第19回 《診療所》
ふらんす2018年10月号表紙絵
レオナール・フジタ
《診療所》
1959年頃
ポーラ美術館蔵
1960年秋号の美術雑誌『別冊みづゑ』では、戦後フランスに渡ったレオナール・フジタ(藤田嗣治1886-1968)の近作と近況を久しぶりに紹介する「藤田嗣治特集」が組まれた。フジタと同じ東京美術学校出身の画家、岩崎鐸(たく)(1913-1988)は、パリ14区にある大先輩画家のアトリエ訪問記を寄稿している。岩崎氏がフジタを訪ねていたのは、1958年頃、〈小さな職人たち〉の制作期の直前だ。「その生活はただ豪華というしか言い表せない程素晴らしいアパートでフジタさん御夫妻は静かに二人きりで王様のように豊かに暮らしておられた」と報告している。
この「パリのフジタさん」と題する記事には、老画家の近影が添えられている。自作の西洋人形を抱き寄せて、目を細めながらその巻き毛に頰ずりするフジタの姿だ。「絵よりも更に情熱を打ち込んでいる仕事に人形製作がある。この日も九分通り完成の、1米近い大きな人形をみせてくれた。その顔もコスチュームも色彩まで全くフジタさんの絵そのままに高雅で美しいものだ。その人形を側に置いてフジタさんは自分の子供か孫のように可愛くて仕方がない感じでじっとその人形をみつめていた」
本作品に描かれる《診療所》の子どもは、真剣な眼差しで人形の関節を診る治療師である。このような光景は、人形と幼女を偏愛するフジタならではのファンタジー、あるいはフェティシズムの産物であると断じるのは拙速に過ぎる。なぜなら人形の修理は、人形の病院(hospital)または診療所(clinic)において、人形の医者(doll doctor)が、高度な修復技術と愛情をもって施術される慣習が、実のところ欧米や日本の人形愛好家の間では常識として浸透しているからだ。人形は魂を宿した大切な家族の一員であり、人間や動物と同等の治療や世話が必要である、という人形愛好家の意識に、フジタも大いに共感していたのであろう。人形の胴体、手足、頭部、髪、洋服、靴と治療道具が雑然と置かれた人形の診療所は、パリの下町の片隅に実在する職人仕事のアトリエを、画家が誇張することなく画に再現したものである。
それにしても、晩年も多作で知られる画家フジタが、絵画制作を上回る情熱を人形製作に注いでいたという岩崎の証言には驚くほかない。フジタが蒐集していた人形は、主に「ビスクドール」と呼ばれる19世紀のアンティークがほとんどであり、晩年まで装飾品として部屋に飾られていた。岩崎の記事の写真でフジタが可愛がる人形は、それらを上回る特別大きなサイズで、胴体や服装までどこまでフジタの自作なのか知る由もないが、装飾品というよりも「生き人形」の類(たぐい)の愛玩品であったと推測される。子どもを主題にした絵画を愛で、人形も自作してこまごまと世話をするフジタの、「子ども」という存在と造形に注いだ愛情と生活ぶりは、破格過ぎて想像を絶する。
フジタの人形製作は青年時代に遡ることができる。当初は自己愛が先行したようで、フジタがエコール・ド・パリの画家として売り出し中の1920年代半ばには、おかっぱ頭に丸メガネの等身大のマネキンをショウウィンドウに飾るなど、自画像の延長として「フジタ人形」をいくつか自作している。戦後にアンティークの西洋人形の蒐集が本格化するとともに人形愛が一層高まった。今月の表紙絵には和装の日本人形も描かれるが、フジタのコレクションにも日本人形が存在したようである。
ジャーナリストでフジタの研究者である近藤史人氏が著した『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(2002)は、著者が画家の遺品調査の際に、日本人形を発見したエピソードをもって、筆舌にし難い感懐とともに締め括られている。「その人形は体長三十センチほどの大きさで、素朴な童女の顔立ちをしていた。若いころから手もとにおいてきたものだろうか、赤い衣装は手垢にまみれ、すり切れてぼろぼろになっている。その日本人形の胸には、フランス政府から授与されたレジオン・ドヌール勲章がしっかりと縫いつけられていた」。フジタはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章──1925年にはシュヴァリエ、1957年にはオフィシエ──を受章している。フジタはこの日本人形に自己の誉れを託した。物言わぬ童女の人形は、いわばフジタの魂を継ぐ直系の遺族である。画家の積年のさまざまな想いもまた、その小さな体に封じ込まれているのであろう。
◇初出=『ふらんす』2018年10月号