年と、その後、中国へ返還されるまでの10年間、あわせて半世紀の歴史をつづることを目的とする。
 但し、焦点をしぼって直線的に史実を記述するという方法はとらない。言い方をかえれば、まっすぐに「聖地旅順」へ向かうわけではない。寄り道をしつつ、目的地を目指すこととなる。なぜ、そのような方法をとるのか。
 それは、「旅順」を、多少とも幅をもってとらえておきたいと思うからである。司馬遼太郎が言うところの「磁気」を、さまざまな角度から検討しておきたいのだ。
 日本にとって旅順は、大東亜繫栄の礎をつくった場所だった。国際都市大連が誕生し、「満洲国」建国後は「新京」が建設され、満鉄あじあ号は大連ハルビン間を100キロ超の速度で走った。「楽土」が生まれた、と少なからぬ日本人は考えたのである。
 だが、中華民国にとってそれは、領土の侵犯であり、国際連盟にとっては、ワシントン条約で結ばれた9か国条約の違反であった。特に、20世紀初頭から太平洋に権益を拡大していた米国のトラの尾を踏む行為だった。そして、その先に日中戦争があり、対米開戦があり、ソ連の参戦があったことはご存じの通りである。
 旅順の半世紀は、曲がりくねったものとなった。その蛇行した道を、当時の人々の視点にそって歩みなおすことが、この連載の目的となる。
 回り道にあたっては、何人かに道案内をお願いすることとなるが、その一人に水野廣徳(みずの・ひろのり)がいる。
 現代を生きる我々にとって、日露戦争を描いた文芸と言えば『坂の上の雲』が最初に思い出される作品となろう。しかし戦前においては、『肉弾』と『此一戦』が代表作だった。『肉弾』の作者は櫻井忠温(さくらい・ただよし)、『此一戦』が水野廣徳である。櫻井は陸軍で、旅順攻囲戦に加わり、水野は水雷艇にのって旅順閉塞作戦と日本海海戦に参加した。
 『肉弾』が上梓されたのは講和条約の翌年1906(明治39)年のこと。『此一戦』の出版は、それから遅れること5年、1911(明治44)年である。どちらも、洛陽の紙価を高めることとなった。当時、一般の読者に向けて日露戦争を語る書籍、それも実際に戦場に立った軍人の手によるものは、その二著しかなかったからである。
 軍人作家として名を高めた二人だったが、その後、異なる道を歩むこととなる。櫻井は陸軍にとどまるが、水野は第一次世界大戦後に軍籍をはなれて、文筆に専念することとなる。軍を去るきっかけとなったのは、第一次大戦下と戦後の二度の欧州旅行であった。二度目の旅では西部戦線の激戦地ヴェルダンや敗戦国ドイツの首都ベルリンを訪れている。
 帰国後水野は、これまでの軍備拡張を第一に考える思考をあらためて、軍備撤廃を主張することとなる。また、想像の日米戦記をあらわし、そこでは空襲により火の海と化す東京が描かれるのだ。
 話がいささか前に進みすぎた。そろそろ今号の本題へと入ろう。前回は、陸から見た旅順を述べたので、今回は、水野廣徳が参加した旅順閉塞作戦を通して、海から旅順を眺めてみることとする。

泳いででも旅順へ行く

 水雷艇の乗組員は衣服が汚いもの、ときまっていたという。水雷艇とは、水中で爆発する爆弾をつんだ軍艦だ。水野の言葉をかりると、「木っ端の如き小さき水雷艇」ということとなる。『此一戦』では、水雷艇乗りを「乞食商売」と呼んでいる。

 世に水雷艇乗を称して乞食商売といふ。其の因って来る所以を知らずと雖も、服装の穢き点に於て、食事の粗末なる点に於て、居住の窮屈なる点に於ては、少くも相類似して居る(『此一戦』『〈新装版〉水野廣徳著作集』第1巻、雄山閣、平成29年)。

