第4回 記憶と動詞
手話と飛び立つ
ヨシ:そういえば、クニーは、去年公開された『エール!』ってフランス映画がエエっていうとったね。
クニー:そう、原題はLa Famille Bélier(ベリエ一家)。「歌」の映画だしね。
ヨシ:エリック・ラルティゴーÉric Lartigau(1964- )監督で、主演はルアーヌ・エメラLouane Emera(1996- )。フランスの第1チャンネルのテレビ局TF1 で放送されとったオーディション番組The Voice, la plus belle voix(ザ・ボイス、いちばんすてきな声)で見いだされた歌姫で、魅惑の声の持ち主やけど、そのルアーヌならではの役やった。
クニー:映画のプロモーションで日本に来たときに、監督も彼女も手話で話して、日本の手話話者に、「通じますか?」ってきいたら、だいたい通じてたらしい。
ヨシ:へえ。手話って、言語学的には自然言語とみなされてんねんけど、じつは、フランスの神父さんやったシャルル=ミシェル・ド・レペCharles-Michel de L’Épée(1712-1789)が1760年に考案したのが最初の手話やといわれとる。アメリカ手話は、このフランス手話の影響うけてるらしねんけど、日本手話は、独自に考案、発達したみたいやね。
クニー:そういや、手話にも方言があるって聞いたけど?
ヨシ:筑波技術大学の大杉豊先生が「日本手話言語地図」いう動画つきデータベースを公開してくれてはるねんけど(http://www.a.tsukuba-tech.ac.jp/ge/~osugi/jslmap/map.html)、それ見たら、70歳代と30歳代やと、やっぱり70歳代の方が地方差があって、なかでも、なんでか「フランス」いう単語は、30歳代やと、京都府は他の都道府県と違ごた形を使こてるんやけど、この形、70歳代では、和歌山県で使われてる形やねん。で、70歳代の京都府は、大阪府でも半分使われてる別の形を使こてはるねんな。方言が移動してる。
クニー:ことばってのが、人間とともに在るもんだってことを感じさせるよね。
ヨシ:その点において、日本手話もフランス手話も、通じるとこがあるんかもね。
クニー:『エール!』の話にもどると、見せ場のオーディションでヒロインの歌う曲がミシェル・サルドゥーMichel Sardou(1947- )ってとこがね。オーディションの審査員たちが、「え、サルドゥー歌うの?」って感じで。
ヨシ:ラジオ・フランスのオーディションのシーンで、サルドゥーの曲を歌いたいいうたら、最初、聞き返して、そんで、審査員長が小バカにしたように笑いながら、伴奏者に「知ってるか?」てたずねると、伴奏者は、知ってるけど、譜面がなかったら弾(ひ)かれへんと。
クニー:大衆歌謡だからね。
ヨシ:サルドゥーって、めっちゃ有名やけども。70年代やったっけ?
クニー:うん。で、そのサルドゥーのJe vole って曲、日本じゃ「青春の翼」って訳されてて、サルドゥー自身の自伝的な歌らしいんだけど、歌詞がヒロインの自立とダブるようになってるんだよね。
ヨシ:「おとうさん、おかあさん、わたしは旅立ちます」いうてね。
クニー:Je vole. の動詞 voler は「飛ぶ」なんで、「わたしは飛ぶ」ってことだけど、「旅立つje pars」にあわせて「わたしは飛び立つ」って訳したい感じ。
ヨシ:「飛び立つ」ってのは、s’envoler いう代名動詞があるんやけどね。これ、volerにenがついて、さらに代名動詞化したものやけど、このenは中性代名詞で、de là を代名詞化したもんやからね。つまりenは「そこから」いうことで、s’envoler は「そこから飛んではなれていく」いうことをあらわしとってん。
クニー:en ではじまる代名動詞って、s’enfuir(逃げ去る)もそんなニュアンスだね。s’en aller(行ってしまう)も、enがくっついてないけど、同起源だよね。「そこからはなれて行く」って感じ。
ヨシ:ほかにも、s’en sortir(~から脱出する、切りぬける)とか s’en revenir(~からもどってくる)なんてのもあるで。あと、代名動詞やないけどemporterも en + porterで「そこから持っていく」やね。
クニー:ファストフード店で« à emporter »は「テイク・アウト」だしね。
ヨシ:ほんで、反対にapporterは「持ってくる」と。
クニー:でも、volerもfuirもallerもsortirもrevenirも、直接目的語をとらない動詞、つまり自動詞なわけだけど、この場合の再帰代名詞seは、どういう役割だっけ?
