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福島祥行+國枝孝弘「ヨシとクニーのかっ飛ばし仏語放談」

第31回 京都-フランス

アングラと京都

クニー:♪なのにあなたは京都へゆくの。

ヨシ:あゝ、また、古い歌謡曲ネタから……。

クニー:♪京都の町はそれほどいいの?

ヨシ:まあ、えゝと思うで。

クニー:♪このわたしの愛よりも?

ヨシ:知らんがな、そんなこと。

クニー:これは、1971 年、チェリッシュのデビュー曲!

ヨシ:ぼく、1970 年の渚ゆう子の「京都慕情」のほうが好きやねんけど……。

クニー:いまじゃ、年がら年中、観光客であふれる京都なのに、人はなにゆえ京都をめざすのか?

ヨシ:まあ、ぼくは、となりの大阪在住やし、わりと簡単にゆけますんで。

クニー:大阪びとじゃなくて、フランスびとが!

ヨシ:そないに、フランスで人気なん?

クニー:観光庁の出してる「訪日外国人消費動向調査」(http://www.mlit.go.jp/kankocho/siryou/toukei/syouhityousa.html)によると、昨年に訪日したフランスびとの訪問先ベスト10 は、東京(86.1%)、千葉(51.5%)、京都(50.6%)、大阪(39.3%)、神奈川(18.2%)、広島(14.4%)、奈良(12.1%)、兵庫(8.3%)、石川(7.9%)、岐阜(6.8%)だけど、フランスを除いた欧米8 か国(独、伊、西、露、英、米、加、豪)の人の訪問先ベスト10 の平均は、東京(82.1%)、千葉(70.0%)、京都(38.5%)、大阪(32.6%)、神奈川(16.0%)、広島(13.5%)、奈良(8.1%)、岐阜(6.4%)、愛知(6.0%)、長野(6.0%)、の順なんだよ!

ヨシ:京都の順位、どっちも3 位やで。

クニー:数値を見てよ! フランスの人は、来日した人の半分以上が京都にゆくんだ! 平均より12 ポイントも高い!

ヨシ:なんや、クニー、わざわざ生データから計算したんかいな。

クニー:なにしろ、今月号ふらんす2018年10月号特集が「京都」だからね。ヨシは、育ちも大阪だから、京都へはよくいった?

ヨシ:高槻市ゆう、京都府のとなりみたいなとこで大きゅうなったもんで、よう古本屋巡りにいったで。だいたいは、寺町を北上し、今出川で折り返して、河原町を南下ゆうコースやった。

クニー:ぼくは、高校時代、休みになると、京都にレコード買いにいってたね。岐阜から2 時間半の旅。河原町のリバーサイドや三条の十字屋でレコード買って、京大西部講堂でライブを見たり。

ヨシ:おゝ、西部講堂。ぼくの属してる演劇集団浪花グランドロマンは、1994年10 月に芝居したことあるで。「西部十月」いう演劇祭の一環で、燐光群とか遊劇体とか時空劇場と一緒やった。ウチは、その年の8 月に大阪の扇町公園でやった野外劇で、「星の王子さま」のサン= テグジュペリをネタにした芝居を室内版にして上演してん。ちなみに、ぼくの台本な。西部講堂は、1975 年に戧設された西部講堂連絡協議会、通称「西連協」が自主管理、自主運営のスローガンのもと管理、運営してて、そこでやられる音楽も芝居もアヴァンギャルドで反体制。「風の旅団」ていうバリバリのテント劇団も、西部講堂前の広場に定期的にやってきとった。

クニー:さすが、西部講堂。ぼくが、西部講堂を知ったのは、1962 年に京都で結成された伝説のアングラバンド、海外ではLes Rallizes Dénudés って名前で知られる「裸のラリーズ」がライブをやったから。そう、ぼくにとっての京都はアングラ、アングラは京都だったね。京大にいった高校の友人が暗黒舞踏集団の白虎社(びゃっこしゃ)にはいって、白塗り舞踏やったり。ほかにも、のいづんづり、EP-4 とかのインディーズバンドとか。そういえば、西部講堂でパンクバンドみてたら、いきなりステージから客席に爆竹を投げ込まれて、死ぬかと思ったよ。

ヨシ:ミロリン編集長は、あの辺に下宿してたことがあるらしけど、あの辺一帯が蠱惑(こわく)的やったというてはる。イタリア会館、京大人文研、日仏学館、西部講堂、西部生協が建ちならんでて、世界の中心いうか、世界そのものいう気がしたそうや。ちなみに、日仏学館でフランス人花火師が花火をあげたら、西部講堂でボヤさわぎになったらしい。

クニー:たぶん、あの辺の雰囲気のせいで、街中で花火あげちゃえる気分になったんだろね。

ヨシ:その「関西日仏学館」、現「アンスティチュ・フランセ関西-京都」には、学部生時代にぼくも一瞬かよててんけど、中に「稲畑ホール」いうホールがあって、当時はこの「稲畑」がずっと謎やってん。

クニー:1927 年の旧関西日仏学館の設立に奔走してくれた人の苗字だよね?