 水野廣徳はその水雷艇第十艇隊第四十一艇の艇長だった。第十艇隊には、第三十九、四十、四十一、四十三の四艇が属していた。第十艇隊(司令:大瀧道助)の上部組織は、片岡七郎(中将)ひきいる第三艦隊だ。
 水野の所属する水雷艇隊は、旅順の海戦につづき、日本海海戦にも参加し、ロシア艦艇への迫撃戦で軍功をあげ、東郷平八郎名の感状をうけている。
 水野は日露戦後に軍令部にうつり、日露海戦記『明治三十七八年海戦史』の編集にたずさわり、その後、個人で戦記を出版する。そのうち、旅順海戦記が『戦影』であり、日本海海戦を描いたものが『此一戦』である。だが、発表年は時系列と異なり、後者が1911(明治44)年、前者はそれから遅れること3年、1914(大正3)年のことだった。
 『此一戦』は当時の最大手・博文館から出版され、百版をかさねるベストセラーとなったが、『戦影』はそうはならなかった。だが、二つの書籍の自己評価は異なり、『戦影』を「会心の作」と称していた。
 日露戦争の陸戦をえがいた櫻井忠温の『肉弾』では、当時、日露戦争への出征をのぞむ将兵の心持を「動員乞(ごい)」という言葉であらわしていた。衛戍地で大命を待つ心理を言う。海軍とて同じであった。
 水野が第四十一艇長となったのは、開戦の前年1903(明治36)年12月のことだ。水野ら水雷艇の乗組員は佐世保鎮守府にいた。佐世保港には軍艦がひしめいていた。徹夜で工事がすすみ、舷外は戦闘色の濃いネズミ色に塗りかえられた。
 世は「露撃つべし」の声が鳴りひびき、新聞も「斬るべし」「屠るべし」と絶叫した。海軍に対しては、開戦の詔勅を待たずに、独断で進発しろとあおった。出征を待つ士官も高揚し、飲み屋で酒にまかせて大言壮語、あげくは、「泳いででも旅順へいく」といきまくものもいた。日本が有する総排水量25万屯の艦隊を、「いま出さずして、いつ出すのか」という機運がみなぎっていたのである。
 ここで、日露の海軍力を比較しておこう。ロシアの戦力は排水量51万屯となるが、極東に配備されている太平洋艦隊はうち19万屯、それは、ウラジオストクと旅順、さらに朝鮮半島の仁川にあった。日本海軍は屯数ではまさっているものの、太平洋艦隊はいずれも新鋭で、ロシア海軍最強との誉れが高かった。それゆえに、日本海軍は早期に旅順艦隊を撃破し、いちはやく黄海の制海権を獲得して、満洲へと兵を送り出さねばならないのである。そのためには、「駆逐艦、水雷艇の全部を旅順港に進めて、疾風迅雷的に夜襲を決行」せねばならなかった。
 そこでとるべき作戦が、ロシア軍艦を港内に閉じ込める閉塞作戦だった。再び水野の言を借りると、「漏斗の尻に栓」をする作戦である。港の入り口が狭いゆえに可能なものだ。聯合艦隊の命令では、「港口ヲ閉塞シテ地水ト化シ敵ノ大部ヲ無能ナラシメ」る作戦であった。その「栓」には、廃棄される商船が使われた。閉塞船には石材が積み込まれ、その隙間にセメントを流し込み、壁を隔てるリベットをとりのぞき、防水区画をゆるめた。爆沈を容易にするためである。
 第十艇隊が佐世保を出港したのは1904(明治37)年1月のこと。平戸を経て、対馬に寄港した。対馬の竹敷には要港部があった。そこであたえられた任務は、黄海における夜間警備だった。水野の言葉を使えば「夜回り」である。それが、2月はじめの開戦以来ひと月ほどつづいた。水雷艇隊の属する第三艦隊そのものが、後備兵という役回りだった。水野は「旅順へ」とはやる気持ちをおさえるのだ。

