第5回 《ガラス売り》
『ふらんす』2017年8月号表紙絵
レオナール・フジタ
《ガラス売り》
1958年
ポーラ美術館所蔵
いにしえの夏、パリの小さな通りに面した窓を開け放つと、「Vi-trier ! Vi-i-i-itrier !(ガ~ラス屋!ガ~ア~ラス屋!)」という叫び声が、石造りの街路に共鳴しながら壁をつたって部屋の内まで入り込む。窓辺からその声の主の方を見下ろすと、大小幾枚もの板ガラスを背負子(しょいこ)に載せた男が、重い足取りで路上を通り過ぎていく。ガラス窓を修繕する材料と道具一式を装備したガラス屋だ。「清らかな太陽が/めくるめく、あまり多くの輝きを/その背で反射させたため/ガラス売りはついにシャツを脱ぐ」(ステファヌ・マラルメ「ガラス売り」『詩集』1899年)
18世紀末の小説家ルイ=セバスチャン・メルシエは、「世界中でパリほどに、男女の呼売り人が、かん高くつき通すような声を響かせるところは他にはない」と述べている。フジタがパリのしがない働き手たちをテーマに描いた連作〈小さな職人たち〉(1958-1959年)には、街角のしがない職業人「プティ・メティエ」の姿が集められている。先月号表紙の《古着屋》の少女に続き、《ガラス売り》は、路上での商いのために全力で声を張り上げる少年の肖像である。
パリの「プティ・メティエ」は別名「クリ・ド・パリ」(cris de Paris、パリの物売り)と呼ばれ、その歴史は都市が誕生した中世に遡る。物売りの声は、ほとんど言葉が認識不可能なまでに音節(シラブル)を長く引いた大仰な節回しが特徴である。主婦や女中たちは、たとえ室内に居たとしても、呼び声や鳴り物の微かな響きを巧みに聴き分けて、「野菜売り」や「金物売り」など、お目当ての物売りの巡回を逃さず感知した。パリをはじめとする大都市では、こうして路上の物売りの発する音が「サウンドスケープ」(音の風景)を形成し、各都市に固有の活気と風情をもたらしていた。
物売りの呼び声は、都市公認の俗謡である。その生命力あふれる声と姿は都市の風景を活写する画家だけでなく、バルザック、マラルメ、プルーストなど、多くの文学者たちを魅了した。自室に籠りながら都市の豊潤なざわめきに想いを馳せてペンを走らせたプルーストは、街路に立ち上る物売りの声や角笛と鳴り物の音に心酔した一人である。『失われた時を求めて』では、語り手が物売りたちの奏でる調べに恍惚とし、それをオーケストラ編成によるアリアになぞらえている。プルーストと物売りの関係については、中野知律氏の研究に詳しい。プルーストは、物売りの声を網羅した「レ・クリ・ド・パリ」と題した原稿を雑誌に掲載すべく準備していた。「聴覚、このすばらしい感覚は、通りにいる一団を私たちのもとへ連れてきて、その輪郭のすべてをたどり、通りを過ぎゆくすべての形を描き出しながら、その色彩を示してくれるのである」(マルセル・プルースト『失われた時を求めて』第五篇『囚われの女』)。また、プルーストは家政婦の夫に、「物売りの声」を収集して報告するよう頼んだという。「君はいつも外にいるから、こうした通りの声を知っているだろう。君は聞いているけど、僕のところには窓越しにぼんやりとしか届いてこない。すまないが覚えてきてくれないか」(以上、中野知律「『囚われの女』の第3の「朝」―「パリの物売りの声」の生成―」2015年より引用)。
「クリ・ド・パリ」あるいは「プティ・メティエ」は、特に19世紀末から20世紀中盤にかけてさまざまに収集され、文章、音声、版画、写真、絵画において記録された。プルーストとフジタは、かくしてその記録者として同じ系譜に連なる。
第二次大戦後に日本と決別し、1950年にフランスに戻った晩年のフジタは、意外なことに浪曲のアルバムを愛聴していた。フジタの妻、君代夫人に取材した近藤史人氏によれば、フジタがもっとも気に入っていたのは、昭和を代表する名浪曲師、広沢虎造のものであったという。フジタはとくに『森の石松』がお気に入りで、「江戸っ子でい、神田の生まれよ」というよく知られた台詞の箇所を、何度も繰り返し聞くのが常であった(近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』2002年)。
生粋の江戸っ子を自負していたフジタ。「虎造節」の、思わず真似をして唸りたくなるような低音の響きと、威勢の良い啖呵により立ち現れる江戸の音の風景が、晩年を過ごしたパリと郊外の自邸を満たしていた。フジタの心には、市井の人々の人情と哀惜の念が沁み渡っていたのだろう。江戸の下町に向けられた憧憬の思いと、パリのそれとが、フジタの胸中でぴたりと重なり合わさっていたのだった。
◇初出=『ふらんす』2017年8月号