【書評】ヴィアゼムスキー『それからの彼女』 [評者]小沼純一
アンヌ・ヴィアゼムスキー 著
原正人 訳
『それからの彼女 Un an après』
DU BOOKS 2400円+税
[評者]小沼純一
女性の眼をとおしてみえるもの
前著『彼女のひたむきな12カ月』(DU BOOKS)の終盤、ジャン=リュック・ゴダールとの入籍、新生活から『中国女』の撮影・完成を語った「わたし」、元・女優にして作家に転身したアンヌ・ヴィアゼムスキーが本書冒頭で身をおくのは1968年、ちょうど今年から数えて50年前になる。いうまでもない、パリ五月革命の時期だ。フランスでは「五月」をめぐっての議論が喧しく、書籍も多く出版されていると聞くし、本誌でも特集が組まれていたのは記憶に新しい。
本書は、ゴダールとともにこの時期を暮した20代はじめの女性の実感が、モーリヤックの孫娘として生まれ育ったブルジョア娘が映画業界にたまたまはいりこんでしまい、孤独で奇妙な男と暮して始めてしまったがゆえに目にはいってくるものが、「五月」の人びとのうねりのなかに身をおいて体感されるものが、描かれる。一回り以上年長ですでに高名となっているゴダールの、運動への共感・熱狂と覚醒、まわりに集まってくる人たち、ジガ・ヴェルトフ集団をつくってゆくさま。ふとあらわれるよく知られた名の人物たちの思いがけぬ横顔──P. ガレル、G. ドゥルーズ、M. ジャガー、L. ジョーンズ、M. マストロヤンニ、G. バルビエリ──。まだミーハー気分も残している「わたし」と、読み手のミーハー気分とはきっと共振もして、お祭り気分で高揚したり楽しんだりするのだが、その合間合間には警官隊の暴力に怯え、胸を痛め、悲しむ若い「女の子」のありようも浮かびあがってくる。
五月の狂熱が徐々に醒め、街が旧に復してゆく。ゴダールは新しいしごとにはいり、「わたし」もべつの監督とのしごとで「離れ離れに」暮らす時間ができてしまう。ゴダールと「わたし」との物語=歴史を描きつつ、徐々に距離が広がってゆく。ある男性の見え方(と性格)の露呈。才能はあるけど、なんかもう、大人になりきれずわがまま、嫉妬深く疑心暗鬼のしょーもない人物を、書いてくれて、ことばでのこしてくれて良かったな、とおもう。女性の眼をとおしてみえるもの。それが本書から得られるもののひとつだ。
これがアンヌの最後から二番目の本になる。本書を下敷きにした『グッバイ・ゴダール!』も公開される。かぶってはいるがそれぞれ独立してみる・よむを対比させるおもしろさはなかなか。
(こぬま・じゅんいち/音楽・文芸評論家。早稲田大学教授。著書『ミニマル・ミュージック』『音楽に自然を聴く』)
◇初出=『ふらんす』2018年8月号