杉野はいずこ

 すでに閉塞作戦ははじまっていた。新聞は、閉塞隊員の一言一句を伝えた。世は「閉塞隊員にあらずんば真の軍人にあらず」という空気に満ちていた。佐世保と竹敷の間には三日おきに通信船が運航し、新聞が届けられた。後備担当の将兵は、新聞で旅順海戦の報を知り、切歯扼腕する。
 敵艦を港に閉じ込めるこの作戦は、米西戦争でアメリカ海軍がサンチャゴ港に停泊していたスペイン艦隊にしかけたことを始まりとする。それを、連合艦隊参謀の有馬良橘(ありま・りょうきつ(中佐))が司令官の東郷平八郎に提案したのである。東郷は当初、閉塞隊員の命が保障されないこの作戦に許可を与えなかった。しかし、どうしても旅順港をおとせないために、やむなく認めたのである。
 危険な任務のため、隊員は募集という形式をとった。2000余名が応募した。うち77名が採用された。士気は極めて高かったのである。
 閉塞作戦の第一回は2月24日、第二回が3月27日に行われた。廣瀬武夫(少佐)は、有馬のもとで第一回から参加した。第一回閉塞作戦では、有馬が嚮導船・天津丸に乗り、廣瀬は第二閉塞隊・報国丸を指揮した。第二回でも有馬の船・千代丸に従い、第二閉塞隊・福井丸の指揮官をつとめた。その福井丸の指揮官附が上等兵曹の杉野孫七だった。
 第二回閉塞作戦で廣瀬の船・福井丸は、千代丸につづいて爆沈した。福井丸の乗組員は、脱出用ボートに移乗するも、杉野がいないことに気づく。廣瀬は沈みゆく福井丸の捜索を行ったが杉野を発見することはできなかった。やむをえず、福井丸の乗組員はボートで収容艦を目指したが、敵哨艦に発見されて銃弾をあび、廣瀬は命を落とす。
 戦死の月末には、「軍神廣瀬中佐」なる言葉が紙面にあらわれている(1904年3月30日東京朝日朝刊)。廣瀬はその死後に中佐に昇進していた。「軍神廣瀬」は後に文部省唱歌にもうたわれ、廣瀬と杉野の銅像は、東京神田の万世橋に建造された。しかし戦後は、戦意高揚をあおった「戦犯銅像」とされ、撤去されることとなる(NHKアーカイブス『銅像の戦犯裁判』)。
 廣瀬武夫は誰でもが知る英雄だった。十歳ほど年長の知人は、家に「廣瀬中佐」のレコードがあり、いまだに「杉野はいずこ」というフレーズが耳にのこっている、という。

