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「聖地 旅順への旅」渡辺浩平

第四回 アカシヤの街

 旅順には一度しか行ったことがないが、大連には何度か訪れたことがある。気持ちの順序は逆で、大連には仕事で幾度も足を運ぶ機会があったのに、そこからたかだか35キロ先の旅順には行くことができなかったのだ。旅順が外国人に門戸を閉ざしていたからだ。同じ市内の西の街・旅順には行くことができない、という思いが、「旅順への旅」へ向かう一つの動機となっている。大連と旅順は同じ行政区・旅大市にあった。
 北京に駐在していた時、確か1990年代初頭のことだが、かなり長い日数を大連で過ごす機会を得た。日系企業の展示会があり、事前準備で数回訪れ、本番の会期前から終了まで二週間近く大連に滞在したのだ。大連は中国東北地方の玄関口、東北で販路を拡大する時は、大連でプロモーションをすることが定石となっていた。展示会はアカシヤの咲く初夏だった。
 展示会の小休止を利用して『アカシヤの大連』をもって街を歩いた。「アカシヤの大連」は大連で生まれ育った清岡卓行の小説で、1969年の芥川賞受賞作。文庫版の『アカシヤの大連』には、「大連小景集」という再訪記がふくまれており、街歩きには最適のテキストだった。
 大連の都市設計は帝政ロシアが青写真を描き、それを日本が引き継いだ。市の中心部は幾何学的にデザインされており、その中心は中山広場だ。日本の租借時代に「大広場」と呼ばれたその円型広場と、広場をめぐる建築群を眼にした時の驚きは今も記憶に残っている。20世紀初頭に建てられた建築物は、上海の共同租界・外灘(バンド)の摩天楼よりも低いが、円状にならぶ洋風建築はどれも個性豊かな顔をしており、人を圧する力をもっていた。
 ロシア租借時代の名はニコラエフスカヤ広場、皇帝の名をとり、パリのエトワール広場を模してつくられた。広場からは、本家よりも二本少ない十条の通りが放射線状に伸びている。その十本の通りの幅は一様ではない。最も広いものが、広場から東に向かう人民路と、その反対に西に伸びる中山路で、そこから大連市政府のある人民広場へと向かうあたりが大連という街のハイライトに感じられた。市政府はかつての日本租借時代の「関東州庁」で、そのまわりには裁判所などの公的機関がならんでいた。関東州庁は、当初、旅順にあったが、大連の発展によって、この地に移されたのである。
 中山広場の南側には大連賓館が建つ。かつての大連ヤマトホテルだ。他のヤマトホテル同様に、南満洲鉄道の経営でその第一号だった。大連ヤマトホテルは米国ルネッサンス様式の四階建てで、第一次世界大戦開戦直前の1914(大正3)年4月竣工、ちなみに、同年末に東京駅が開業している。ヤマトホテルの偉容には、東京駅同様に、日露戦後に帝国日本が誇示した「一等国」の自信がただよっていた。

