第3回 《仕立屋》
『ふらんす』2017年6月号表紙絵
レオナール・フジタ
《仕立屋》
1959年頃
ポーラ美術館蔵
手先が器用で自分の服だけでなく、ときには妻の衣服も手作りした画家フジタ。晩年に暮らしたパリ郊外のヴィリエ=ル=バクルのフジタの家では、室内を飾る布製の装飾品や雑貨のほとんどが、縫物好きのフジタの「手芸」による作品であった。シンプルなボーダー柄からフランスの伝統的なプリント文様の布地、さらに世界各地を旅した先で買い集めた布地のエキゾティックな色と柄がフジタの好みによってブレンドされた住空間。煙草をくわえて愛用する足踏み式ミシンをカタカタと動かし、絵画制作と平行して裁縫にも腕を振るった。
陸軍軍医総監を父に持つフジタが針と糸を手に取るようになったのは、1913年の渡仏以降、パリで独り暮らしを始めてからのことであろう。翌年には友人の画家である川島理一郎とともに、古代ギリシア文明への興味から自給自足の生活をパリの北東にあるモンフェルメイユという村で試み、ギリシア風衣装の制作のため機織りにも手を染めている。第一次世界大戦中の1916年にロンドンへ疎開した折には、セルフリッジ百貨店に裁縫師として勤め、英国流テーラーの裁縫技術を身につけた。「流行衣装のデザインをする事と、それを実際に仕立上げる事は、愉快な事に違ひなかつた」(藤田嗣治『巴里の横顔(プロフィル)』1929年)、さらに「芸術家は宜しく芸術品を身に纏うべしという考え」(藤田嗣治『巴里の晝と夜』1948年)にフジタは至る。
私が勤めるポーラ美術館には、針山を膝の上に置き、裁縫に勤しむフジタの《自画像》(1929年)がある。画家の自画像において裁縫姿が選ばれることは、フジタの他は皆無であろう。1920年代から30年代にかけて、艶やかな黒髪を切りそろえたヘアスタイルに丸メガネ、自作の奇抜な服に身を包んだ日本人フジタの目を引く容姿は、パリの画壇と社交界で最大の宣伝効果を発揮した。パリの仮装パーティでオリジナルのドレスに身を包んだ女装姿で現れては人気を博し、「フーフー Foufou」の愛称で親しまれたフジタ。乳白色の下地に繊細な線で描く裸婦像だけでなく、上流階級の婦人たちをモデルに、最新流行の色あざやかなドレスを着せてファッション・プレートのように華やかに仕上げた肖像画も同じく成功を収めていた。
第二次世界大戦後にパリのしがない働き手たちを描いたフジタの連作〈小さな職人たち〉には、ファッション関連の職人が幾人か登場する。《コルセット職人》《帽子屋》《マヌカン》など。今月の表紙《仕立屋》では、縞の水着姿のいかにも快活な客が鏡の前に立ち、生真面目な仕立屋に胴回りを計らせている。外国やフランスの地方からパリに上京してきた客の立身出世の野心が成就するか否かは、この仕立屋の腕次第といっても過言ではなかった。スーツの新調はかなりの高額の費用を要し、客と仕立屋のどちらにとっても、採寸、そして生地とスタイルの見立ては真剣勝負であった。
では、なぜこの客は縞模様の水着姿なのか。それはフジタの過去の記憶の中では、最新のファッションを自らリードした輝かしい「狂乱の時代」の舞台の一つが、1920年代後半のドーヴィルの海水浴場であったからなのであろう。フジタは洋服だけでなく、水着にもこだわりをもっていたようだ。
「海水浴も一種の、芸術品を見せる場所と心得ているから、かたちのいい人でなければ裸になれない。海水着にしても、醜いものをさけるために、ずいぶんと高価なものを着る様になる。僕の海水着なども、四百円位する」(藤田嗣治『巴里の横顔(プロフィル)』)
当時、日本の小学校教諭の初月給が50円程度であるから、400円の水着は燕尾服にも匹敵する一張羅であったはず。1927年にフジタがドーヴィルに滞在した際には、小粋なスーツ姿と水着姿、そして奇抜な柄の布地で自ら仕立てたセットアップ姿で脚光を浴びた。フジタによれば、彼が砂浜にいるだけで集客効果があるので、ノルマンディ・ホテルがパトロンとなり、無償で連泊させてくれたという。《仕立屋》に描かれた水着姿の客も、採寸に余念のない仕立屋の職人も、かわいらしい男児の姿で表わされたフジタの分身であろう。身に纏うものすべてが芸術品であるべしと唱える、パリにおけるフジタ流の立身揚名の心得が図解された絵画である。
◇初出=『ふらんす』2017年6月号