【書評】三浦信孝・塚本昌則編『ヴァレリーにおける詩と芸術』 [評者]井上直子
三浦信孝・塚本昌則 編
『ヴァレリーにおける詩と芸術』
水声社
5000円+税
[評者]井上直子
複数の観点から明らかにされる作家像
本書は2017年10月に日仏会館で開催されたシンポジウムの論考集である。ヴァレリーを語る際、「人間に何ができるかを問い続けた知性の人」というレッテルは過去のものとなり、近年は「官能の人」、「感性の人」としての側面に光が当てられる。また、純粋自我の探求者という認識は刷新され、序文に記されるように、「他者からの影響を受け入れ、そこからの変化を恐れない作家」という顔が明らかになりつつある。さらにタイトルに含まれる「詩」は、ヴァレリーにとってギリシア語のポイエイン(創作)を語源とする「制作学」につながり、作品、作者、受け手の関係において経済学との関連をも含む。「芸術」は制作の場として音楽、絵画、映画や広告と関わる。
本書では、こうした観点からのヴァレリーが18人の手によって鮮やかに描き出されている。伝記に始まり、精神という語の意味、身体の役割が考察されたのち、ブルトン、フルマン、ショオッブ、ジッド、ルイスなどの友人、ポッジをはじめとする愛人たちとの関わり、ヴァレリーがルイスやポッジの創作に与えた影響が明らかにされる。さらにドビュッシー、ラヴェル、サティ、プーランク、ホイッスラー、ルドンなど、ヴァレリーが言及していない音楽家や画家との交流が描かれ、ダヴィンチやドガという、ヴァレリー研究には馴染みの芸術家のとらえ直し、マルロー、バタイユといった「ヴァレリーを読んだ作家たち」の分析がなされる。制作学の観点からは経済学との類似としてマルクス、ワルラスとヴァレリーの比較、感性の発動の場における「声」の役割が考察される。また「外への分析」、「外からの分析」としてヴァレリーを「使った」リズムと吃音の考察、ドイツ近代やアドルノを援用した論考があり、メディアという観点からは広告や映画とヴァレリー、紙やスクリーンなどの支持体と「いま・ここ」にいる主体の関わりが分析される。本書は五部構成だが、それぞれの論考はこの構成を超えてつながり、さまざまな切り口を楽しむこともできる。
巻頭論文でブノワ・ペータースは、フランスでヴァレリー研究が停滞した理由に「知性の人」のイメージを保とうとしたことを挙げ、束縛にとらわれることなく資料を辿って作家像を明らかにし続けてきた日本の研究を高く評価する。本書はその成果を目にする恰好の場にもなっている。
(いのうえ・なおこ/大阪教育大学准教授。ポール・ヴァレリー研究。著書Paul Valery : L’apparaître des choses)
◇初出=『ふらんす』2019年1月号