第41回 詩と新鮮さ
窪田般彌先生とアポリネール
クニー:先日用事があってね、久しぶりに早稲田大学に行ったんだ。
ヨシ:早稲田いうたら、クニーの母校やね。でもずいぶん変わったんちゃう?
クニー:うん、建物はすっかりきれいになっているし、教室も立派になっていた。でも構内の道を歩いていると、学生時代の記憶が戻ってくる。戸山キャンパスには緩やかな坂があるんだけど、修士1年になったばかりのころ、その坂を上がったところで、窪田般彌(はんや)先生にばったりあって、優しい声をかけてもらったことをふと思い出したりして……。
ヨシ:窪田先生いうたら、数々の著作、翻訳で知られたはるけど、やっぱご本人も詩人だけあって、詩の翻訳がとりわけ印象深いね。そないいうたら、今月号の『ふらんす』の特集は「ノートルダムとエッフェル塔」やけど、アポリネールの有名な詩「地帯」の最初にエッフェル塔が出てくる。ほんで小沢書店の『アポリネール詩集』の翻訳者は窪田先生やな。
クニー:« À la fin tu es las de ce monde ancien / Bergère ô tour Eiffel le troupeau des ponts bêle ce matin »「ついに君はこの古くさい世界に倦きた/羊飼いの娘 おおエッフェル塔よ 橋々の群れは今朝 羊のように鳴きわめく」
ヨシ:エッフェル塔はまさに新しさの象徴。パリで新しい世界が始まろうとしてるいうイメージが強う伝わってくるがな。
クニー:今回は、詩がもたらしてくれる新鮮さ、新しさの魅力に触れつつ、ぼくら二人の詩への愛を語りましょう。
ボードレールとエリュアール
ヨシ:最初に出会ったフランス詩人はボードレールや。高校時代に、仏和辞典片手に夢中になって訳したで。まあ無理やりやったけど。たとえば「万物照応」Correspondances とか。
クニー:ボードレール! 修士のときの窪田先生の授業は、Jean Prévost という作家のボードレール論の講読だったよ。当時すでに古い本だったけれど、先生が「古いからといって、読む価値がないとは言えないよ」とおっしゃっていたのを今でもよく覚えてる。
ヨシ:そもそも、文学に古さっちゅう概念はなじまへんからね。文学は表現との出会い。古典と出おたかて、今の作品と出おたかて、その出会い自体はいつかて新鮮な体験やし、読み直すたんびに、新し発見があるもんや。
クニー:ヨシ! ええことゆうね~。例えばボードレールの次の一節に出会ったときは、150年以上前の詩なのに本当に鮮烈な印象を受けたよ。« II est des parfums frais comme des chairs d’enfants / Doux comme les hautbois, verts comme les prairies »
ヨシ:「parfum 香水」は嗅覚、「chairs 肉」は触覚、「hautbois オーボエ」は聴覚、「prairies 草原」は視覚。これらの諸感覚が呼応しおてる。ほんで、「frais, doux, verts新鮮で、甘くて、緑色」がもたらすそれぞれの印象が、詩を読む僕たちの中で調和する。
クニー:嗅覚を表すのに聴覚を用いるような、ある感覚を別の感覚で表象することをsynesthésie 共感覚というけれど、その代表的な一節だね。
ヨシ: ポール・エリュアールの Les Fleurs「花」いう詩も、僕の心を摑んで離さへん。
クニー:ふと口ずさみたくなる詩だね。« J’ai quinze ans / Je me prends par la main »
ヨシ:「ぼくは十五歳 / 自分を抱きしめる」
クニー: « Conviction d’être jeune avec les avantages d’être caressant »
ヨシ:「あまったれるという特典をもった / わかいということへの確信」
クニー:« Je n’ai pas quinze ans / Du temps passé, un incomparable silence est né »
ヨシ:「ぼくは十五歳じゃない / すぎさったときから くらべようもない沈黙がうまれた」
クニー:« Je rêve de ce beau, de ce joli monde de perles et d’herbes volées. »
ヨシ:「僕は夢みる 盗まれた真珠と草ぐさの、あのうつくしい素敵な世界を」
クニー:見事にハモった……。
ヨシ:十五歳は永遠の青春の時や。ちょっぴり寺山修司みたいやん?
