第4回 《古着屋(屑屋)》
『ふらんす』2017年7月号表紙絵
レオナール・フジタ
《古着屋(屑屋)》
1958年
ポーラ美術館蔵
「パリ市内の、物売りでは、毎日くるものに屑屋がある。大声で、町をどなって歩くが、その声は、「ダビ、シフォニエ」と節をつけて、呼んで歩く」(藤田嗣治『巴里の横顔(プロフィル)』1929年)
フジタがパリのしがない働き手たちをテーマに描いた連作〈小さな職人たち〉(1958-1959年)には、画面上にその職業名がレタリングで示されている。「古着屋、屑屋」と書き添えられたこの人物は、鐘を鳴らしながら声を張り上げ、手押し車に古着を載せて練り歩く、呼び売りである。フジタはこの古着屋を、屑屋の一派と分類した。
かつてボードレールが自らの身を重ねて詩を捧げた屑屋(シフォニエ)。屑屋の仕事は、都市の隅々まで根を張り、その歴史は始点も終点も果てしなく遠い。手仕事が重んじられた時代から機械による大量生産、さらに大量廃棄の時代へと移行する1960年代頃まで、屑屋はパリのインフラの要であった。街の清潔を保ち、資源を供給する「リサイクル業」は、いつの時代もどこの国でも、小さな子どもから大人まで貧困者や移民たちが生活を成り立たせるための最後の稼ぎ口として生き残り続けている。とりわけ子どもたちの機敏な動きと微細なものまで見逃さないセンサーのような高精度の眼は、否が応でも分別作業に重宝されてしまうのであった。かつてパリ郊外に住んでいた子どもたちは、母親から「いい子にしていないと、さらわれてゾーン(パリの周縁部)の屑屋に売られてしまうからね!」と脅かされたという。フジタの連作〈小さな職人たち〉には、職人たちが子どもの姿で描かれるのだが、パリで貧しい子どもたちが実際に従事した職業も少なくない。《煙突掃除夫》《すみれ売り》など、19世紀の児童労働の悪しき代表格が含まれる。
20世紀初頭のゾーンでの暮らしと屑屋のなりわいは、映画監督ジョルジュ・ラコンブの無声映画『ゾーン 屑屋の国』(1928)に克明に記録されている。早朝5時、屑屋はパリ市内の家庭から出たゴミを袋詰めして大八車に乗せ、市民が目覚める7時にはゾーンに向けて出発。不法に建てられたバラックの住居兼作業場で、日中は仕分け作業に勤しむ。こうしてパリ市内で収集された大量のゴミは、古紙、ぼろ、ガラス・金属屑、古パンなどに分別されたのち、屑の問屋に資源として引き取られるほか、郊外の工場で原料や燃料として、驚くほど無駄なく活用された。
フジタが描いた《古着屋(屑屋)》は、古着を売り買いするおばさんに扮した女の子である。古着の売買には値の交渉が欠かせないので、スカーフを頭に巻き、子どもながら年増風の抜け目なく太々しい態度が板についている。街路の古着屋の呼び売りは、かつて主に男性の仕事であった。19世紀前半において、「街路の呼び売りの中で、最も数が多いのは間違いなく、古着屋である。どんな界隈でも、一歩通りに足を踏み出せば、必ずといっていいほどにこの興味深い職業の一員とすれ違い、その声を耳にすることになる」(ジョゼフ・マンゼール「古着屋」『フランス人の自画像』1840-1842年、鹿島茂『パリ風俗』1999年所収)と描写されている。このような古着屋は買い取り専門であり、客に呼ばれると部屋に上がり、貧乏学生などを相手に紳士服の引取り額を交渉して金を工面してやる、質屋業の一種であった。
19世紀の古きパリ、あるいは20世紀初頭に青年期を過ごしたパリの街路に対するノスタルジーだけが、フジタに〈小さな職人たち〉を描かせたのではない。呼び売りは1950年代にも下町で見られ、戦後は女たちが路上での商売に率先して立っていた。また、働く子どもたちといえば、1959年にフランスの義務教育を16歳まで延長する法律が施行され、不当な児童労働が幸いにも根絶されようとしていた。フジタが連作〈小さな職人たち〉に打ち込んだことは、子どもの人権と生活についての社会の規範が、ようやく「近代化」の一歩を踏み出した時代の趨勢と無関係ではないだろう。子どもの多くは口を堅く結び、内省的に仕事に向かう姿が並ぶこの連作のなかで、《古着屋(屑屋)》のやぶにらみの女児は、さしずめ「女番長」というべき迫力と威厳を誇示している。「古着屋」、そして「屑屋」は、かつてパリの路上と周縁部にのさばった守護神の忌まわしくも輝かしい称号であった。そしてその姿はパリの街から消え去ろうとしていた。絵の中の子どもは、刃のような鋭い眼差しを観る者に突き付け、その名が廃れることのないよう、けたたましく喧伝し続けるのである。
◇初出=『ふらんす』2017年7月号