南山麓と「打倒日本」

 中山広場を背にして大連賓館の左側にある解放路を南に行くと、少しせりあがった高台に、威圧的な建物が目にはいる。大連鉄路医院、かつての満鉄病院である。病院は坂にあるので、見るものを睥睨する面構えをしている。その裏手の斜面に住宅地がひろがっていた。南山麓である。そこが、清岡卓行が育った場所だった。かれはその中腹の家から、朝日小学校、大連第一中学に通った。あとで知ったことだが、作家の渡辺京二も、南山麓にある南山麓小学校から大連第一中学へと進んでいる。
 南山麓の家屋は、いくつかの開発業者が建てたもので、少しずつ意匠が異なり、瀟洒な家屋が山の斜面に建っていた。豪壮な屋敷もあるのだが、多くは大連の中産階級の家だった。満鉄病院の裏にかつて鏡ケ池と呼ばれた池があり、その先に家があったと清岡は書いていた。「共栄住宅」という住宅群の東端の一軒、緑の屋根、白い壁、赤い塀の洋風の煉瓦造りの二階建てで、門の内側にイチョウがそびえていたという。文庫を片手にその家をさがした記憶がある。
 中山広場から東にはしる人民路、そして西へと伸び、市政府へと至る中山路の威風堂々とした佇まいには圧倒されたが、私はどちらかというと南山麓の住宅の方に引き寄せられた。満鉄の職員をはじめとする大連の日本人は、このようなところに住んでいたのか。植民地、この場合は租借地だが、そこでの暮らしが実感できる、そのような思いがしたのだ。清岡の父・己九思(きくし)は満鉄の技師だった。旅順の旧市街と新市街を架橋する日本橋(現解放橋)は、父の「処女作」だったという。
 南山麓の住宅地を歩いてはじめて、「アカシヤの大連」の感傷が前に出た文章が理解できるような気がした。このようなところで少年時代を過ごし、時代の不可抗力によって郷里を離れねばならなかったのであれば、感情が先走る文体にならざるをえない、と思えたのである。
 「アカシヤの大連」には大連で活躍した詩人と野球選手が描かれていた。「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」という一行詩「春」で著名な詩人・安西冬衛と、大連実業から明治大学、巨人軍とすすみ再度大連実業にもどってきたスター選手・田部武雄である。清岡は、大連に当時二つあった野球場で、田部のプレイを見ている。かれの走塁は巧みで、清岡の表現を借りると、「芸術的な爽やかさ」をともなっていた。大連には大連満洲倶楽部と大連実業という二つの野球チームがあり、覇を競っていた。都市対抗野球の第一回から第三回は、大連のチームが優勝した。大連は野球の強豪都市だったのだ。
 清岡は田部を回想する文章のなかで、大連は近代化の実験の夢を支える租借地だったと書いている(「野球という市民の夢」『大連小説全集』下、日本文芸社、1992年)。むろんそれは、帝国日本の対外拡張の結果であり、また、安西冬衛や田部武雄を生んだ都市文化が、満蒙からの資源の獲得とその下層労働者によって支えられたものであったこともまた事実であろう。清岡はそのことにも触れている。
 ある時、同級生を訪ねて寺児溝へ行った。寺児溝は港に近いところで、港湾労働者・苦力が多く住み、バラックが立ちならぶ貧民街である。共同便所に入ると「打倒日本」と殴り書きされていた。小学校高学年の清岡は恐怖におののく。
 1940(昭和15)年から1947(同22)年まで大連に暮らした渡辺京二は小学校のクラスを支配していた二人の同級生の陰湿ないじめについて書いている。二人は大連の有力者の子供で、ブルジョア子弟のいやらしさを存分に発揮する存在だった。他方、大連っ子が初めて門司に降り立った際の「幻滅」についても記している。「大連の西洋化された街、広い通りに高層ビルを見慣れた眼には、軒の低い日本の街並みにがっかり」だったというのだ。大連の中学校や女学校の修学旅行は「内地」だったのである(『無名の人生』文藝春秋、2014年)。
 『アカシヤの大連』をガイドとした街歩きから感じたことは、かつての日本が、租借地大連に、贅をつくした街をつくり、モダンな都市文化をつくりあげていた、ということだ。港は「興亜」の玄関口であり、「満洲国」建国後は、大連駅からあじあ号がハルビンまではしり、鉄路は欧州まで続いていた。大連はヨーロッパとアジアを結ぶ要衝だったのだ。付け加えると、あじあ号が発着する大連駅の新しい駅舎は、盧溝橋事件の前の月、1937(昭和12)年6月に竣工している。それは東京の上野駅と同じデザインだ。
 では、この国際都市大連は「聖地旅順」とどのようにつながっているのか。今号では、帝政ロシアが構想したダーリニーからはじめ、1915(大正4)年に市制化するまでの大連を見ておくこととしよう。

