第11回 《囚人》
『ふらんす』2018年2月号表紙絵
レオナール・フジタ
《囚人》
1959年頃
ポーラ美術館蔵
レオナール・フジタ(藤田嗣治(つぐはる)、1886-1968)による連作〈小さな職人たち〉では、職人に扮した子どもたちが、商売道具などを手に職場で働く姿が描かれるが、今月の表紙絵は、囚人。孤独のうちに肩を抱えて、厳しく自己と向き合う精神的な活動だけを日課とする、しがない男児の肖像である。罪を犯したのか、それとも濡れ衣を着せられたのか。罪状は知る由もないが、15センチメートル四方の小さな空間の、さらに片隅に置かれ、一点を見つめるこの男の子の肖像は、世間から見捨てられ箱の中で不運を耐えしのぶ子猫のように、哀れにも健気で、なんとも愛くるしい。
粗末な寝台と小便器だけが床に鎮座し、広く取られた壁面には、囚人の黒い影と複雑な心模様が、プラネタリウムの星座図のように天地なく投影される。ざわめきに似た断片的な痕跡で白と黒の壁は覆われ、刻まれた文字や人の横顔、ハートのマークのようなかたちが微かに浮かび上がる。右下のサインとは別に、「Foujita」との書き込みもある。独房には、月明かりがわずかに差し込むのであろう。幾人もの罪人を閉じ込めて生じた無数の傷あとや、積年の不衛生な汚れと湿気による黴が染みついた壁と床板の全貌を、清んだ光が照らし出している。
監獄という抽象的な空間は、フジタのさりげなくも手の込んだ職人技を披露する格好の画題であったのだ、と確信させられる。絵筆だけでなくヘラや尖った道具を駆使し、油彩を幾層にも重ねて、堅牢さと脆(もろ)さのどちらも兼備した壁面を完成させている。連作〈小さな職人たち〉のなかでも、主題と表現がぴたりと合致した、フジタの「貧困の美学」が冴えわたる一枚である。さらにいうなれば、独り苦悩し、壁と格闘して線画を刻む囚人とは、画家という職業のメタファーに他ならない。
獄中の自画像を世に問うた画家の筆頭は、パリ・コミューンで反体制の政治犯として投獄されたギュスターヴ・クールベ(1819-1877)であろう。中庭に面した窓辺に坐り、パイプをくわえる《サント=ペラジー監獄での自画像》(1871-1872)では、露骨なナルシシズムを自画像の制作で貫いたこの画家の不敵な面持ちが、獄中にして健在である。いにしえの監獄には、現代の法律と照らし合わせるならば、不当な理由で閉じ込められた者が大半を占めていた。17世紀のルイ14世治下では、貧民と浮浪者を投獄する政策が実施されている。宗教異端者、思想犯、政治犯、さらに狂人など、社会の埒外に追いやられた老若男女が、公的な牢獄だけでなく、諸機関が設置した私設の牢獄に囚われた。現代社会の多くの国や地域においてもなお、貧困者、表現者、異端者はすぐさま自由を奪われ、劣悪な環境下で拘束される危険と隣り合わせにある。
フジタは〈小さな職人たち〉を私的な装飾画として描き、日記にその日の出来事を思い浮かぶままに記録する所作と同様に、気の向くままに画題を選んでは制作に熱中した。それだけにこの連作は、気負いのないフジタの心の内が反映されている作品群と言えよう。それでは、なぜ囚人なのか。
フジタの妻、君代夫人の回顧録には、「監獄」という言葉が登場する。夫人はその最晩年に沈黙を破り、夫の名誉を守るために公に語り始めた。かつて第二次世界大戦中に戦地に出向いて多くの戦争画を描いたフジタは、戦後の東京で、画家仲間からの誹謗や中傷にさらされる日が続いていた。そのような状況下のある日、フジタは画壇の要職にあった親しい友人から、戦争画を描いた画家の代表として責任を取って欲しいと告げられたという。「あの人は、「いつでも監獄にはいります」ときっぱりと答えたのです。絵を描いたことが良くないのならどのような責任でもとると考えていたのでしょう。その毅然とした姿を今も憶えています」(藤田君代「藤田嗣治 祖国に捨てられた天才画家」『文藝春秋』2006年2月号)。戦後フランスに渡り、フランス国籍を得たフジタは、怒りを露にしながら「日本を捨てたのではない、捨てられたのだ」と、夫人にだけ傷心の感懐を漏らしたという。
画家たちが囚人を主題にするときはいつも、拭い切れない失望を胸に押し込みつつ、決然と生きる孤高の存在を描くのであった。
◇初出=『ふらんす』2018年2月号