第13回 《パン屋》
ふらんす2018年4月号表紙絵
レオナール・フジタ
《パン屋》
1958年
ポーラ美術館蔵
「フランス人は、実にパンをよく食ふ国民である。従って、製パン術も、他の国よりは発達して、フランスの細長いパンは世界一だと云はれてゐる」(藤田嗣治「パン屋」『巴里の横顔(プロフィル)』1929年)。レオナール・フジタ(藤田嗣治(つぐはる)、1886-1968)の戦後の絵には、バゲットを抱える少女像が繰り返し描かれた。「パン屋は、又菓子屋をかねてゐて、キャラメルとか、日本の謂ゆる西洋菓子をたくさん並べてゐる」。なるほど、「パン屋boulangerie」の文字が上に、「菓子屋pâtisserie」が下に書かれている。パン職人も菓子職人も、今日なおフランスが世界に誇る職業だ。
1958年9月4日、フジタは、連作〈小さな職人たち〉に着手している。その3日後、イタリアのヴェネツィア国際映画祭では、『無法松の一生』(1958、監督:稲垣浩)が金獅子賞(グランプリ)を受賞した。未亡人役を演じて栄誉に浴した女優の高峰秀子(1924-2010)は、祭典に参加後、懐かしいパリでの生活を拠点にして、夫の松山善三とともに、フランス、イタリア、ドイツ、スペインの都市を6 か月間巡った。高峰にとってのパリは、1951年、彼女が27歳を迎えた年に、日本の映画界と距離を置くために単身滞在し、心身ともに健康を取り戻して、人生の再出発を成し得た心の故郷である。
高峰は、最初のパリ滞在中にフジタと知り合い、この2度目の長期滞在中に交流を深めた。フジタが〈小さな職人たち〉を制作していた1958年9月から翌年4月は、高峰の滞欧期とおおむね重なる。高峰には日記の習慣はなかったが、長期の新婚旅行にあたる記念すべきこの休暇中は、例外として日記を綴った。この帳面は歿後に発見されて、随筆集『旅日記 ヨーロッパ二人三脚』(2013)として出版されている。高峰の日記とフジタの日記(未公刊)とを並べて読むと、パリを舞台にした二人のプライベートな生活と空間に接するだけでなく、街の様子や日本人コミュニティの動静など、1950年代末のパリを、二つの異なる視座からパノラマ的に見渡す感覚を味わうことができる。
フジタと高峰のなによりもの共通点は、食いしん坊であったことであろう。記録魔と名高いフジタの日記帳には、日々の制作と諸事の記録、感想とともに、食べたものが詳細に列挙されている。この頃は、朝、なじみのパン屋に行き、クロワッサンやブリオッシュを時折買っていた様子。フジタ家の食卓には洋食も上るが、自ら魚屋で買い付けた鮭や鯛を焼いたの、松茸ご飯、おひたし、煮物、奈良漬け、天ぷらそば、しるこなど、和食の献立が目立つ。高峰の日記には、旅先のレストランでの豪華な食事から、カフェにホテルの朝食のパンをこっそり持ち込んで食べたという、女優らしからぬエピソードが綴られる。旺盛な好奇心と歯に衣着せぬ率直な物言いを執筆に活かして、高峰はのちに食に関する名エッセイを世に出している。
71歳のフジタと34歳の高峰は、ともにユーモア好きな性格と、生真面目な職人気質で意気投合した。高峰がパリ滞在中で「一番楽しかったのは画伯のアパルトマンでの食事」。フジタは高峰と松山を14区の自宅に招いて、カレーライスや豚汁をごちそうし、この部屋の壁に完成しつつあった連作〈小さな職人たち〉と同じ作風で、高峰に請われて子どもの姿のかわいらしい「お秀」と「お善」の肖像画を描いて贈っている。フジタは夫妻に「ヘチャプリ」というあだ名で呼ぶように命じ、フジタの晩年まで手紙や訪問により親交を深めた。画家の歿後、高峰は次のように回想している。
「あんなに日本人である(というのはヘンだけれど)日本人を、私は見たことがない。家の地下室にはいつも1年分の味噌や醬油のタルが並んでいたし、会話にも手紙にも「ミツバとワサビ」が食べたいの「セリのおひたしと鮭の一塩」がどうの、と必ず日本の食べものが登場した。私はいつか、ヘチャプリの最後の仕事になったランスの教会を訪ねたい。そしてそのときは、ヘチャプリの好きだった木の葉の焼印のある葬式マンジュウを持っていこうと思っている」(高峰秀子『つづりかた巴里』1979年)
フジタは絵画にパンを描いたが、高峰への絵手紙にはまんじゅうを描き込んだ。彼にとっての究極のソウルフードとは、このふたつの素朴な食べものに相違ないだろう。
日本人を代表する画家と女優としてそれぞれの職業(プロフェッション)を極めながらも、故国の業界とは一定の距離を必要とし、パリを故郷としたフジタと高峰。「食べもの」と「職業」に対する二人の熱い思いが共鳴し合い、同志の絆が結ばれた。
◇初出=『ふらんす』2018年4月号