【書評】井上善幸・近藤耕人編著『サミュエル・ベケットと批評の遠近法』 [評者]鈴木哲平
『サミュエル・ベケットと批評の遠近法』
井上善幸・近藤耕人 編著
未知谷 6000円+税
[評者]鈴木哲平
ベケット批評は国境と世代を超えて
かつて佐伯隆幸氏は私に「ベケットの研究書は家一軒分だな」と冗談まじりにおっしゃった。じじつ、ベケットに関する研究は英語・フランス語を中心に、毎年数十冊が出版され続けている。
読者は本書で、そうした膨大な研究の中でも特に重要なコーン、ノウルソン、ゴンタースキー、ムアジャーニ、ブライデン、ウルマン、モードらのベケット論に触れることができる。また、特に注目したいのはブリュノ・クレマンの抄訳である。フランスの現代文学・哲学を論じるこの気鋭の論者は、近年徐々に日本語へ紹介されてきている。彼の出発点の一つとなった浩瀚なベケット論の一部を、日本語で読むことができるのは貴重である。
ベケットに興味を持ち、本格的にベケット(とくにそのテレビ作品や映画、後期演劇)に取り組み始めようという読者にとっては、本書はこの上ないガイドとなろう。あるいは、ベケットよりむしろカフカやドゥルーズ、ガタリに関心を寄せる読者にも有用になるに違いない。
タイトルにある「遠近法」の語は、1950年代のバタイユ、ブランショから2000年代以降のウルマン、モードまで、ベケット批評の歴史的な広がりを含んでいる一方で、海外と日本の論者たちの論考が一同に集められていることを指しているだろう。日本のベケット研究もすでに三つの世代を成している。ベケットを紹介し、その後の研究に決定的影響を与えた第一世代(近藤)、「ベケット研究会」を設立、ノウルソンの大著『ベケット伝』(白水社)を共訳し、現在の研究をリードする第二世代(井上、岡室、田尻、対馬、堀、森)、そしてこれに続く第三世代(垣口、木内、島貫、西村、藤原)が調和し、ここに多彩なベケット像を描くことに成功している。『サミュエル・ベケットのヴィジョンと運動』(未知谷、2005)、『サミュエル・ベケット! これからの批評』(水声社、2012)に加え、本書に先立つ海外・日本のベケット論考の競演である『ベケットを見る八つの方法』(未知谷、2013)とあわせ、日本のベケット批評は活況を呈している。
ベケットは、ついに作家として孤独な道を歩み出そうという1931年、トリニティ・カレッジ・ダブリンの教職を辞した。大学にとどまって批評を続ける論者たちとベケットが生み出す「遠近法」が、この作家のさらなる可能性を拓き続けることだろう。
(すずき・てっぺい/江戸川大学准教授。仏文学・舞台芸術、英文学・翻訳研究)
◇初出=『ふらんす』2018年2月号