第12回 《天才》
『ふらんす』2018年3月号表紙絵
レオナール・フジタ
《天才》
1959年頃
ポーラ美術館蔵
男の子が四つ這いになり、体が自発的に動くままにぺたぺたと絵具で手足の型を画面に付けていく。昨今の幼児向けの創作教室でよく見かけられる微笑ましい光景だ。ただしこの男児は、やんちゃだけが取り柄の腕白坊主ではなく、頭上に掲げられている輝かしい称号のとおり、創作活動に稀有な才能を発揮する「天才génie」なのである。その証左として、壁には実験的な技法による立派な抽象絵画が2枚貼り出されている。これは、新進気鋭の天才画家のアトリエなのだ。
レオナール・フジタ(藤田嗣治(つぐはる)、1886-1968)は、1958年から1959年にかけて、71歳から72 歳の頃に壁画のシリーズ〈小さな職人たち〉を制作した。パリの下町の古き良き時代の職人を見つめ直す、郷愁に満ちたこの連作のなかで、「天才」は例外の作と言えよう。なぜなら本作品においてのみ、フジタは同時代の芸術の動向を眺めやり、己の現代画家としての在り様を独白しているからだ。
1950年代末といえば、抽象絵画の勢力がアメリカ、フランスそして日本でも、画壇を席捲した時代。フジタは1949年、日本からフランスに戻る途中で滞在したニューヨークで、抽象表現主義に遭遇している。この年の大衆誌『ライフ』の8月号は「彼はアメリカで今生きている最も偉大な画家か?」という特集を組み、戦後絵画の革命児ジャクソン・ポロックをセンセーショナルに紹介した。「アクション・ペインティング」の旗手ポロックは床にカンヴァスを広げ、手足をダイナミックに動かしながら絵具を滴らせ、流し込んでいく斬新な技法を戧出。制作中のポロックの野性味あふれる姿を捉えた写真はたちまち世界中に伝播してゆき、そのイメージは型破りな前衛画家のプロトタイプとなった。ポロックは1956年に交通事故でこの世を去り、やがては20世紀絵画の英雄(ヒーロー)、さらには、〝天才〟の伝説が作り上げられることとなる。
同じ頃、ヨーロッパでも絵具の物質性や描き手の身振りを強調した抽象絵画が、絵画の様相を一新させていた。1950年代末には、パリ在住の若き日本人画家、今井俊満、堂本尚郎らの抽象絵画が高い評価を獲得し、日本では「具体美術協会」を巻き込み、「アンフォルメル旋風」が起こっていた。〈小さな職人たち〉は、老境に入ったフジタが、それらの猛威を横目に制作したシリーズなのである。
さて、「天才」とはなにか。フジタは「天才」という題のエッセイに、彼自身が天才である自負を秘することなく、堂々と芸術家論を展開している。「決して他人の模倣眞似事であつてはならぬ」(藤田嗣治『腕(ブラ)一本』1936年)。オリジナリティ重視の教えは、フジタを敬愛し、1954年に「具体美術協会」を設立することになる吉原治良に受け継がれ、この前衛芸術グループの大指針となった。「具体」は1950年代後半には、世界が注目するまでに成長していく。このような世間の動静と関わりなく、フジタはひたすら朝から真夜中までパリのアトリエで戧作に励んでいた。彼の「天才」論は、こう続く。「上手な腕きゝである眞の天才と云ふものは学校位なことでは出来ないのであつて[…]苦労を積み苦労を重ねる程體験が豊富となり智識が複雑になつてやがて大業を起すものとなり」
しかし実のところ、具象画家のフジタとしては、胸中穏やかでなかった。その証として、この連作中に登場する画中画は、いわゆるフジタのスタイルの絵画は1 点も無く、流行中の抽象画ばかりが描かれる。「モデル」のアトリエに掛けられた絵画は、幾何学的抽象─「冷たい抽象」風であり、この「天才」のアトリエでは、抒情的抽象─「熱い抽象」と呼ばれる当世風の絵画が制作中だ。具象画はルーヴル美術館の「監視員」を主題にした画中に、フジタが崇拝するダ・ヴィンチの《モナ・リザ》が模写されるのみ。フジタは1920年代以降、著名な芸術家たちの画風を器用にコピーして「ピカソ風」「ヴァン・ドンゲン風」など、気の利いたパスティーシュとして時折披露してきた。この連作中の抽象画もまた、フジタの腕自慢の習慣に因むものである。
フジタはかくして、新進画家の典型を子どもの姿に託して戯画化した。されどもこの絵は、世間の流行への皮肉や冷笑が込められた嫌味な風刺画ではない。この男の子もまた、フジタのトレードマークの縞柄シャツを着た、愛すべき彼の分身であるからだ。腕白に戧作する将来有望な天才の姿を、老いてなお抽象の実験に挑む天才画家たる凄腕を揮って仕上げた、フジタ流の愉快な遊戯の図なのである。
◇初出=『ふらんす』2018年3月号