第6回 グルネー嬢とノートン嬢
今回は、少しばかり趣向を変えて、『エセー』というテクストの成立と、その読解において、決定的な役割を果たした二人の女性にスポットライトを当てる。
まずは、パスカル『パンセ』にも名前が出てきたグルネー嬢Marie de Gournay(1566-1645)。彼女が、フランドルの著名なユマニストのユストゥス・リプシウス(1547-1606)――「現存するもっとも博学な人物にして、じつに洗練された、公正な精神の持ち主」(『エセー』2・12「レーモン・スボンの弁護」)――に宛てた、1593年4月25日付けの書簡がある。ところが、そこでは、「わが父」を所有したのは「二か月か三か月にすぎません。みじめな孤児なのです!」と、1588年の幸福な出会いと、モンテーニュとの田舎の所領での滞在を懐かしむだけで、彼女は『エセー』の作者死去をまだ知らない。「わが父」の死を知るのは、リプシウスからの返信によってだった(その書簡は失われた)。やがて1595年、彼女が編んだ『エセー』が出版される。そこには、次の一節が入っていた。「わたしは、わたしと義理の娘のちぎりを結んだマリー・ド・グルネー・ル・ジャールに抱いている希望の念を、あちこちで喜んで明らかにしてきた。もちろん彼女は、わたしから父親以上に愛され、わが隠遁と孤独な生活のなかに、わたし自身の存在の最良の部分のひとつとして包みこまれている。わたしはこの世では、彼女のことしか注視していない。青春時代が予兆となりうるというならば、彼女の精神の場合、いつの日かりっぱなことをなしとげることができよう。とりわけ、書物で読むかぎりでは、女性たちがいまだにその域に達したことのない、あの聖なる友情を完璧さにまで高められるのではなかろうか。彼女の誠実にして堅実な生き方は、すでに十分なものであるし、わたしへの愛情もあり余るほどで、要するに、これ以上なにも望むことはない。ただひとつ、彼女がわたしに会ったのが、わたしが55歳のときであったことから、わたしの最後の日が近いことをずいぶん心配しているけれど、このことにひどく苦しむことのないよう願うだけである。この時代に、女性でありながら、あれほどの若さで、しかも地方で独力によって、わたしの最初の『エセー』に示した判断力のすばらしさ、また、『エセー』を読んだことで、会う以前からわたしに敬意を抱き、ひたすらこのことを支えにして、周囲の人もよく知るほどの熱烈さでわたしの著作を愛し、わたしとの出会いを長期間にわたって熱望していたということは、この上なく敬意にあたいすることがらといえよう」(2・17「うぬぼれについて」)。
手放しの称讃ではないか。ところが、18世紀に発見されたモンテーニュの手沢本『エセー』、通称「ボルドー本」には、上記の個所が存在しなかった! そこで一時は、グルネー嬢による偽造説もささやかれたのだが、結局どうなったのか? 「ボルドー本」を厳密に校訂した「ボルドー市版」『エセー』は、該当個所に付加記号(†)があることなどから、モンテーニュが別紙に加筆して貼り付けたと判断して、[ ]で囲んだ上で本文に組みこんでいる。グルネー嬢の名誉は回復されたといえよう。
さてグルネー嬢は『エセー』刊行後、モンテーニュ村に向かう。以下は、リプシウス宛てた書簡より。「リプシウスさま、他の方々は現在、わたしの顔を見てもわかりません。あなたもわたしの文章だとわからないのではと危惧いたします。それほどに、わが父の死という不幸は、わたしを変えてしまったのです。わたしは彼の娘でしたが、いまは彼の墓です。わたしは彼の第二の存在でしたが、いまは彼の遺灰なのです。[…]わがよき父の悲しみに満ちた墓に詣でるために、[…]長旅をしないわけにはいきませんでした。[…]モンテーニュ家のみなさまが、わたしを大変に慈しんでくださいます。わたしは大幅に増補された『エセー』を印刷させるために、去年の夏を使いました。[…]わたしはこの書物に「序文」を書きましたが、このことをとても悔やんでおります。[…]。したがいまして、もしもお国の印刷業者が、仮にこの新しい『エセー』を出版したいということがありましても、[…]この「序文」を収めることは絶対に許可しないでください。[…]かしこ。マリー・ド・グルネー。モンテーニュにて、1596年5月2日」