わが村の廣瀬中佐

 『戦影』には「悲劇」という章があり、そこでは、水野のもとにいた一人の水兵が描かれている。父の代で家運傾き、小学校にも通えなかった。が、勤務時間外にも勉強をかかさない勤勉な部下だった。
 ある時、その水兵が、閉塞隊員へ志願する嘆願書を書いていた。理由を聞くと、父と妹からの手紙にある、という。父はそれまで、子に直接手紙を出すことはなかった。しかし、今回は以下のように書いてきた。「一家の事など毛頭心に懸けず、大君の為め充分忠勤に励み、家名を揚ぐる事肝要に御座候」。妹からは八幡様の勝軍護身符が送られてきた。妹は手紙のなかで、川向こうの「×吉」が閉塞隊に選ばれて手柄をたて、わが村の廣瀬中佐と言われている、としたためていた。
 これまで、手紙はすべて妹に代筆させてきた父が、直に書いてきたのは、自分の働きに満足していないからだろうと思い、涙を落とす。一艇長である水野には、希望をかなえてやることができず、時機を待つべし、と諭した。
 ある日、くだんの水兵が激しい腹痛を訴えた。外海にいるため、医者に見せられない。しばらくしてから竹敷に戻り診察をうけると、「手遅れ」との診断だった。盲腸炎と腹膜炎の併発だった。
 水兵が死に、一切を終えて後、妹からの手紙が届いた。兄が生前厚情を受けたこと、死の折はお世話になったこと、その礼が述べられていた。あわせて、兄につづいて、父も他界したことがつづられ、以下の文がつづく。「父こそは老年なれば致方も無之(これなく)候得共、せめて兄には戦死なりと致させたかりしと、是れのみは返す返すも残念と存候」。
 戦死により「名誉の死」となるのであろう。あるいは、戦死と病死では、金銭的な補償(恩給)が異なるのかもしれない。それはわからない。閉塞隊への参加を切望する水兵の気持ちと妹の手紙から、日露戦争期の社会心理を読み取ることができるだろう。
 そのような心理を、当時の世論も、また新聞も支え、鼓舞したのである。むろん、非戦を訴えた「平民新聞」やキリスト者はいた。が、それは大勢を占めなかった。大町桂月は、「君死にたもうことなかれ」とうたった与謝野晶子を厳しく指弾した。
 そのような空気を理解しなければ、閉塞作戦に2000名の応募があったという事実は理解できないし、第二回目の閉塞作戦で死んだ廣瀬武夫が「軍神」となった史実もまた理解ができないこととなる。また、そのように戦没軍人に畏敬の念をいだく心理がわからないと、敵将マカロフに対して、当時の日本人が抱いた感情も理解ができなくなる。
 マカロフはトルコ戦などで軍功をあげ、軍略の書籍もあるロシアの著名な海軍軍人だった。日露戦争の初戦において、太平洋艦隊の司令官をつとめたのはスタルクだったが、日本海軍の奇襲をゆるしたことで解任され、1904(明治37)年3月9日にマカロフが太平洋艦隊の司令官に就任することとなった。
 マカロフは麾下の艦艇のみならず、末端の水兵にまで細かい指示を出した。現場主義をつらぬき、巡洋艦バヤーンが外海で窮地におちいった折、マカロフ自身が旗艦ペドロパウロスクに搭乗して救援にむかった。が、日本海軍が仕掛けた機雷に接触し、ペドロパウロスクは沈没する。1904(明治37)年4月13日のことだった。
 『坂の上の雲』では、マカロフについて一章を割いている。そこでは、水兵から「マカロフじいさん」と呼ばれ慕われていたことが記されている。この稿を書くにあたって資料にあたると、マカロフの享年は55歳だった。その相貌は頭が禿げ上がり、長い髯をはやしている(外山三郎『日露海戦史の研究』上、教育出版センター、1985年)。明治のころは、その年で「じいさん」だったということだ。
 マカロフについては、日本でも多くの伝記が出版されている。石川啄木は「マカロフ提督追悼の詩」をうたった。
 ペドロパウロスクには画家のヴェレシチャーギンが同乗していた。かれは戦争画家だった。非戦をとなえた「平民新聞」は、ヴェレシチャーギンの肖像を掲載し、幸徳秋水は追悼文を書いた。「氏は人生の苦痛に対して熱烈なる同情を有し、万国の平和を来さんが為めに常に戦争の悲惨を描けり」、それは「トルストイが文章を以てせし説教を、丹青の技を以てなしたりき」と述べた。丹青は絵具のことである。
 秋水は言う。「露国暴なりと雖も猶ほ如此(かくのごと)き人を生して其軍艦中に伴へりき、吾人は此点に於て露国の大を認めざる能わず」(「平民日記」32号、明治三十七年六月十九日、原題「日記の一節」『幸徳秋水全集』第五巻、日本図書センター、平成6年(復刻版))。
 前号で記したロシア戦没者の慰霊碑にも言えることだが、日本人はロシア人を畏敬の念をもって遇していた。秋水の言葉を使えば、「露国の大」を認識していたのである。