武断一片に非ざりし

 先に大連港は興亜の玄関と書いた。清岡卓行も内地との行き来に大連港を利用している。1948(昭和23)年の引き揚げの際も、この桟橋から引き揚げ船・高砂丸に乗った。父・清岡己九思は、一時期、大連築港事務長をつとめており、父を訪ねて埠頭事務所の建物にも入ったことがあった。
 清岡の34年ぶりの大連再訪は1982(昭和57)年のことで、その時、かつて父が働いていた埠頭事務所の屋上から大連港を眺めている。目の前には船客待合所が見えた。船客待合所は大連港の顔だった。1924(大正13)年に建てられたその建物は、半円形の台座に二十数段の階段をもち、その屋根も半円形で、上下を6本の石の円柱が支えるという特徴的な建物だ。戦前の観光案内書は以下のよう書く。「埠頭より乗船する旅客が、何人も吃驚讃嘆する處のものは、工費七十万円を投じ、収容能力五千人、船車連絡の設備を有する船客待合所である(。)宜なる哉(、)これは大連埠頭が世界一と誇るところのもの」だ(句読点加筆‐引用者)(『大連旅順観光案内』ゆまに書房(復刻版)、2017年)。
 「船車連絡」の意味するところは、南満洲鉄道の鉄路は埠頭まで引き込まれていたのである。だが、大連港を「世界一」にしようと構想したのはロシアであった。港には四つの埠頭があった。その第一埠頭と第二埠頭はロシアがつくり、それを日本が継承した。第一埠頭は「大埠頭」、第二埠頭は「繋船埠頭」と呼ばれていた。四番目の第四埠頭の工事の責任をおったのは、清岡己九思だった。
 いまだロシア租借時代の1902(明治35)年9月に、かの地を訪れたロシアの蔵相ウイッテも、工事中の埠頭を見学している。その時ウイッテは、旅順、大連、ウラジオストクと極東をまわっている。そこでかれは、「自分のこころが暗くなるのを禁じえないものがあった」と述べている(『ウイッテ伯回想録 日露戦争と露西亜革命』上、原書房、2004年))。何がかれの心を暗くしたのか。それは、後で触れることとする。
 いま私は「大連」と書いたが、中国人が「青泥窪(チンニーワー)」と呼んだこの地を、ロシアは「遠方」を意味する「ダーリニー」と名付けた。それは1899(明治32年)年7月31日にニコライ二世がウイッテに与えた勅令によるもので、そこで、ダーリニーを自由港と定めたのだ。軍港・旅順とは異なる地位をこの港に与えたのである。なおここでは、ロシア租借時代でも、便宜上、旅順、大連と呼称することとする。
 そもそも青泥窪を「港」として認識したのは、イギリスだった。第二次アヘン戦争の折、英国は大連湾をビクトリアベイと名付け、旅順はアーサー親王にちなんでポートアーサーと呼称した。時は飛んで1895(明治28)年、日清戦争の講和条約・下関条約で日本は賠償金二億両と、遼東半島と台湾、澎湖諸島を得ることとなった。ただちに露、独、仏からの容喙がはいる。その三国干渉によって、同年11月8日に遼東半島を清国に還付し、かわりに還付金を得ることとなる。
 すでにシベリア鉄道の建設を開始していたロシアは、中国を横断する鉄道を計画する。シベリアを通って沿海州へ出るよりも、東北地方を突っ切る方が距離の短縮となるからだ。1894(明治27)年11月にはアレクサンドル三世が死去し、代はニコライ二世に変わっていた。ウイッテは、その短縮線の提案を新帝にあげる。そして、ニコライ二世の戴冠式に出席した李鴻章との間でとりかわされたのがカシニー条約であり、そこで、シベリア鉄道に接続させ、東北を横断する鉄道・東清鉄道の建設が決まった。
 清朝に関与し、その資源を獲得しようとする国はロシアだけではなかった。アヘン戦争でその先鞭をつけたのがイギリスであり、他の国はイギリスの顔色をうかがいつつ、清朝に圧力をかけていた。カシニー条約締結の同年11月、ドイツは自国の宣教師二人が殺されたことを理由に膠州湾を占拠した。先んじて膠州湾に食指を動かしていたのはロシアだったが、それをかっさらわれたのである。その動きにロシアも反応し、翌年1897年(明治30)12月にニコライ二世は旅順の占領を裁可するのだ。
 ウイッテは、東清鉄道以南へは侵入しないとする李鴻章との盟約を守ろうとしたが、帝政内の異なる勢力によって南進がすすめられてしまったのだ。それが、ウイッテの心を暗くした原因の一つだった。結果的にそのような極東政策の齟齬が、日露戦争の敗北へ、さらに、帝政の崩壊へ、とつながっていくこととなる。
 その翌年1898(明治31)年3月27日に、パブロフ条約が結ばれ、ロシアによる旅順港と大連湾の租借が決まった。期限は25年、その長いようで短い期間が、日本の行く末に大きな影響を与えることとなる。
 忠臣ウイッテは、李鴻章と外交官僚・張蔭桓(ちょういんかん)にそれぞれ50万ルーブリと25万ルーブリの賄賂を贈り、遼東半島租借の了解をとりつけた(『ウイッテ伯回想録』上)。ロシアは同年7月6日に、ハルビンから遼東半島を南へ旅順まで下る東清鉄道南部支線の権利を獲得した。ダーリニーと命名した勅令はその翌年に出されている。
 ではそれらの一連の動きは日本にどう見えていたのか。旅順の租借に鉄道建設、韓国への干渉、加えて、義和団事件後のロシア軍の残留は、日本にとって、自らの死活を決する要因に映り、開戦を決意する理由となった。そのために必要な後ろ盾が日英同盟だった。イギリスは金とダイヤの利権がからむボーア戦争に傾注せねばならず、極東におけるロシアへの牽制を日本に託した。
 ロシアによる大連建設をまかされたのはサハロフだった。かれは東清鉄道の技師長で、ウラジオストクの埠頭の築造で功績をあげていた。先に述べた通り、港には二つの埠頭を建設し、一年で約500万屯の貨物を取り扱える大商港を構想した。
 では陸の開発はどうか。青泥窪の土地を買収し、三つの区域にわけた。港のすぐ南に位置する地域を行政区として市役所などを建てた。なお、大連港は北に向いている。その湾岸沿いの行政区と南山との間をヨーロッパ市街とした。その二つの区域の西が中国人街だ。都市建設は山東からの労働者を雇用して、あたらせた。
 欧州を模した市街の中心にニコラエフスカヤ広場をつくり、その東西に幹線道路・モスコフスキー通を造成した。広場から東が現在の人民路で、西が中山路だ。行政区の東西にはキエフスキー通をつくった。通りには並木が植えられた。それが「アカシヤの街」の起源である。大連、旅順、金州には苗木を育てるための苗圃がつくられ、苗木はシベリア鉄道で運ばれた。大連の建設には約3000万ルーブリという巨額の予算が準備された。ロシアはまさに「遠方」に四海に通ずる港湾都市を構想したのである。
 そのダーリニーは、日本では多く「ダルニー」と呼称された。読売新聞と朝日新聞のアーカイブで検索すると、当時両紙は、幾度もその建設状況を絵入りで報じている。本来は自分たちが手にすべき土地・遼東半島に、ロシアによる巨大な商港が建造されようとしているのだ。心穏やかではいられなかったことだろう。
 朝日新聞の主筆・池辺三山は、建設途上のダルニーを目にした所感を1902(明治35)年1月の社説に書いている。かれは朝鮮から中国をめぐり、ロシアのダルニー、イギリスの威海衛、そして日本の釜山という三つの租借地の比較を試みている(1902年1月20日~22日東京朝日朝刊「日英露三国経営」)。池辺は以下のように述べる。