ヨシ:稲畑勝太郎(いなばたかつたろう)(1862-1949)は、当時、大阪商業会議所(現大阪商工会議所)の会頭やって、駐日大使やった詩人のポール・クローデルの要望にこたえ、日仏学館を京都に建てるために、関西財界、とりわけ大阪財界から寄附金をあつめたんや。なにしろ、当時の大阪は、1923 年の関東大震災で東京から人が移住したこともあって、日本一の人口を誇り、「大大阪(だいおおさか)」とよばれる時代やったからね。

 

稲畑勝太郎とリヨン

クニー:にしても、稲畑さんは、フランス贔屓(びいき)だったんだね。

ヨシ:じつは、稲畑勝太郎、京都師範学校(現京都教育大学)の学生やったとき、年でいうたら1877( 明治10) 年から1885(明治18)年にかけて、フランスに留学したフランス通やってん。

クニー:なるほどー。

ヨシ:1872(明治5)年に、京都府は、西陣織の技術向上のために、2 名を派遣して、ジャカード織機とかを輸入しててんけど、今回は、師範学校と仏学校─これ、あとで経済的理由で廃止されんねんけど─の成績優秀者8 名を派遣して、織物のほか、鉱山、製麻、製糸撚糸、染色、陶器、機械、絵画・図案を、各人に学ばせる作戦に出たわけや。ちなみに、勝太郎さんは染色担当。

クニー:織物だけじゃなかったんだね。

ヨシ:背景には、京都の仏学校の教員やったLéon Dury レオン・デュリー(1822-1891)の洞察があったんやで。このひと、幕末に医者として来日してんねんけど、かねてから、すぐれた美術工芸都市の京都は、フランスのリヨンに似てると思てたらしく、リヨン留学を勧めたらしで。

クニー:リヨンはシルクで有名な着倒れの街で、美食の食い倒れの街でもあるしね。

ヨシ: ほんで、リヨンのÉcole de La Martinière ラ・マルティニエール学校、いまのLycée La Martinière Monplaisir ラ・マルティニエール・モンプレジール高校とリヨン大学で学んだ勝太郎はんは、帰国後は京都府染工講習所教員、京都織物会社染色技師長をへて、1890(明治23)年に稲畑染料店、いまの稲畑産業株式会社を興して、合成染料の輸入貿易をしてはったんや。その後、1895 年に、モスリン─当時の日本やと薄手の毛織物のこっちゃけど─を国産化しようと、毛斯綸(モスリン)紡績株式会社をつくって、翌年に紡織技術の研究と機械設備購入のために渡仏するんやけど、そこで、かつてのラ・マルティニエール学校の同級生のひとりが、弟といっしょにシネマトグラフcinématographe いうのんをつくったさかいに、ちょう見てんかいうんで、見たのが「映画」やったわけや。ほんで勝太郎さん、これはオモロイと、映写機を購入し、映写技師をつれて帰国した。ほんで、1897(明治30)年2 月に、大阪ミナミの南地演舞場、いまのなんばマルイのあるとこで、日本最初の映画興行をおこなったわけや。いまでも、マルイのビルにあるTOHO シネマズなんばの入口にそのことの記念碑がかかげられてるよ。

クニー:つまり、その同級生はAuguste Lumière(1862-1954) で、弟はLouis Lumière(1864-1948)だったんだね!

ヨシ:ちなみに、弟のルイも、ラ・マルティニエール学校の卒業生やで。リヨン市のリュミエール兄弟の家の跡地のある街は、Rue du Premier Film、つまり「さいしょの映画通り」いう名前で、いまはMusée Lumière リュミエール博物館になってんねん。そこで、リュミエール兄弟が撮影した古いフィルムが見られるねんけど、明治の日本の家族の姿もあって、これは、勝太郎はんが連れてきた技師が撮影した、稲畑家の日常風景らしね。リヨンにいったら、ぜひご覧あれ。

クニー:いやあ、少年時代のぼくにとって「文化は京都から」だったけど、映画興行も京都からだったとはねえ。

ヨシ:京都市と首都パリ市は姉妹都市なわけやけど、仏第2 の都市圏リヨンとも、浅からぬつながりがあったわけやね。

クニー:だからあなたは京都へゆくのか!

ヨシ:いや、同志社で非常勤やってますさかい、毎週シゴトでいきま。

◇初出=『ふらんす』2018年10月号

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著者略歴

  1. 福島祥行(ふくしま・よしゆき)

    大阪市立大学教授。仏言語学・相互行為論・言語学習。著書『キクタンフランス語会話』

  2. 國枝孝弘(くにえだ・たかひろ)

    慶應義塾大学教授。仏語教育・仏文学。著書『基礎徹底マスター!フランス語ドリル』

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