【書評】木水千里『マン・レイ:軽さの方程式』 [評者]倉方健作
木水千里 著
『マン・レイ:軽さの方程式』
三元社
4500円+税
[評者]倉方健作
美術史のスリリングな生成に立ち会う
人間(マン)・光線(レイ)。キャッチーな芸名のアメリカ人写真家はまぎれもなく世界的な有名人である。ところが美術史上では、彼を対象とした研究は愕然とするほど少なく、二流、三流の芸術家と見なされているともいう。本当か。確かに《アングルのヴァイオリン》や《涙》の機知は誰をも喜ばせるが、それ以上の存在かと問われると心もとない。「多くの人にとってマン・レイという芸術家はカメラを片手にあちこちに顔を出した器用な単なる面白い人でしかなかったのだ」─本著は、図星を指されてうろたえる「多くの人」のために書かれている。だが著者は作品の素晴らしさをこんこんと教え諭すわけではない。マン・レイを取り巻く空間、言い換えれば現代美術の「場」の生成を示すことで、彼の活動が雑多な非・芸術として埒外に置かれるに至る過程を明らかにするのである。
マン・レイはアメリカとフランスで、86 年の人生をほぼ半分ずつ生きた。もっぱらクローズアップされるのはパリで活動した一時期のみであり、しかもダダイスム、シュルレアリスムといった芸術運動の一員とみなされてしまう。実際には、彼の芸術観は独自性が高い。芸術の進歩を否定し、自分にとって旧作と近作は区別されないと言う。そして「作品は評価に左右されることなく、永続すべきものだ」と宣言し、自らの芸術の不滅を確信する。とはいえ、絶頂期とされる1930 年代を過ぎてからの彼は、芸術家として成功したとはお世辞にも言えない。過去の人という烙印を押され、晩年の1966 年にアメリカで開催した初の大規模な回顧展も失敗に終わってしまう。こうした作品と受容のあいだ、あるいは作品と言葉のあいだにある齟齬(そご)をも、著者は丹念に追っていく。
抑制された筆致で書かれた本著は、マン・レイの芸術的試みをやみくもに正当化することはない。やはり時代のなかで彼がどこかスベっていたのは間違いないのだ。こうした事態を招いた彼自身の「軽さ」を肯定的に捉え、未知数を含んだ「軽さの方程式」を解こうと試みる文章は、精緻でありながらどこかあたたかい。「本書がマン・レイについて思いをめぐらすきっかけの一つになればこんなに嬉しいことはない」(「あとがき」)という著者の思いが推進力となっているからだろう。
◇初出=『ふらんす』2018年9月号