 形勢の勝を作為するの雄偉なるは、蓋し東洋第一ならん。其の根柢としては、東清鉄道あり、西比利亜鉄道あり。以て西欧と東洋と大西洋と太平洋とを連絡す。聯絡線の咽喉はダルニーなり。経営の設計、焉ぞ雄偉ならざるを得んや。露国人百年の念願、今方(まさ)に此に酬われつつあるを知らずや(1902年1月20日東京朝日朝刊)。

 ヨーロッパロシアから、シベリア鉄道を経て東清鉄道、さらに、その南部支線を通じてダルニーへと通じるルートが、西洋と東洋、さらに大西洋と太平洋をつなぐ幹線となる。その結節点(咽喉)がダルニーだ。池辺は、日英露の租借地経営比較の最後に、「露国の大に若くもの莫し」とその優位性を指摘する。
 商業港・大連の経営がすぐれているのは、それが軍主導ではなく、ウイッテ(大蔵大臣)、サハロフ(東清鉄道)というラインで行われたことも一因であろう。1902(明治35)年に大連が特別市になった時、サハロフは市長を兼任することとなる。中国を横断する鉄道の経営を、政府ではなく、民間会社に委託することは李鴻章の主張であり、ウイッテはそのために露清銀行をつくった。日本はそのモデルを踏襲し、半官半民の南満州鉄道株式会社を創設したのである。
 池辺は、三日にわたる社説「日英露三国経営」を以下の文ではじめている。「支那人及び朝鮮人は自づから其の国土を経営して以て天與の利澤を全くする能わず。他国人は彼等に代りて経営せり」。時は、弱肉強食の時代、他国から紛争をしかけられた時、それを戦略的な外交で処理し、外交で対処できないのであれば、武力に訴えるしかない。そうでなければ、「其の国土を経営して以て天與の利澤を全くする能わず」と見なされてしまう、ということなのだ。
 大連の経営は、大蔵大臣‐東清鉄道のラインで行われたと書いた。だが、その上にある関東州の統治は異なる系統にあった。関東州は海軍中将であったアレキセーエフが担った。かれは関東州長官の他に、陸軍司令官、太平洋艦隊司令長官を兼務した。1903年段階で、関東州の駐屯陸軍は1万5千いた。ウイッテは、旅順と大連を分離した経営を「二頭政治」と呼んだ。そのこともかれの心を暗くしていた。
 1903(明治36)年にアレキセーエフは極東太守となる。その所管は関東州のみならず、ザバイカル、黒龍、沿海、東清鉄道の管理地域と広大なものだった。「其権限絶大にして宛然副王の如き観あり」と『満洲十年史』はいう(伊藤武一郎『満洲十年史』満洲十年史刊行会、1916年)。その極東全域を統べる拠点が旅順だったのである。結果的にそのような旅順と大連との管理系統の違いが、大連の防備の手薄につながり、大連の早期の陥落を招く。
 話を日本の大連占領に移す。1904(明治37)年2月8日に日本海軍は旅順口を奇襲攻撃し、2月10日に宣戦布告する。それから三か月後の5月26日に第二軍は金州南山を攻略、大連に迫った。サハロフはじめ同地のロシア人は鉄道、徒歩で大連を脱出、アレキセーエフ一行は東清鉄道の南部支線で北へ向かった。7月5日に日本軍の野戦鉄道提理部が大連に到着、早速、南部支線のゲージ(軌間)を、ロシア仕様の5フィートから、日本仕様の狭軌3フィート6インチに取り換える。その野戦鉄道提理部が南満洲鉄道株式会社の前身だ。
 関東州を占領した日本軍は、苗圃にロシアが残した大量の苗木を発見する。大連には、カエデ67500本、アカシヤ44900本、松22450本、ねむの木21800本、白楊17550本など総計24万本の苗木があった。金州、旅順は総計だけ記すと、金州4万8千本、旅順には72万3千本もの苗木が残っていたという。
 それらの苗木はアレキセーエフが取り寄せたものだった。関東州における森林の荒廃は眼に余るものがあった。膠州湾においてドイツは植林をはじめており、それをロシアが模倣したのだ。アレキセーエフは林業技師の派遣も要請していた。緑化は市街地だけでなく、周辺の山々にも行う予定だった。『満洲十年史』は以下のように書く。

