第10回 留学したくなる映画
フレンチブルーム 今回は留学したくなる映画の話をしましょう。
ひつじ といえばセドリック・クラピッシュ監督の『スパニッシュ・アパートメント L’auberge espagnole』でしょう。
フレンチブルーム 2014年に『ニューヨークの巴里夫 Casse-tête chinois』が日本でも公開され、クラピッシュの青春3部作が完結しました。
ひつじ 2作目の『ロシアン・ドールズLes poupées russes 』(2005年)から長かったですね。10年も待たされました。私もクラピッシュは大好きです。特に『スパニッシュ・アパートメント』は私の人生に大きな影響を及ぼした映画です。フランスで映画が公開されたのは2002年6月19日です。ちょうど僕がバカロレアを受けた翌日だったんです。高校卒業のパーティーのときに話題に上ったのですが、まだ見ていなかったので、すごく見たい! と思ったのを今でも覚えています。
フレンチブルーム ひつじさんはこの映画の生き証人なんですね! フランス人の大学生、グザヴィエはスペインのバルセロナに留学して、いろんな国から来ている学生とマンションをシェアするわけですが、『スパニッシュ・アパートメント』はヨーロッパの交換留学制度「エラスムスERASMUS」を利用する学生を増やすのに貢献したと言われています。今や20万人以上の学生がこの制度を活用してヨーロッパ各国で学んでいます。公開から13年が経っているにもかかわらず、最近見たニュースでも、映画の真似をしてバルセロナのマンションを13人でシェアしている学生たちが紹介されていました。留学は履歴書(CV)にも書け、就職活動の際にもアピールできる重要な経歴です。
ひつじ 私が高校2年のときに親に日本に留学したいと言ったら、反対されて、そのときはあきらめました。それでも3年のとき、何とか2週間東京でホームステイすることができました。初めての異文化体験でした。その流れで18歳のときにあの映画を見て、留学を通して大人になっていくグザヴィエの姿にあこがれたものです。
フレンチブルーム 留学する前のグザヴィエは、就職活動の際にエリート校ENA 出身の親のコネを使い、母親に« Ta gueule ! »( 黙れ!)と八つ当たりし、「軽蔑する典型的なアホ」と言っていた医者に泣きつく、精神的に未熟なボンボンでしたものね。2002年といえば現金通貨としてのユーロが流通を始め、EU に対する期待に満ちていました。グザヴィエはスペイン留学を勧められますが、当時はスペイン経済の見通しも良かったのです。
ひつじ 原題は L’auberge espagnole―訳すと「スペインの宿」。« Comme des auberges espagnoles, on y trouve tout ce qu’on y apporte, Maurois »「スペインの宿のように、そこには持ち込まれたもののすべてが見つかる」というアンドレ・モーロワの一節が引用されているように、文化的な混沌状態を指します。
フレンチブルーム 『スパニッシュ・アパートメント』には、ヨーロッパが文化的なカオスを引き受け、それをエネルギーにしようとしていた当時の前向きな情熱が反映されているのでしょう。初めのうちグザヴィエは「何で世界はこんなに混沌としてしまったのだろう」と嘆いていますが、最後にそれを受け入れることを宣言します。いみじくも、ガンビア出身のカタルーニャ人の学生が「アイデンティティはひとつではない。いくつもが矛盾しないで共存する」と言います。
ひつじ あれからスペイン経済は低迷し、カタロニア州(バルセロナが州都)では独立機運が高まるという皮肉な結果になっていますが。
フレンチブルーム とはいえ、映画を見ると、何よりもあんなふうに多国籍の共同生活をやってみたいと素直に思いますよね。またスペインにいるけれど、同居人たちはいくつかの言語を使い分けながらコミュニケーションを取っています。とりあえずお互いに通じる言葉で話し、英語がその隙間を埋めるように機能しています。
ひつじ 『スパニッシュ・アパートメント』で今でも授業で使っているネタがあります。イギリス人のウェンディがグザヴィエのお母さんと電話で話すシーンがあります。Xavier n’est pas là. Il va revenir ce soir. と紙に書かれているフランス語を読み上げるのですが、「グザヴィエ・ネス・パス・ラ、イル・ヴァ・レヴニア・セ・ソー」とベタに英語読みします。そしてお母さんが「彼は大学に行ったのね(Il est allé à la fac)」と言ったとき、ウェンディが“fac” を “fuck” と勘違いして慌てます。fac は faculté (学部)を短くした大学を意味する言葉で、学生がよく使います。日本の学生たちには「フランス語で大学を発音するときに気を付けましょうね!」というアドバイスをしています(笑) 。
フレンチブルーム 脳神経外科医の第2言語の話も面白いですよね。バイリンガルの人間が交通事故などで心的外傷を受けたとき、母語は残るけど、せっかく身につけた第2言語がハードディスクを消去するように消えてしまうと言っています。それだけ第2言語は不安定で脳に定着しにくいということですね。
ひつじ 第2言語は習得するのも大変ですが、さらに勉強を続けないとすぐに忘れてしまいますからね。フランス語においても、まさに「継続は力なり」です。
◇初出=『ふらんす』2016年1月号