作戦中止

 話を閉塞作戦に戻す。
 第一回閉塞作戦も第二回も失敗におわり、東郷はさらなる規模の閉塞作戦を計画した。陸軍の第一軍は北進し、第二軍は遼東半島の塩大澳(えんだいおう)上陸を目前にしていた。塩大澳は遼東半島の東岸、旅順からわずかな距離だ。ウラジオストク艦隊の動きも活発化していた。なんとしてでも、旅順港を制圧せねばならないのだ。聯合艦隊は大本営に対し、12隻の閉塞船の調達を要請した。あわせて、操舵に熟練する隊員を募集した。閉塞船の数は、第一回が5隻、第二回が4隻なので、今回はさらに規模の大きな作戦が計画された。
 その12隻の閉塞船を4つの小隊にわけ旅順へと向かわせるのである。水雷艇の任務は、閉塞船を援護し、作戦実施後は、閉塞隊員を収容する、というものだった。そこに水野の所属する第十艇隊がついた。水野にとってはこれが初陣だった。
 12隻の閉塞船の一つに三河丸がいた。三河丸は郵船が所用する老朽船で、他の閉塞船同様に、沈めても惜しくない船だった。その三河丸の指揮をつとめたのが匝瑳胤次(そうさ・たねじ)だった。匝瑳は、水野と海軍兵学校26期の同期だ(匝瑳胤次『第三回旅順閉塞作戦秘話』東京水交社、昭和9年)。
 閉塞艦隊は5月1日17時、寄港地である朝鮮半島中西部の海州を出発した。総指揮官は林三子雄(はやし・みねお(中佐))がつとめた。隊員は将校下士官をふくめて244名。艦艇はあわせて60隻、それが旅順へと向かった。
 天候が悪化したのはその日の夜からだった。濃霧が予報された。明くる5月2日朝、海はさらに荒れた。「白波奔騰、狂瀾怒号の荒波に変じた」と水野は書く。閉塞船はもともと商船である。速力も軍艦に比べてすこぶる遅い。荒天により艦隊の陣形が崩れた。さらに、もう一つ事故が起きた。閉塞船・釜山丸が機関故障で離脱、閉塞船は11隻となった。
 5月2日19時、うねりが静まったところで、閉塞船は護衛戦隊と別れた。黄海をほぼ横切ったあたりである。軍楽隊は「進軍」を演奏し、旗艦には「予め成功を祝す」という信号が掲げられた。駆逐艦、水雷艇など一部の軍艦が、閉塞船を護衛して旅順へ向かった。
 閉塞作戦実施は、5月3日深夜零時をもって開始される予定であったが、総指揮官・林三子雄は作戦中止を決断する。閉塞隊員の収容が困難となり、多数の犠牲が出ることを危惧したのである。しかし、時すでに遅く、命令が全艦船に行きわたることはなかった。深夜になると、さらに海は荒れた。5月2日の23時の様子を水野は以下のように書く。

 滝なす飛沫は絶間なく頭上より振り懸つて、眼を開くことさえ出来ない。外套も、上衣も、襦袢も、忽ちにして浸され、総員唯柱を抱き、策に縋つて、僅かに身を支ふるばかり、顛覆沈没を覚悟して、今はわが身が決死隊である。嗚呼、天何の恨む処あつてか、今にして此の暴威を振ふ? 天祐常に我物にあらずだ(『戦影』)。

 遼東半島の沿岸部が眼下にはいり、敵の探照灯が暗闇をなめた。水野の艇は、冷たい海水を浴びて指示された哨区に漂っていた。
 閉塞船11隻のうち8隻に作戦中止命令は伝わっていなかった。水野の艇にも命令は届いていない。閉塞船は、すさまじい嵐の中を港口へと突進する。水野はその光景を望見していた。その一隻に三河丸があった。三河丸は隊列の先頭にいた。