 斯くの如く百年の長計を一粒一顆の種子より起し、緑樹鬱蒼州内を蔽はしめ、終には天を摩するに至らしめんとせし、露国の関東州経営は決して武断一片に非ざりしを観るべし。

 先の池辺の社説と上記の記述から読み取れることは、ロシアによる関東州経営は「武断一片に非ず」、長期的な視野(百年の長計)に立つものだったのだ。寒冷地に住むロシア人にとって、緑あふれる、さらに不凍港の港湾都市は、長年の夢だった。別の言い方をすれば、ロシアは関東州を25年で清朝に還付する気はさらさらなかった、ということだ。

児玉源太郎と後藤新平の満洲経営

 日本陸軍の騎兵斥侯部隊が大連に入城したのは、サハロフが去った後、5月29日のことだった。サハロフについては一つの逸話が残されている。旅順から大連港の爆破が指示された。試したが一部しか壊すことができない。サハロフは港をすべて破壊するには、旅順のすべての火薬が必要だと返答した。港はそれだけ堅固につくられていたのである。そのようにして、サハロフらが構想した「東洋のパリ」は大きな損傷なく、日本の掌中に収まることとなった。
 その後、軍政がしかれ、家屋の破壊状況と在住人口の確認が行なわれた。当時の人口はわずか2991人に過ぎなかった(『満洲十年史』)。海軍は周辺海域の掃海作業を進め、港に司令部を設置、港湾の管理と軍需品の輸送が始まる。地名が「大連」となったのは、翌年1905(明治38)年の紀元節2月11日のことだ。その年の6月には、関東州民政署が設置される。大連への邦人渡航が解禁されるのは、ポーツマス条約締結後のこと、同年12月22日に、清朝との間に交わされた条約により、関東州の租借権と長春以南の鉄道の経営権が日本にうつった。だが、その租借期限は、ロシアがその権利を得た年から25年に限定されていた。それが「満洲問題」として残っていくこととなる。
 日本はポーツマス条約の翌年1906(明治39)年8月22日に、大連港で輸出入される貨物には税を課さないと宣言した。ロシアと同様に、大連を自由港とすることを明らかにしたのだ。 港以外に、大連を大連たらしめたものに満鉄があった。南満洲鉄道株式会社は、1906(明治39)年12月に創立され、翌年4月1日に附属施設が軍から同社に引き渡された。その満鉄総裁に就任したのは後藤新平だった。後藤を推したのは児玉源太郎だ。衛生官僚であった後藤を児玉が引き立てるきっかけとなったのは日清戦争で、児玉が第四代目の台湾総督となった1898(明治31)年に、後藤を民政長官に指名した。それまでの三代の総督の任期は長くて一年強だったが、児玉の任期は八年に及んだ。
 日露戦争中に児玉は後藤に「満洲経営」を下問し、講和締約以前にその経営方針となる「満洲経営策梗概」がまとめられている。その冒頭には、「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装ヒ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ」と記されていた。満洲経営の要を鉄道に置くとするこの考えは、後藤のアイディアと言われるが、杉山茂丸の献策があったという(鶴見祐輔『後藤新平』第二巻、後藤新平伯傳記編纂会、1937年)。杉山茂丸は、伊藤博文をはじめ歴代の指導者の参謀をつとめた無官の人物、鶴見祐輔の言葉を使えば「稀代の智謀家」で、後藤のブレーンでもあった。
 満鉄の構想は、イギリスの東インド会社とロシアの東清鉄道に求めることができるが、炭鉱開発を含む鉄道事業は、明治22年に誕生した北海道炭鉱鉄道会社(北炭)に見ることができる。いずれにしても、満鉄の業務は、鉄道のみならず、港湾、鉱業、後に製鉄、製油など広範囲のものとなった。「梗概」の通り、鉄道経営の仮面を装い、百般の施設を実行するものだったのである。
 だが、後藤の総裁就任はすんなりとはいかなかった。当初後藤は、首相の西園寺公望の要請も、児玉のそれも断っている。否とした理由は、「満鉄会社統理の中心点明らかならず」というものだった。中心点がないとは如何なることか。「一方に関東都督の監督を受くると共に、他方に於て外務大臣の指揮に俟たざるべからざるが如きは、到底満鉄総裁として殖民地経営の大任を全うする能わず」というのだ(『満洲十年史』)。
 ウイッテは関東州の二頭政治を憂慮したが、それがさらに、三頭政治になってしまうのである。満洲における多頭政治問題は、その後も尾を引くこととなる。
 7月22日、児玉は後藤に総裁就任を依頼、その話合いは三時間半に及ぶものだった。しかし、後藤はどうしても首を縦にふらなかった。その十時間後、児玉は脳溢血で倒れる。恩義ある児玉の死によって、後藤は総裁を受け入れざるを得なくなった。
 児玉は、1906(明治39)年1月に満洲経営委員会の委員長の職についていた。児玉の「満洲経営」の要諦とは何か。後藤に総裁就任を説得した際の言葉からひろってみよう。