ヨシ:これは、古い用法のなごりで、「主語の強調」といわれとるね。中世のフランス語やと、わりと自由にseをつけたりとったりでけたみたいやからね。それから、seが消えてしもたやつも。たとえば、approcher(近づく)は、他動詞のapprocher(~を近づける)が代名動詞になって s’approcher(近づく)になり、再帰代名詞が消えて自動詞のapprocherになったんやで。
クニー:代名動詞になると、ニュアンスのかわる語もあったりするよね。「あがる、のぼる」の monter とか、se monter になると、前置詞 à がついて「~に達する」とかになるし。
ヨシ:この monter って動詞、直接目的語をうしろにつなげて、「~をのぼる」になる他動詞としての monter もあるけど、この se monter は、その他動詞に再帰代名詞 se がついて意味的に自動詞になったもんやないね。
クニー:se lever みたいな、他動詞の lever「~を起こす」が代名動詞化して、意味的に自動詞の「起きる」になったケースとはちがうね。
ヨシ:自動詞の monter に、前置詞 à がついて「~に達する」になる語義があるんで、それの主語強調になっとるんかな。
クニー:でも、Le siège pour enfant se monte facilement sur le cadre du vélo.(チャイルドシートは、自転車のフレームにかんたんに載せられる)みたいにも使えるね。これは、monter sur(~の上に載る)から、se monter sur(~に上に載せられる)になってるから、受け身用法になってる。
ヨシ:どっちもありってわけやな。
クニー:他動詞のfermer「(直接目的語を)閉める」も、se fermer で「(主語が)閉まる」になるから、これは代名動詞にすることイコール「自動詞化」のケース。
ヨシ:どれくらい「動いてる」感じがするかっていう観点からすると、一番強いんが他動詞文で、つぎが代名動詞文、最後が形容詞。つまり、①On ferme la porte.(ドアを閉める)、②La porte se ferme.(ドアが閉まる)、③La porte est fermée.(ドアは閉まっている)いうふうに、①の他動詞文が一番「動いてる感」が強うて、つぎが②の代名動詞文。③の形容詞はもう「閉まってる」状態になってもうてる感じ。
Je me souviens...
クニー:souvenir って、代名動詞形か、非人称主語構文でしか使わないけど、これも元は自動詞だったわけ?
ヨシ:せやね。語源のラテン語の subvenire が sub + venire で「こころの下にあらわれる」いう感じ? そこから「想いだされる」。さらに「憶えている」。よう似た単語の se rappeler は直接目的語をとるけど、こっちは se souvenir de で「de~ を想いだす」。でも、カナダの州でフランス語が公用語のケベックの標語は Je me souviens.で、de以下があれへん。
クニー:ケベック州のナンバープレートにも書かれてるやつだね。
ヨシ:1883年に建築家のウジェーヌ=エティエンヌ・タシェEugène-Étienne Taché(1836-1912)が、州議事堂の紋章の下に刻んだんがはじまりらしけど、なにを憶えてんのか、はっきりせえへん。
クニー:ケベックといえば、ことしのカンヌで、グザヴィエ・ドランXavier Dolan(1989- )がグランプリ獲ってさ!
ヨシ:クニー贔屓のドラン監督やな。
クニー:ミロリンもDVD借りてるって。
ヨシ:せやから誰やねん、ミロリンて?
クニー:ドランはケベック出身だからね。
ヨシ:一応、ぼくかてドランのDVDボックス持ってんで。見れてへんけど。
クニー:どうして見ないの⁈
ヨシ:いや、その、時間が……。なにしろ、この原稿だって──。
クニー:ていうか、そのドランの受賞スピーチがよくってさ。
ヨシ:ドラン、涙のスピーチやった。
クニー:シメのところで、19世紀の作家のアナトール・フランスから引用した Je préfère la folie des passions à la sagesse de l’indifférence.(わたしは無関心の賢さより、情熱による狂気を好む)には泣けたねー。
ヨシ:クニーのドランへの愛は passionnément(情熱的に)を通りこして à la folie(気も狂うほど)やなあ。
◇初出=『ふらんす』2016年7月号