第14回 散歩とマンガ
夜の大阪散歩
クニー:ヨシ! この間はありがとう。大阪の街を案内してくれて!
ヨシ:上町台地をゆっくりと下ってんけど、車も入ってこられへん路地をぶらぶら歩いたり、うだつをつけた家の前を通ったり、大阪の風情もええもんやろ?
クニー:うだつって屋根につける防火壁のことだけど、実物見たの初めて。
ヨシ:「うだつが上がらない」の語源と言われとるね。
クニー:それにしても夜の散歩は楽しかったなあ。ヨシと別れてからも、空堀商店街を抜けて、心斎橋まで歩いたよ。「窓に君の影が~ ゆれるのが見えたから~」って口ずさみながら。
ヨシ:そりゃ、RCサクセションの「夜の散歩をしないかね」の歌詞や!
クニー:ヨシ、すごい、よくわかったね。
ヨシ:この連載も一緒にやって1年や。その間、クニーが好きなロックも勉強させてもろたで!
クニー:泣ける……。
ヨシ: 泣くのはええけど、ぜんぜんフランス語の話題をしてへん……。
クニー:アジャパー!
散歩を意味するフランス語
クニー:いま、散歩の話題をしたけれど、散歩で思い浮かべるフランス文学作品といえば、まずは何よりジャン=ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』だね。
ヨシ:原題はLes Rêveries du promeneur solitaire。4月からフランス語を始めた方は、単語を仲間で覚えて語彙を増やしまひょ。「散歩する」はse promener、「散歩」はpromenade。この単語を使って「散歩する」をfaire une promenadeとも言えます。
クニー:promenadeには「散歩道」の意味もあるね。ニースの海岸沿いにある「イギリス人通り」はPromenade des Anglaisって言うね。
ヨシ:同じ散歩でも、くだけた言い方でse balader、 baladeがある。ちなみに仏仏辞書プチ・ロベールを引くとse baladerはse promener sans but「目的なしに散歩する」、わざわざsans butて定義してる。つまり「そぞろ歩き」やな。Les Champs-Élysées(オー・シャンゼリゼ)いう有名な歌で、Je me baladais sur lʼavenue(あたしはこの大通りをぶらついてたの)て使われとったね。こういう語感は、やっぱ仏仏辞書を引いて確かめたいとこや。
クニー:フランス政府は、外来語を使わずフランス語を用いることを推奨しているけど、むかしウォークマンが出たときに、それに対応する単語としてbaladeurをあてたんだね。-eurは先ほどのpromeneurと同じく人を表す接尾辞だから、まさにbaladeurはぴったり。
ヨシ:他にも「遊歩者」というニュアンスでflâneurいうのんもあるね。
谷口ジローとフランス
クニー:散歩の話をしてたら、どうしても谷口ジローを思わずにはいられないよ。
ヨシ:今年の2月に亡(の)うなったなあ。散歩の作品は『歩くひと』(1990-1991)のこと?
