第9回 《帽子屋》
『ふらんす』2017年12月号表紙絵
レオナール・フジタ
《帽子屋》
1958年
ポーラ美術館蔵
レオナール・フジタ(藤田嗣治(つぐはる)、1886-1968)の画業は、男性の芸術家にはさしてめずらしい事ではないが、いつも若く美しい女性と共にあった。最初の妻鴇田(ときた)登美子、フェルナンド・バレー、リュシー・バドゥー(愛称ユキ)、マドレーヌ・ルクー、そして5番目にして最後の妻、堀内君代(きみよ)(1911-2009)。フジタと君代が婚姻関係を結んだのは東京滞在中の1936年、フジタ50歳、君代25歳。日本橋の料亭で仲居をしていた君代をフジタが見初めた。親子ほど年の離れた君代夫人をフジタはかわいがり、彼が先立つまでの30年以上の月日を、ふたりはフジタ自身の言葉によるならば、「夫婦一身同体」となり連れ添った。
フジタの愛情表現はいつも直截的だ。それは結婚後、20年を経ても弛むことはなかった。戦後、妻と一緒にパリに戻ったフジタは、14区のカンパーニュ=プルミエール通りに居を構え、室内を自作の絵画や骨董品で飾り、隅々まで丹精込めて設(しつら)えた。〈小さな職人たち〉の連作も、フジタが部屋の壁を飾るために1958年9月に着手した壁画である。フジタ家の日々は、君代夫人の機嫌と体調次第で、晴れやかな日もあれば、暗く沈む日もあった。愛妻家で妻の庇護者でもあった夫は、繊細な妻のために、折に触れてお手製のプレゼントを贈り、妻が華やぎと喜びで満たされるように心を砕いていたようである。
鳥かごの小鳥と、通いのお手伝いさんと、たまの訪問者と外出のある夫婦の生活は、おおむね穏やかで、それはフジタがなによりも望んでいたことであった。そんな日常生活の産物である壁画の一枚《帽子屋(モディスト)》は、すまし顔の帽子屋の店主が主人公である。ショーウィンドーの前で、気取ったポーズで水平帽を掲げる女主人。店頭の日よけには、「シェ・キミ」と店名があり、君代夫人がモディストに扮するポートレートであることを示している。連作中の他の子どもたちに比べて、モナ・リザに似たとりわけ端正な顔立ちをしているではないか。のちにダ・ヴィンチにちなんでレオナールの洗礼名を名乗った画家は、微笑みの美少女像に君代へのオマージュを託したのである。
20世紀でもっとも著名なモディストは、ココ・シャネルであろう。先鋭的なセンスを武器に、裕福な恋人を後ろ盾にして開いた帽子店で、シャネルは20代後半に成功への第一歩を踏み出した。貧しく生まれ、本格的な教育や職業訓練を受けなくとも、上流階級の客人を相手に、才能を開花させることのできる帽子屋の店主は、しがない職業「プティ・メティエ」のなかでも、女性たちの憧れの存在であった。下町の子どもたちが労働する連作の中に、花形職業に就く妻の肖像を忍ばせるフジタの計らいが粋である。
戦後パリに戻った1950年代以降、フジタはしばしば記念碑的な作品に、自画像とともに伴侶のポートレートを描き入れた。《君代と一緒の自画像》(1951年)、宗教画《二人の祈り》(1952年)には、黒髪の容姿端麗な夫人の像と、子どもたちの姿が添えられる。君代夫人は、夫が描くパリの下町の子どもの肖像をとりわけ好んでいた。夫婦には実子がなかったが、フジタが戧作した子どもたちが二人の愛おしい小さな家族─あるいは天真爛漫な仲間たちとなり、毎日の制作により増殖し続けた。こうしてフジタ夫妻は大勢の子どもたちに囲まれて晩年の日々を過ごす。
連作〈小さな職人たち〉の壁画には、四隅に画家自身が釘を打ちつけた跡がある。君代夫人も釘打ちを手伝った。小さな壁画がタイル状にびっしりと壁を覆うフジタ家の居間で、フジタ夫妻がくつろぐ写真が数葉残っている。その写真によると、かつて《帽子屋》は、本誌の6月号で紹介した《仕立屋》の右隣に配されていたことがわかる。購読者の方には、ぜひとも2枚の表紙絵を並べてご覧いただきたい。《仕立屋》の客の水着姿の男の子が、隣の《帽子屋》の差し出す水平帽を被ると、フジタ流の海浜リゾートのスタイルが完成する。つまり、《仕立屋》と《帽子屋》は、おしゃれ好きのフジタ夫妻の、子どもの姿を借りた仲睦まじいダブル・ポートレートとして見ることができるのだ。
《帽子屋》は、1958年12月24日、クリスマス・イヴの日に描かれて壁に掲げられた。職人尽くしのこの連作は、画家から妻への心尽くしの贈り物でもあった。
◇初出=『ふらんす』2017年12月号