【書評】石崎晴己『ある少年H:わが「失われた時を求めて」』 [評者]福田裕大
石崎晴己 著
『ある少年H:わが「失われた時を求めて」』
吉田書店
1800円+税
[評者]福田裕大
過去を記憶することをめぐる稀有な書物
サルトル、ブルデューらの研究で知られる著者による清々しい新著。
自分は紛れもなく「かくなるもの」であり、過去に生じたこれこれの出来事こそが、この揺るぎなき自分の「いま」を構成するものにほかならない──そんな堅固な信念によって紡がれるのが「自伝」の言葉であるとすれば、この『ある少年H』のなかで描かれるのは、たとえば見慣れた街並みの一角がある日がらりと姿を変えてしまったときなどに突きつけられる、私たちの世界像の、あるいは記憶の不確かさのようなものだ。
本書は1940年生まれの筆者が自らの「思春期以前」を回想しようとするものであり、時代としては大戦末期から復興期へと至る15年ほどの年月がおよその枠組みとなる。当然ながら時代のうねりは大きく、例えば仁古田への疎開や父親の帰還など、そうしたうねりの具体的な形象が本書には数多く描かれる。とはいえ筆者は、実体験に照らして歴史の輪郭を大きく縁取ろうとするのではなく、そんな当時の状況下で実現されたひとりの人間の形成過程のほうへと、いわば微視的に焦点を合わせようとする。
このクローズ・アップの意識はそれ自体として相当にストイックなものであるが、さらに特筆すべき点として、自らの記憶の不確かさを正面から引き受けたうえで、あくまで現在時からの回想に徹しようとする意思に本書は貫かれている。──「母はいつも一緒だった。というよりは、父と二人だけで〔映画館に〕行ったという覚えがないので、そう推理されるわけである」(93-94頁)。幼少期の映画体験をめぐる一節だが、上述したような現在の視点が浸透しているからこそ、「覚えていること」ではなく「覚えていないこと」のほうが影のように際立って、読み手の心に差し込んでくる。
『ある少年H』は、「過去を記憶すること」をめぐる私たちのあり方を鮮やかに浮き立たせる、稀有な書物である。こうした骨子に加え、筆者ならではの独創として、当代のメディア環境の変容に鋭いメスが入れられている点も面白い。「絵物語」の世界の豊潤さ、銀幕の女優を前にした少年の戸惑いなどトピックは尽きないが、とりわけ仁古田へと向かう汽車のなかで聴いた歌声をめぐる一連の回想は必読である。こうした「聴くこと」のかたちを、私たちは記憶することができるだろうか。
(ふくだ・ゆうだい/近畿大学准教授。著書『シャルル・クロ 詩人にして科学者─詩・蓄音機・色彩写真』)
◇初出=『ふらんす』2019年8月号