意外に良果を奏し居るもの

 ここで視点を変えて、この閉塞作戦を三河丸から見ておくこととする。
 僚船から離れた三河丸は、決行の零時を過ぎ、しばし突進を逡巡していたが、敵の砲火が激しくなり、もはや猶予すべきではないと判断し、決然と突き進んだ。港外には防材がはりめぐらされていたが、三河丸はそれを突き破っていった。敵の砲弾、銃弾で乗員が倒れる。しかし指揮官の匝瑳は、砲火をものともせずに港湾深くへと侵入する。目的地につき、「総員退船用意!」と指示をだし、負傷者を含めて脱出用のボートに乗りこみ、自爆装置に点火した。「船は轟然たる爆声と共に、破片砕片奔騰散乱の中に、忽ち艪部より沈没しはじめた」。日本刀をふりおろし、吊策を切って脱出した。三河丸についで、他の閉塞船も突進した。その数つごう8隻。
 水野が乗る第四十一艇が三河丸の乗員を発見したのは、爆沈から2時間あまりたった4時半のことだった。港口の東側にある黄金山から南方一海里の位置、探照灯の閃光により、波間に上下する黒いボートを見つけたのだ。
 水野廣徳が三河丸を発見し、もらした言葉は、よくもまあ無事に帰ってきた、という一言だった。あと2,3時間ボートで漂っていたら、飢えと寒さで力尽きたことだろう(前掲『第三回旅順閉塞作戦秘話』)。
 また、先の話をすることとなるが、海兵同期の水野廣徳と匝瑳胤次の二人は、その後、異なる道を歩むこととなる。匝瑳はワシントン条約後に予備役となり、退役後『深まり行く日米の危機』をあらわし、激烈な反米論を展開した。匝瑳とは異なり日米非戦論の立場をとる水野は、これでは「深め行く日米の危機」だと強く批判することとなる(『興亡の此一戦』『〈新装版〉水野廣徳著作集』第3巻、雄山閣、平成29年)。この連載では、「旅順」体験者のその後に触れ、日本の近代史における旅順の多義的な側面についても考えてゆきたい。
 閑話休題、では、第三回閉塞作戦の結果はいかなるものだったのか。
 11隻のうち8隻が閉塞を決行したことはすでに述べた。うち4隻(朝顔丸、小樽丸、佐倉丸、相模丸)が全滅した。
 8隻の乗員は158名で、うち収容されたものは67名(うち戦死5名、負傷20名)、翌朝ロシア側によって収容されたものが17名(うち戦死1名)であった。戦死、行方不明者をあわせて90名を超え、それ以外にも負傷者が多数出た。第三回閉塞作戦では、閉塞隊員の三分の二が犠牲になったのである。
 東郷平八郎が現地に向かったのは、作戦翌々日の5月5日のことだった。8隻の閉塞船の沈没箇所を確認し、大本営に報告するためである。報告書の前段で東郷は、「第三次ノ閉塞ハ前二回ニ比シテ其ノ事業ニ頗ル困難ナリシニ拘ラス意外ニ良果ヲ奏シ居ルモノ」とした。
 水野は『戦影』の「閉塞隊」の章を以下の文でしめる。

 狂乱怒涛を冒して決行せられたる第三回旅順口閉塞は、其の行動たるや斯くの如く壮烈に、其の結果たるや、斯くの如く悲惨なものであった。帝国海軍は、之を以て後世に対する誇りと為し得ると共に、国民は忠勇なる、此の犠牲者に対して、深く敬意と感謝を払わねばならぬと信ずる(『戦影』)。

 第三回閉塞作戦は、とても「良果を奏した」とは言えなかったのである。港口も閉塞されることはなかった。その作戦計画とその指揮も極めてずさんなものだった。そのようにして、多くの閉塞隊員が藻屑となったのである。

嗚呼、戦争! 嗚呼、戦争!!

