第2回 《すみれ売り》
ふらんす2017年5月号表紙絵
レオナール・フジタ
《すみれ売り》
1959年頃
ポーラ美術館蔵
スミレの季節は春。この出会いと別れの時期に、現代の日本の街で、スミレの花束を見かけることはあるのだろうか。私が勤務する箱根は、スミレの名所である。新たな芽吹きが冬の枯野を緑に染める頃、山の中で目を凝らすと、スミレがそこかしこに紫色の小さな可憐な花を咲かせている。慎ましく儚げで愛らしい。春陽の下、スミレは花弁を揺らして春風の到来をささやくのだが、その色は深い青みを帯びているために、日が陰ればたちまち暗く沈んでしまう。
かつてパリの路上に見られた働き手たちを描いたフジタの連作〈小さな職人たち〉には、仕事に専念する藪にらみの眼をした無愛想な子どもたちの肖像が揃う。しかしこの《すみれ売り》だけは、大きな瞳の愛嬌がある女の子が微笑みを投げかけている。スミレ売りという職業は、道を行き交う客を立ち止まらせるほどの、魅力的な笑顔やかわいらしい容姿なくしては成り立たない商売であった。昔ながらの「かぐわしー、すみれー」(Vʼla la violetʼ quʼembaume)という独特の節回しの売り声も、客を惹きつけた。そして時には、路上で働かざるを得ない子どもたちの貧しくも健気な姿が大人の憐憫を誘い、都市の人々はささやかな援助の手を差し伸べるべくスミレの花束を買うのであった。
フランスでは19世紀にスミレの流行が各都市で広まったようだ。19世紀後半のパリで、スミレの花束を描いたもっとも著名な絵画といえば、エドゥアール・マネによる肖像画《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》(1872)と、自然主義の画家として貧しい子どもたちを主題としたフェルナン・ペレによる《殉教者、あるいはすみれ売り》(1885)であろう。マネが描いたスミレは、彼の美神モリゾに捧げられるべき花であった。スミレは「慎み深さ」の象徴であり、その花言葉は「秘めた愛」など。モリゾの肖像では、当時流行した黒衣の胸元に、スミレの花束というよりも、白と紫色の大まかな筆触が、ファッショナブルなブルジョワ女性にふさわしい「粋な色」として付されている。一方、ペレの作品では、街角でスミレの花束の箱を抱いたまま絶命している裸足にぼろ着姿の少年が、リアリズムの手法で克明に描写されている。スミレは死者を弔う花でもある。路上で息絶えるしかない社会の弱者の化身としてのスミレの花束と、少年の肌に染まる「死の色」としてのスミレ色が、この場面の悲壮感をいっそう強調している。19世紀の当時から、スミレというありふれた野花の飾りは、貧者が生き残るための糧として造作され、富める高貴な者の手に、ロマン主義的、あるいは印象主義的ともいえるひと時の華やぎと心地よい香気をもたらすために、施し程度の貨幣を対価に譲渡された。スミレの花束は、謙虚さと慈愛の美徳を示すシンボルとして流通したのであった。
1959年頃にフジタが描いたこのスミレ売りには、憂いや陰りが微塵も見られない。商魂たくましく自活する現代的な女の子だ。肩に掛けるがま口型のバックには、稼いだ小銭がたっぷりため込まれているのであろう。フジタには、じつはもう一点、スミレ売りの絵がある。30歳の頃、第一次世界大戦中の1917年に手がけたものだ。
そのフジタの水彩画《すみれ売りの少女》(1917)は、ペレが描いたようなスミレの飾りを箱に入れて売る下町の貧しい女の子の肖像であり、無表情で直立する姿は淡く着彩され哀愁に包まれている。1913年に渡仏したフジタは、1917年頃から3年間ほど、祈る女性たちや身を寄せ合う子どもたち、寂寥感の漂うパリ郊外の貧困者たちがいる風景に惹かれて繰り返し主題にした。異邦人フジタの原点となった人々と場所。フジタは第二次世界大戦後、祖国と決別してフランスに戻った1950年代に、それらの記憶に立ち戻りながら、再び自らの画題として向き合った。
「貧乏して居る間は又、非常に楽しいので、貧乏して居る間が一番一生の良い思出(おもいで)になるのであります」(藤田嗣治『巴里の横顔(プロフィル)』1929年発行)
人生の終盤にさしかかろうとしていたフジタが描いたスミレ売りは、画家の同志である自由人であり、かつてこの働き手にかけられた感傷的な憐みを、活き活きと瞳を輝かせつつ跳ねのけているのである。
◇初出=『ふらんす』2017年5月号