 今鉄道ノ経営ニ因リテ十年ヲ出テサルニ五十萬ノ国民ヲ満洲ニ移入スルコトヲ得ハ、露国屈強ト雖モ漫ニ我ト戦端ヲ啓クコトヲ得ス、和戦緩急ノ制命ハ居然トシテ我手中ニ落チン(後藤新平「就職情由書」満鉄会『満鉄四十年史』吉川弘文館、2007年)。

 満洲へ五十万人を入植させれば、ロシアはたやすく手が出せない。満鉄は殖民を促す重要な輸送路だ。一つ、生前の児玉の満洲経営に対する考えが伺えるエピソードを紹介しておく。『大連市史』(大連市役所、1936年)には、日露戦争直後の大連経営を回顧する座談会が収められている。座談会が開かれたのは1935年、都督府最初の民政署長・関屋貞三郎が大連を訪問した折に行われている。場所はヤマトホテルだ。
 都督府開庁直後、当時、総参謀長だった児玉源太郎は桂太郎をつれて民政署を訪れ、大連の建設についてあれこれ指示した。その時、強調したことは、「火葬場、墓地はなるだけ立派にしろ」というものだった。民政署長の関屋は、陸軍に依頼し、まず火葬場をつくった。つまり、児玉も関東州を25年で返還する気などいささかもなかったのである。
 一方、児玉の殖民という遺志をついだ後藤の頭の中には、他の構想があった。かれの満洲経営を一言で述べると、それは「文装的武備」に要約できる。文装的武備とは、「文事的施設を以て他の侵略に備へ、一旦緩急あれば武断的行動を助くるの便を併せて講じ置く事」だ(鶴見祐輔『後藤新平』第二巻)。  
 鶴見はその具体策を、旅順工科学堂、大連病院、東亜経済調査局、満鉄中央試験所などの施設の創設に求める。旅順工科学堂は後の旅順工科大学である。旅順工科大学は、日本で三番目の官立工科大学だ。大連病院は満鉄病院の前身である。東亜経済調査局は満鉄の調査機関で、後に満鉄調査部と統合される。中央試験所では、満洲における産業振興のための研究がすすめられた。ちなみに、そこで開発されたガラスは現在も大連の特産品だ。以前、北京で買った江戸切子を模した大連ガラスのグラスを今も我が家では使っている。
 後藤はそれらの文事的施設をつくることにより、殖民政策の恩恵を租借地の住民に提供し、同時に、列強に対して、日本の満洲経営が開かれたものであることを示そうとした。この文装的武備は、後藤の殖民政策として人口に膾炙したものだが、その考えが生まれた背景には「旅順」があった。
 鶴見前掲書には、後藤が伊藤博文に1907(明治40)年8月に書いた書簡が引用されている。そこには、旅順を学術都市に、さらに商業地にすべきであるとする主張が述べられている。それは何故か。ロシアと日本における旅順の価値は全く異なるものだからだ。ロシアにとって旅順は、極東の軍事拠点だ。一方、日本にとっては、象徴的な意味しかない。それなのに、日露戦後、海軍も陸軍もロシアから接収した建物にでんと腰をすえて、動こうとしない。それを改めさせるのが、後藤の「文装的武備」だった。その一つが、旅順工科学堂の創立だったのだが、鶴見によれば、その運営は、後藤が考えるようにはいかなかったという。
 大連は満鉄主導で都市開発がなされた。一方、旅順は、軍による統治が続いた。旅順は、1906(明治39)年8月、軍政署が廃止され、関東都督府が誕生する。それまでは、関東州は軍政の総督が担っていたが、列国を配慮し、民政の都督府が設置されたのだ。しかし、そのトップは変わらず大島義昌だった。大島は日露戦争に参戦し、そのまま総督として旅順に残った。それによって旅順・都督府、大連・満鉄という二極体制ができあがった。当然のこと、旅順と大連の二つの都市としての差は拡大していくこととなる。その一つの指標として、以下に関東州内と大連、旅順の人口を記しておくこととする。
 1907年(明治40)年の関東州の人口は434,029(うち日本人69,338人)、大連31,324人(うち日本16,688人)、旅順12,902人(うち日本人5,700人)。日露戦争前の大連、旅順とも日本人の人口が数百人レベルなので、急速に日本人の数が増えていることがわかる。特に大連は一般人の渡来が許可されるのが旅順占領後だが、それ以前から商売をしようと流入するものが後を絶たなかった。一攫千金を夢見る「一旗組」である。
 しかし、旅順は日露開戦以前は4万人ほどの街だったが、日露戦後から7年目の1913(大正2)年の数字を見ると、関東州の総人口が595,594人(うち日本人93,173人)、大連は72,483人(36,962人)、旅順は17,096人(うち日本人9,114人)となる。大連と旅順の差は開いていく、つまり、商港と満鉄を有する大連の賑わいは拡大していくこととなるのだ。