その後、彼女はリプシウスに『エセー』を送付する。「リプシウスさま、わたしが印刷させたところの『エセー』を3部、お送り申し上げます。1部はあなたのものでございます。他の2部につきましては、1部はバーゼルの、もう1部はシュトラスブルクの、もっとも著名な印刷業者にお送り願えませんか。それらの印刷業者が出版する希望をいだき、確実にこれを実現できますようにと、この2部につきましては、「正誤表」を付けて印刷したのちにも見つかったいくつかの誤植を、わたしの手で(細心の注意を払いつつ)訂正しておきました。「正誤表」にある誤植も、印刷業者がこれを使うのを忘れるおそれもありますから、本文で訂正してあります。あなたにお送りする『エセー』や、プランティヌス〔クリストフ・プランタンのこと。ヨーロッパ最大の印刷・出版工房を擁した〕に送るもの、ヨーロッパ各地のすべての著名な印刷所に広く送るものにつきましても、同様にしてございます。[…]1596年11月15日」
アントウェルペンのプランタン=モレトゥス博物館(世界遺産)に行けば、グルネー嬢が訂正した1595年版『エセー』を披見できる。わたしは数度にわたり現物を調査して、『エセー』編者としての彼女の誠意を確信した(拙稿「アントウェルペンで『エセー』を見る」、『みすず』2004年5月号を参照)。
もう一人はグレース・ノートンGrace Norton(1834-1926)というアメリカ人。マサチューセッツ州はCambridgeの生まれ。地元ハーヴァード大学の教授や理事を輩出している名門の出身で(父親が聖書学の教授)、自宅で家庭教師について勉強したという。やがて、兄のCharles Eliot Norton(1827-1908)とのヨーロッパ旅行を契機にフランス文学に熱中していく。ちなみに、兄チャールズはダンテ『神曲』翻訳でも有名な、ハーヴァード大学「美術史学」の初代教授。かのバーナード・ベレンソンが教え子だが、両者はまったく馬が合わず、後年、ノートン教授は、大学図書館がベレンソンの著書を購入することを邪魔したという(『ベレンソン自叙伝』を参照)。
『エセー』に魅了されたノートンは、研究書に続いて、ついには『エセー』の語彙辞典を作成して、ピエール・ヴィレーに送る。これに手を入れたのが、「ボルドー市版」『エセー』第5巻(1933年)の語彙辞典だ。以下は、ヴィレーの「序文」より。「1913年のある日、アメリカからわたし宛に小包が届いて、港〔ノルマンディCaenの港〕で引き取り未了になっているとの知らせを受けた。[…]大西洋の向こう側からわたしが受けとったのは、モンテーニュの語彙辞典で、フォリオ判で3冊、上手にタイプされて、きれいに製本されていた。これは、80歳代の女性の著作だった。わたしはモンテーニュ愛好者たちに、よくミス・グレース・ノートンのことを話していた。『エセー』が書かれてから3世紀ものちに、ガスコーニュ地方から6000キロ以上も離れた地で、この外国人女性が『エセー』を崇拝していること自体、モンテーニュの思想の普遍性の驚くべき証拠ではないか。彼女は50歳近くになって『エセー』を発見した。それからは、彼女がこの枕頭の書の何ページかを読まずに過ぎた日などなかった。そして70歳を越えてから、モンテーニュの思考にもっと親密に入りこんでいきたいという欲望がわいて、彼女はモンテーニュの言語の完璧な目録の作成に着手した。
彼女は自分だけのために、この仕事をした。いささかも文献学者ではないし、英語しか使っていなかったから、彼女にはこれを印刷に付すという野心はなかった。そこで彼女は、わたしに、自分の仕事を検討して、訂正してほしいと頼んできたのである。そればかりか、もしもわたしが、これを新たな形にして出版することが役に立つと判断するならば、わたしが好きなように改訂したり、書き換えたりして一向にかまわないというのだった。わたしは20年間にわたって、講義の準備において、またわたしの学生たちも、わたしといっしょに、かくのごとき仕事道具が16世紀研究者にどれほど役に立つものか、じっくりと評価したのだった。そして、彼女の死の数か月前、ミス・グレース・ノートンに、どうやら「ボルドー市版」『エセー』に語彙辞典を収めることができそうだとほのめかすことができて、わたしもうれしかった。それは彼女にとって大きな喜びだった。彼女は92歳になっていた。われわれの友情は、モンテーニュの庇護を受けて結ばれた。われわれは一度も出会うことはなかったものの、もっぱらモンテーニュが独り占めしたところの、20年間にわたる手紙のやりとりのおかげで、われわれの友情は大きなものとなったのだ。」
グルネー嬢編の『エセー』とノートン嬢作成の語彙辞典なくして、拙訳は不可能であった。モンテーニュ学に偉大な貢献をした二人に感謝したい。
◇初出=『ふらんす』2016年9月号