【書評】鹿島茂『カサノヴァ:人類史上最高にモテた男の物語』(上・下) [評者]高遠弘美
鹿島茂 著
『カサノヴァ:人類史上最高にモテた男の物語』(上・下)
キノブックス
各1900円+税
[評者]高遠弘美
足かけ12年の「批評的ダイジェスト」
フランスの回想録作者と言えば、シャトーブリアン、レ枢機卿、サン・シモンなどがいるが、文学的にも歴史的にも忘れてはならないのが「稀代の色事師」カサノヴァ(1725 -1798)である。
晩年になってフランス語で綴った原稿(Histoire de ma vie)が1820年代に独訳されたのを皮切りに、ヴェネツィアの監獄からの脱獄物語や数々の艶聞を中心に採録した版があまた出されたが、いずれも不完全な版であり、完全版は何と1960年を待たなくてはならなかった(邦訳は窪田般彌訳。1968年。のち河出文庫に12冊で収められた)。だが、それで終わりではなかった。
2010年になって、自筆原稿がパリの国立図書館に収蔵され、2013年から2015年にかけて3巻のプレイヤード叢書として刊行された。まさに現代にあって読まれるべき回想録の作者としてカサノヴァは蘇ったのである。そうしたフランスでのカサノヴァ復権と相呼応するように、鹿島氏は本書を世に問うた。
12冊の窪田訳を2冊にまとめ直した「批評的ダイジェスト」。鹿島氏の言葉を借りてひとまずはそう評することもできる。だが、そこに傾注された情熱と共感と努力は並大抵のものではなかった。様々な事情で発表媒体を変えることを余儀なくされながら、氏は足かけ12年にもわたって、この現実主義者にして享楽主義者でもある18世紀的人間とつき合い、その再評価と顕揚に力を注いだのだ。
「わたしにとって、享楽の五分の四は、女を幸福にする点にある」。そう断言するカサノヴァは鹿島氏の筆で、みごとに血肉を与えられ、上下2冊730ページあまりをのびのびと動き回る。あるときは梅毒や女の奸計や借金に苦しみ、犯罪や決闘沙汰に巻き込まれ一命を危うくしたかと思うと、あるときは知性溢れる女たちの優しい愛情にほだされながらも、いよいよ結婚かという寸前でするりと抜け出して再び自由な境遇を取り戻す。
鹿島氏は、そうした波瀾万丈の人生を活写するだけで済まさなかった。諸処に鏤められた哲学的考察は性愛のみならず、経済や風俗や政情、時代思潮や各国の国民性まで及ぶ。
読者はカサノヴァの生きた時代をどこか懐かしく感じるとともに、時には狭量で息苦しい現代に生きざるを得ない自分を口惜しく思うことだろう。
(たかとお・ひろみ/明治大学教授。訳書ロミ『乳房の神話学』『悪食大全』、プルースト『失われた時を求めて』)
◇初出=『ふらんす』2018年7月号