日本の詩人たちとフランスでの紹介
クニー:僕が詩を読み始めたのは、実はフランスの詩人ではなくて、日本の詩人だったんだ。思潮社の「現代詩文庫」の影響が大きい。高校時代に名鉄岐阜駅前にあったパルコの本屋さんによくかよって少しずつ集めたんだ。
ヨシ:たとえばどんな詩人?
クニー:一番惹かれたのは那珂太郎。『音楽』は愛読詩集だった。例えば「作品A」の冒頭。「燃えるみどりのみだれるうねりの/みなみの雲の藻の紙のかなしみの/梨の実のなみだの嵐の秋のあさの/にほふ肌のはるかなハアブの痛み…」と、ひらがなの視覚上のやわらかさと、繰り返される母音によるたゆたうような音の調べが見事に溶け合っている。実験的であると同時に、少し憂いを帯びて叙情的でもあるんだ。
ヨシ: 本名は福田正次郎。萩原朔太郎の研究者でもあった人やね。
クニー:そう。あまりにも好きで、大学に入るために上京すると、当時教えていらっしゃった玉川大学の研究室に会いに行ったんだ。とても喜んでもらえて、「福田正二郎と那珂太郎が同一人物だと知ってる学生さんに初めて会ったよ」と言われた。それからもずっと日本の詩人を読み続けているよ。
ヨシ:そういえば、小説家と比べると、日本の現代詩人は、それほどフランスで知られているわけやあれへんね。
クニー:確かに。でも、もう15年以上前になるけれど、フランスの詩の雑誌PO&SIE がその記念すべき第100号で日本の現代詩人の特集を組んだことがあったね。36人の詩人を取り上げて作品の翻訳も含めて紹介している。
ヨシ:そのひとりが谷川俊太郎。日本で最も有名な現役詩人やと思うけど、フランスではそないに知られているわけやない。この雑誌では、日本人とフランス人が共同して、しっかりと詩を読み込んだ上で翻訳がなされとる。
クニー:谷川俊太郎の詩は、決して難しいことばは使わないけれど、イメージは無限に広がっていく。そのスケール感にいつも心を揺すぶられるよ。具体的にどのように訳されているか、紹介しましょう。「鈴をつけた天使」はどう?
ヨシ:「すずをつけたてんしにくすぐられて/あかんぼがわらう/かぜにあたまをなでられて/はながうなずく」。あかちゃんのすがたがほほえましいわ。
クニー:この詩節は次のように訳されている。« Chatouillé par l’ange au grelot / Un bébé rit / Caressés par le souffle du vent / Son nez bouge sa tête branle »
ヨシ:訳したのは近現代詩の研究者で大阪大学でも教鞭を取られたAgnès Dissonさんと、やはりフランス詩の研究者寺本成彦さん。1行目と3行目はそれぞれ過去分詞から始まっている。2行目と4行目は主語+動詞やから、均整がとれて、リズムがあるね。ほんで、てんしとたわむれるあどけないあかちゃんの姿がくっきりと浮かんでくる。
詩とは何か
クニー:いくつか詩を紹介してきたけど、あらためて詩とは何だろう。
ヨシ:自分の気持ちや思いを、「これやったんや!」と表現する言葉を与えてくれるのが詩。せやから、そないな言葉に出会うと、あたかもそれが自分自身の言葉でもあるかのように思ったりする。大学院生のときは、ヴェルレーヌの「叡智」の« Dis, qu’as-tu fait, toi que voilà / de ta jeunesse ? » を自分で書きなぐった自作Tシャツを着てましてん。恥……。
クニー:でも詩の言葉ってそのくらい自分のものにしたくなるよね。ぼくが詩を考えるたびに、頭に浮かぶのは石原吉郎のこと。シベリア抑留体験を持つ戦後詩人で、彼の言葉は決してわかりやすくない。ただ石原は詩は「ひとすじの呼びかけ」だと言っている。
ヨシ:詩の言葉はかぼそいけれど、それでも詩人はその言葉で呼びかける。そしてたった一人でもエエから、読者の元に届いたとき、その言葉はその読者の心の中に生きていくんや。
クニー:うん。それが言葉の命なんだと思う。そうした言葉との出会いこそが「新鮮さ」であり、詩はたえず言葉に生命を吹き込む営みをしているんだと思うよ。
ヨシ:そないな生命感あふれた言葉を自分の中に取り込むことで、僕自身かて生き生きすんのやがな! よっしゃ、あのヴェルレーヌTシャツ探して着よ!
クニー:それはヨシなさい!
◇初出=『ふらんす』2019年8月号