 海軍のこのような失敗が、陸軍への強い要請となり、乃木第三軍による旅順攻囲戦へとつながっていく。『第七師団と戦争の時代』では、第七師団の旅順を記したので、ここではこれ以上は触れない。今号の最後に、二〇三高地占領後の話を書きとどめておく。
 12月5日に二〇三高地を奪取し、そこに観測所をおき、28センチ榴弾砲を発射、7日までに旅順港に停泊する軍艦をほとんど沈没させた。が、戦艦セヴァストポリは、9日の未明に、港外へと逃れることとなる。セヴァストポリは、四門の12インチ砲と十門の6インチ砲を搭載しており、逃すと大きな脅威となる。
 東郷平八郎は、9日夜にセヴァストポリ攻撃を指示、その任務を水雷艇に託した。水雷艇の兵器は、14インチ水雷のみである。しかし敵は、先に述べた通り水雷から身をまもる防材(防禦網)を設置している。日本海軍の水雷にはその防禦網をやぶる切網器をそなえていないものもあった。よって連日の攻撃にも、セヴァストポリは沈むことはなかった。
 業を煮やした東郷は、12月14日朝に新たな指令をだす。「14インチ魚形水雷を以て防禦網を張れる敵艦を撃破し、以て帝国水雷艇の名誉を維持せよ」。旅順港の軍艦を撃破したのは陸軍だった。この段にあって、セヴァストポリを逃すわけにはいかないのである。
 水野の所属する第十艇隊に出動が命じられたのはその日の夜だった。奇しくも、旧暦のその日は、赤穂浪士討ち入りの日だ。天は曇り、風寒く、雪舞う寒い日だった。
 出動艇は30隻、水雷の搭載と炭水の補給のために母艦との間を往復した。
 セヴァストポリは、砲艦オトワズヌイと駆逐艦数隻とともに、城頭山の砲台の下にひそんでいた。周囲には、水雷を防禦する防材がはりめぐらされていた。さらに、城頭山、饅頭山、蛮子営などの砲台がまわりを睥睨していた。なお、饅頭山、蛮子営は老虎尾半島にある砲台である。
 出発の折は深夜にもかかわらず、母艦の総員が登舷礼式で見送った。登舷礼式とは乗員全員が舷側で敬意を示す儀礼式である。決死行なのだ。
 錨地をはなれると先発艇隊に敵の砲弾が打ちこまれた。水野の第十艇隊はその後ろにいた。水雷艇は単縦列になって、セヴァストポリを目指した。先頭の艇が射程内に入ると、敵砲台からは、砲弾があびせられる。
 水雷艇は次々に敵前に進み、水雷を発射、水野の艇が敵前数百メートルにせまった。艇首から一発を発射、三個の魚雷を発射すれば、任務が終わる。発射後、ただちに左に転舵、敵前回頭の瞬間が、もっとも攻撃を受けやすい。艇首をまわして、逃げる際に、艇尾に弾丸をくらったが、辛くも、水野の艇は敵弾から逃れることができた。
 だが、第十艇隊の第四十二艇は敵弾にあたり、数名が死んだ。そこには艇長の中堀彦吉がいた。中堀は、水野と同郷、同窓、同隊だった。中学は一年上、海兵、そして艇隊も同じだった。
 東郷平八郎がセヴァストポリ攻撃中止を指示したのは12月16日のことだ。
 この戦いで、日本海軍が発射した魚雷は124発、水雷艇2艇が損失、水雷艇9隻と艦載水雷艇2隻が損傷した。戦死者は35名だ。
 攻撃中止が出されたのは、セヴァストポリにもはや攻撃力はないと判断したからだ。しかし、ロシア側の資料では、セヴァストポリはその後も航行し、日本側の陸上陣地に射撃をつづけたという(ロストーノフ『ソ連から見た日露戦争』)。
 水師営での乃木とステッセル会談で停戦がなされた後の1月2日に、セヴァストポリは自沈する。日本側に捕捉され、戦利品にさせないためである。
『戦影』の末尾を引く。

 嗚呼、戦争! 嗚呼、戦争!! 戦争に依つて、我が大日本帝国は、所謂一等国の班に列し、東亜の小国民は、忽ち世界の大国民と為りすました。/然れど、戦争の蔭に注がれたる血幾石? 涙幾斗! 知る人、果して幾人かある。言う勿れ、一将功成って万骨枯ると、万骨枯らして栄華を誇るものは、豈、夫れ、独り一介武弁の将軍とのみ謂わんや。見よ!/彼処に不具の廃兵がある! 彼処に無告の孤独がある!(『戦影』)。

 水野の言う「万骨」に、閉塞隊の隊員や同期の中堀彦吉などの水雷艇の乗組員が含まれていることは説明の必要がないだろう。では、「栄華を誇る一介武弁」とは誰か。山縣か児玉か、それとも東郷か。そのようにして、「乞食商売」の旅順海戦が終わるのである。

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授、現在、特任教授。専門はメディア論。主な著書に『第七師団と戦争の時代 帝国日本の北の記憶』『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)他。

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