「歴史的感情的の因縁」と利害の考量

 先に関東州の租借期限について述べた。それを延長させたのが、二十一箇条の要求だった。二十一箇条の要求は1915(大正4)年1月に大隈重信内閣が袁世凱政府(中華民国)につきつけたものだ。その契機は、第一次世界大戦において日本がドイツの租借地だった膠州湾を占領し、その権益を継承することにあったが、要求の目玉は関東州の租借延長だった。
 旅順、大連を含む関東州の租借期限は、パブロフ条約の締結から25年の1923年3月までとされていた。満鉄の租借期限はそれよりも長かったが、いずれにしても、第二次大隈内閣がはじまった1914(大正3)年には、関東州の租借期限は十年を切っていたのである。その期限を延長することが、外務大臣となった加藤高明にとって最も重要な任務だった。
 二十一箇条の要求の布石は、すでに外相就任前にはじまっていたという。1913(大正2)年1月、駐英大使だった加藤高明は、帰任時にイギリスのグレイ外相と会い、租借期限の延長について「隔意の無い諒解」を得ている。加藤はグレイに以下のように語った。加藤の問題意識がよくわかる文言なので、長めの引用となるがお許しいただきたい。出所は戦前に編まれた伝記(加藤伯伝記編纂会編『加藤高明』下(明治百年史叢書)原書房、1970年(復刻版))に掲載された会見録である。引用中の括弧は原文のままだ。

 今茲に申述んとする問題は差当り解決を急ぐべき性質のものにも無之、又訓令により帝国政府の意見を陳述せんとする次第にもあらず。唯だ、本使(加藤‐引用者)は近く当地を去るべく、且つ帰朝の上は多分帝国外交の衝に立つに至るべきが故に、此機会に於て特に貴大臣の考量に入れ置きたきものありて開陳する次第なり。所謂問題とは即ち曩に我国が清国より租借せる関東州租借地に関するものなり。関東州中、旅順大連の如きは貴大臣も熟知せらるるが如く(中略、この間、日清日露両戦争の事情より該地方の価値に就いて述べた)、価値の問題は兎に角、日本の該地方に対する関係は、利害の考量を以て律すべきにあらずして、実に前述の如き歴史的感情的の因縁を有するものなり。従て日本は、旅順大連及其背後の地を含める関東州には永年之に占拠するの決心を有するものなり。是れ我国現政府の方針と云ふにあらず、如何なる政府の下に於ても不変の方針にして畢竟日本国民の決意に外ならず。其決意の表徴とも見るべきもの少なからずと雖も、彼等が関東州内に於いて樹木を植付けつつある如きは、実に不言の裡に此決意を示すものと言ふべきか。樹木を植うるは百年の長計なり。十年十数年の後に還付せざるべからざる土地なりとせば、何人も之を試みざる可し。

 日清戦争後の臥薪嘗胆、そして、日露戦争の壮絶な戦いを見れば、「歴史的感情的の因縁」も、また「日本国民の決意」もわからないではない。しかし、南満洲鉄道という「思いがけない余得」(加藤聖文『満鉄全史』講談社、2006年)が転がり込んで来てからは、タテマエは「歴史的感情的の因縁」ではあったが、その実は「利害の考量を以て律すべき」問題に変わっていたのではないか。さらに、後段の樹木の話も、前掲の『満洲十年史』に記された史実とは違う。関東州での植樹は、寒冷地に住むロシア人の緑なす港湾都市への憧憬が発端だった。ロシアの緑化政策を日本が踏襲したに過ぎなかった。 対してグレイ外相は、「貴使の説かれた所は能く之を諒せり」とし、以下のように答えた。

 貴使は租借地に於て、日本人が樹木を植付けつつあることを述べられたるが、夫より以上、日本人は該地方に血を植付けたり(planted blood)。畢竟此問題は、貴国と支那との間に於て決せられるべきものにして、他国に於て容喙の要なからん。

