第18回 ムートンさんのリアルなマンガ体験1
フレンチブルーム(以下FB):ムートンさんが初めて日本のマンガと出会ったのはいつですか?
ムートン:中学2年生のときです。初めて親にマンガを買ってもらいました。それが、『ドラゴンボール』の42巻でした。ビデオゲームの店にレアなアイテムが置かれている棚があって、『ガンダム』のプラモデルや『聖闘士星矢』のフィギュアやビデオゲームと並んで、日本語のマンガが置かれていました。そこに日本語版の『ドラゴンボール』の42巻があったんです。
FB:42巻は最終巻ですが、フランス人にとっては特別な意味があるんですよね。
ムートン:そうなんです。テレビで放映されていた『ドラゴンボール』が突然テレビから消えてしまいました。僕たちの夢を打ち砕いたのが、セゴレーヌ・ロワイヤル Ségolène Royalでした。『ドラゴンボール』が内容的にはマンガの41巻あたりだったので、肝心な最後のエピソードがテレビで見られませんでした。
FB : フランスの子供たちに相当な怒りを買ったことでしょうね。ロワイヤルさんはオランド大統領の元パートナーで、現政権の環境大臣です。1989年に 『ザッピングする赤ちゃんには、もううんざり Le ras-le-bol des bébés zappeurs』という本を出版し、日本のマンガバッシングの急先鋒でした。不可解なオタクの象徴的な行動として、明るみに出たばかりの宮崎勤の事件にも言及しています。
ムートン:槍玉に上がったのが、日本のアニメを流し続けていた「クラブ・ドロテ」という番組です。僕も水曜日の朝はいつも見ていました。『ドラゴンボール』の他には『北斗の拳Ken le survivant』『聖闘士星矢Les chevaliers du zodiaque』『シティー・ハンター Nicky Larson』『キャプテン翼 Olive et Tom』などが放映されていました。
FB:ロワイヤルさんは「クラブ・ドロテ」をバッシングすることで、保革共存政権の時代にTF1を民営化させたジャック・シラク率いる共和国連合(RPR)を攻撃したいという思惑もあったようですね。同時期にヨーロッパを席巻していた日本製品に対してバッシングも起こっていて、彼女はそれに便乗したわけです。
ムートン: だから、42巻が目に入った時、日本語版とはいえ、どうしても欲しくなりました。親に頼むと「英語もまともに読めないくせに、まったく分からない日本語のマンガを買ってどうするの⁉」と断られましたが、粘りに粘って何とか買ってもらえました。日本語は読めませんでしたが、マンガの絵によって『ドラゴンボール』のエンディングをようやく知ることができました。42巻はそういう思い入れがあるんです。
FB:暴力的だという理由などで、『ドラゴンボール』だけでなく、他のアニメも内容が部分的に削除されたり、放映中止になったりして、子供たちはアニメを見る習慣に水を差されてしまいました。そしてアニメの代わりに原作のマンガが読まれるようになり、フランスにマンガの一大市場が形成されていくんですよね。
ムートン:僕が『ドラゴンボール』の最終巻を手に入れた翌年あたりから、日本のマンガが少しずつフランス語に訳されるようになりました。もちろん翻訳には時間がかかり、次の巻が出るまで3か月待たなくてはいけませんでしたが、その「楽しみ感」をいまだに覚えています。マンガの影響で、僕が選んだ高校は、大半が行く地元の高校ではなく、リールのLycée Européen Montebelloでした。当時の北フランスで、唯一第3言語で日本語を選択できる高校でした。
FB:高校では日本語とバスケットボールに熱中していたと聞きましたが。フランスではバスケの人気も高いですよね。
ムートン:これもマンガと関係があるんです。僕自身マンガの中でいちばん影響を受けたのが『スラムダンク』です。小2からやっていた柔道をやめて、高2からバスケを初めたきっかけになりました。
FB:そうなんですね。ジネディーヌ・ジダンが『キャプテン翼』の愛読者だったことは有名ですが、1998年のWCフランス大会の優勝メンバーの多くがテレビで『キャプテン翼』を見ていた世代です。
ムートン:サッカーは元々人気があったのですが、国民的なスポーツになったのは90年代で、アニメの影響が背後にあったと言われていますね。
FB:1998年のワールドカップで優勝したチームは様々なルーツを持つメンバーによって構成され、多民族国家としてのフランスを印象付けました。去年、フランス人が書いた『水曜日のアニメが待ち遠しい』という本が出ましたが、その中で、日本のアニメは学校生活の中で移民の子供たちとのギスギスした関係の緩衝材になっていたという記述があり、目からうろこでした。出身や人種の差異が否応なしに意識される状況で、国営放送で流されていたアニメだけが、それを意識せずに友だちと語り合える話題になっていたようです。
ムートン:パリの郊外では特にそうだったんでしょうね。フランスにもともと住む中間層と他国からやってきた移民を混ぜ合わせるような都市政策が、一種の社会実験として進められていましたから。
FB:都市政策はうまくいきませんでしたが、図らずも子供たちのあいだでは、たまたま日本から移入されたアニメやマンガが文化的な差異を問わない関係を作る、第3者的な媒介物の役割を果たしていたわけです。
ムートン:とにかく、僕が高校を卒業した2002年のころは日本語を勉強したいフランス人が本当に大勢いました。次回は僕が大学に入ったときの話から始めましょう。
◇初出=『ふらんす』2016年9月号