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書評

【書評】サルトル『敗走と捕虜のサルトル:戯曲『バリオナ』「敗走・捕虜日記」「マチューの日記」』 [評者]澤田直

ジャン=ポール・サルトル 著
石崎晴己 編訳=解説
『敗走と捕虜のサルトル:戯曲『バリオナ』「敗走・捕虜日記」「マチューの日記」』
藤原書店 3600円+税

[評者]澤田直

 

第一戯曲と第一級の資料

 戦争は、突然、降ってくる。もちろん、先見の明を持つ者からすれば、兆はいたるところにあったのだろう。だが、大方の者は自分が抱える問題で手一杯で、大きな嵐が迫っていることに気づかない。1939年9月、第二次世界大戦が勃発したときのサルトルの反応は、そんな普通の市民のものだった。なぜ? どうして? 動員されて配属軍に合流したサルトルは、我が身に降りかかった戦争という事態に対峙するために「日録」をつけることを思い立つ。死後公刊された『奇妙な戦争──戦中日記』は、戦争に直面した普通の人間の実存に関する第一級の資料だ。軍隊で、サルトルは様々な社会階層の人間との共同生活を営むことになり、それが戦後の思想の出発点になるのだが、今回初めて邦訳されたテクスト群は、その経緯を雄弁に物語る。 

 1940年6月のドイツ軍の大攻勢によって、フランス軍は壊滅し、サルトルも捕虜となり、フランス国境に近いドイツ、トリーアの捕虜収容所に収容されたが、そこでクリスマスの余興として制作上演されたのが、サルトルにとって初の戯曲『バリオナ』だ。舞台は、ベツレヘムから遠からぬユダヤの寒村、バリオナはその村長。ローマから人頭税の増加を告げられたバリオナは、村人たちに子どもを産むことをやめ、絶滅することで、ローマに復讐することを提案。ところが折もおり、妻のサラが身籠ったことを告げる。さらにメシア誕生の報が届く。自由、抵抗、救済などのテーマが、伝統的な聖史劇の様式に流し込まれたサルトルの第一戯曲は、のちに『蝿』『悪魔と神』で展開されるモチーフを含んでいるだけでなく、極限状況における選択という切迫した主題を読者に突きつける。のみならず、サルトルの作品では前景化することが少ない「父と子」や「共同体の運命」が大きな位置を占める点でも興味深い。たとえ過酷な運命が待ち構えていようとも、生まれてくる子どもの自由を信じて、その子に困難な生を託そうとする母サラと、最終的にそれに同意するバリオナの姿は、地球規模での破局が近いようにも見える現在を生きる私たちの姿と重なると言えるのではないか。正解はないが、自由な選択を通して、投企すること。メッセージを超えたメッセージが、クリスマス・プレゼントとして書かれた『バリオナ』には静かに響いている。

(さわだ・なお/立教大学教授。著書『ジャン=リュック・ナンシー』、訳書ナンシー『自由の経験』、サルトル『言葉』)

◇初出=『ふらんす』2018年8月号

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