 同盟国であるイギリスの外相は、関東州は日本人が「血を植え付けた地」であるとしてその租借期限の延長交渉を諒とした。さらに、鉄道の租借期限の延長については、後日、外相の私邸で行われた送別宴で加藤は持ち出しているが、そのことについても、格別の意見を述べなかったという。その際に加藤は、その問題を中国に提案する時期について以下のように述べている。「凡そ事を起すには之を起すべき「サイコロジカル・モーメント」のあるべきものなり」、つまり適切な時機を選んで交渉にはいる、と語ったのだ。
 加藤高明は1914(大正3)年4月に大隈重信が組閣した折に外務大臣となり、ただちにその「サイコロジカル・モーメント」が訪れることとなる。それが、第一次世界大戦における日本の参戦だった。同年8月に日本は連合国の一員としてドイツに宣戦布告する。加藤はすでにロンドンからの帰路に中国へ寄り、在中国公使と袁世凱政府との交渉について話し合いをもっていた。
 翌年1月に、在中公使から袁世凱政府に正式に提示されたのが、二十一箇条の要求だった。要求は五号二十一箇条からなっていた。第一号がドイツ権益の継承であり、第二号が旅順、大連の租借と鉄道の期限の延長だった。それは、当初の25年から99年とするものだった。では、99年という数字はどこから来たものか。ドイツが膠州湾を租借した期間が99年であり、英国が香港の新界を租借したそれも99年だった。付言すると九という数字は、中国語の「久」と同音だ。99年はほぼ未来永劫を意味すると言ってよいだろう。
 二十一箇条の要求は、日本と中国との外交案件の総ざらいの観があった。加藤が外相に就任した際、外務省には「日支間の諸懸案が棚一ぱいに列んで居」た。そして、そのような日本が中国に対する要望(それは野望とも言えるだろうが)をすべて交渉のテーブルにならべたものが、二十一箇条の要求だった。加藤のもとには、外務省以外からもさまざまな対華要求が出されていたという。
 同盟国イギリスは、要求の眼目となる第二号については了解していたが、第五号がうたう中国政府の財政、軍事の顧問として日本人を採用させる、という条項はあずかり知らなかった。袁世凱政府は直ちに日本からの要求内容を暴露し、列国は日本の行為に疑念を抱く。欧州では大戦が続いていた。日本の対華要求はあたかも火事場泥棒のように映った。
 日本は問題となった第五号条項をのぞき、同年4月に袁世凱政府に最後通牒を発し、翌月、その要求が受け入れられる。その受諾日である5月9日が、その後、「国恥記念日」として記憶されることとなる。その「国恥」という語が、それまで未定形だった中国の民族主義を凝固させていくのだ。
 関東州に眼を転ずると、中国が要求を受け入れた同年の1915(大正4)年9月30日に「旅順及大連市規則」が発布され、翌日10月1日より両市に特別市制が施行された。議長は市長が兼務したが、議会がつくられ市会議員が選ばれる。市民の自治組織も生まれた。二十一箇条の要求によって、関東州と満鉄はほぼ永久に日本の手中におかれることとなった。そのようにして大連には、清岡卓行や渡辺京二の「南山麓」がつくられていくのである。
 他方、旅順には都督府は残されたが、その前年(1914(大正3)年)に海軍の鎮守府が廃止され要港部となり、関東州海軍区は佐世保鎮守府の所管となる。旅順の軍港としての機能は著しく低下していった。1916(大正5)年に出版された『満洲十年史』は以下のように書く。

 大連は年々家屋の新築と共に、市街の形態益々整ふものあるに反し、此地(旅順‐引用者)は戦時遺物の癈屋所々に散在し、露国時代別荘地として数十の大厦を建築せし黄金台附近は、今尚人の住む者稀れに、宏壮なる邸宅は徒らに風雨の荒むに委するのみ、(傍点‐引用者)。

 鎮守府から要港部への降格によって、海軍の将兵も大幅に削減され、その任務も、関東州すべての海域の防衛から、旅順周辺に限定された。かくして旅順は、日露戦争で負傷した癈兵同様に、時代から取り残されていったのだ。そのような状況下で結成されたのが、満洲戦蹟保存会だった。保存会は、旅順の要港部降格の前年1913(大正2)年11月に誕生した。会長は福島安正がつとめた。福島は日露戦争時の総司令部参謀だった。旅順の白玉山表忠塔も、関東州に散在する表忠塔(金州、奉天、遼陽、安東など)も十年の月日が経ち、風雨によって荒廃していた。保存会の使命はその保存にあった。予算は50万円とし、募金がなされたが、寄付金は目標額の5分の1にも満たなかった。理由は、「戦後既に十年を経、且つ内地と相距ること遠きを以て、内地人は此挙に対して冷淡」だったからという(『満洲十年史』)。

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著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授、現在、特任教授。専門はメディア論。主な著書に『第七師団と戦争の時代 帝国日本の北の記憶』『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)他。

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