クニー:そう。フランスでは本当に評価が高かったし、訃報も大きく取り上げられたね。特に『歩くひと』は、ご本人が日本ではあまり受け容れられなかったけど、ヨーロッパでは評価されたとおっしゃってる。
ヨシ:確かに谷口ジローはフランスやベルギーのBande dessinée(バンド・デシネ、以下BD)、特にBD作家エンキ・ビラルやメビウスの影響を公言してはるみたいに、ヨーロッパで受け容れられやすいフラットな絵が特徴やとは言えるね。
クニー:たとえば日刊紙Le Mondeの追悼記事では「マンガとBDの二つのアートを統合できる唯一の人物」と評されてる。
ヨシ:マンガとバンド・デシネは確かに「絵による物語」とは言えるかもしれへんけど、かなりちゃうもんやね。BDは、そもそも作品をalbum(アルバム)と呼ぶように大きな画集サイズで、イラストみたいなイメージもあるから、BD作家はdessinateur(デッサンを描く人、デザイナーやイラストレイターも含む)と言われとる。
クニー:それに対してマンガは、セリフやダイナミックなコマ構成がその特徴でBDとは対照的。だから今はマンガ、マンガ家を指すためにmanga、mangakaがそのまま使われて、すっかり定着してるね。
ヨシ:日本いうたら、マンガがすぐに頭に浮かぶやろけど、特に『歩くひと』みたいな作品は、ストーリーも特にあれへんし、セリフも少ない。近所を散歩する登場人物の姿や風景描写のウェイトが高い。それに谷口ジロー本人は絵ェだけ描いて、シナリオは別の人が担当している作品も多いから、彼がmangakaやのうてdessinateurと言われんのも納得やね。
クニー:『歩くひと』はフランスではL’Homme qui marche (Casterman)というタイトルで1995年に初めて翻訳・出版されたけれど、マンガのイメージしかなかったフランス人には衝撃的だったみたいだよ。
ヨシ:谷口ジローのインタビューによると、この作品は「詩を読んでいるみたいやcʼ[est] comme lire de la poésie」、「音楽を聞いているみたいやcʼ[est] comme écouter de la musique」ちゅう評判やったらしね(Jirô Taniguchi, L’Homme qui dessine - entretiens, Casterman, 2012)。
クニー:その後、多くの作品が翻訳されていくね。フランスでよく彼の代表作とされるのは『遥かな町へ』(Quartier lointain, Casterman, 2002-2003)で、この作品は2003年のアングレーム国際漫画祭で最優秀シナリオ賞を受賞している。
ヨシ:フランスとの関わりはほんまに多いね。メビウスがシナリオを担当した『イカル』(Icare, Kana, 2005)、ルーヴル美術館を舞台にした『千年の翼、百年の夢』(フランス語のタイトルはLes Gardiens du Louvre「ルーヴル美術館の番人たち」、Louvre édition, 2014)とか。おまけに、フランス政府の芸術文化勲章 Ordre des Arts et des Lettresのシュヴァリエ(騎士)の位も貰ろてはる。
マンガで学ぶフランス語
クニー:フランス語学習の話に戻るけれど、日本のマンガがフランスで多く出版され、フランスのBDも日本できちんとした翻訳が出ているから、オリジナルと翻訳を対比すると、とてもよい勉強になるよね。
ヨシ:せやね。たとえば『歩くひと』の紹介文には « Lʼhomme qui marche, à travers ses balades souvent muettes et solitaires,…» なんて、さっき言うてたbaladeが出てくるで。
クニー:「たいていいつも静かに孤独に、あてもなく歩いている男は……」という意味だね。おもしろいのは去年出た『孤独のグルメ2』(作・久住昌之、画・谷口ジロー)のフランス語タイトル。なんとLes Rêveries d’un gourmet solitaire (Casterman, 2016) !
ヨシ:「孤独なグルメの夢想」! さっきのルソーの作品名をかけてるんかいな!
クニー:そうなのよ。それから『歩くひと』はさっきも触れたけど、セリフが少なくて、あったとしてもとてもシンプル。でもだからこそ初級の人にはとっつきやすいと思うよ。
ヨシ:たとえば?
クニー:サッカーボールをぶつけられて、子供たちに謝られたときのセリフ、「いいよ、いいんだ」はOn laisse tomber. Ce nʼest pas grave.
ヨシ:実際の会話で使えるセリフやな。
クニー:他にも細かいことだけど、壊れたメガネをみて、「メガネ!どうしたの?」というときは、« Tes lunettes, quʼest-ce qui tʼest arrivé ? »
ヨシ:メガネにちゃんと所有形容詞をつけへんと、話者の驚きを表せへんのやな。
クニー:そうそう! なんて言っているうちに、紙数がつきちゃった! 最近でたBD作家タルディの翻訳作品とか、巡回中の展覧会「ルーヴルno.9~漫画、9番目の芸術~」の話とか……ああ……できない。
ヨシ:Ce nʼest pas grave ! ぼくらには来月がある。それまでまたふらふらflânerieしまひょ!
◇初出=『ふらんす』2017年5月号