白水社のwebマガジン

MENU

「歴史言語学が解き明かす韓国語の謎」辻野裕紀

第23回 字母の名称

Q:子音字母ㄱの名称はなぜ기윽ではなく기역なのでしょうか。

A:現在では、기역、니은、디귿、리을、미음…のように、ハングルの子音字母には一つひとつ固有の呼称が与えられていますが、世宗が15世紀中葉に訓民正音=ハングルを創制したときにはまだこうした名前はなかったものと考えられています(注1)。기역、니은、디귿、리을、미음…といった字母名が初めて文献上確認されるのは、1527年に崔世珍が著した漢字の学習書『訓蒙字会』においてです。同書の凡例には「諺文(注2)字母」の解説項目があり、そこにハングルの字母の名称が漢字で書かれています。
 具体的には、まずㄱ、ㄴ、ㄷ、ㄹ、ㅁ、ㅂ、ㅅ、ㅇ(注3)の8字について、「ㄱ其役 ㄴ尼隠 ㄷ池末 ㄹ梨乙 ㅁ眉音 ㅂ非邑 ㅅ時衣 ㅇ異凝」の如く、その名称が記されています。これらは初声字と終声字のいずれにも使用されることから(かかる字母を「初声終声通用字」と呼びます)、おのおのの字母について漢字2字が宛がわれ、一文字目は初声、二文字目は終声を示しています。例えば、ㄴは「尼(니)」で初声のㄴ、「隠(은)」で終声のㄴを表していたことが見て取れます。ㄹ(梨乙 리을)、ㅁ(眉音 미음)、 ㅂ(非邑 비읍)、ㅇ(異凝 이응)についても同断です。
 一方で、「ㄷ池末」と「ㅅ時衣」に関してはさらなる注釈が必要です。「ㄷ池末」の「池」が디を表していたことは著明ですが(注4)、「末」の字音は말であって귿とは読みませんね。実はこれは漢字の音ではなく訓を借りた表記です。「末」に相当する固有語は귿(現代語では끝)ですので、「池末」と書くことで디귿と読ませたのです。朝鮮漢字音ではㄷで終わる漢字が存在しないため(注5)、やむを得ずこのような表記を採ったものと思われます。なお、実際の文献上では訓読みであることを示すために「末」は〇で囲まれています。
 「ㅅ時衣」の「衣」についても同様です。「衣」の漢字音は의ですが、ここではその訓を借りて옷と読ませることで、終声のㅅを示しています。朝鮮漢字音ではㄷのみならずㅅで終わる漢字もありませんので、읏に音が最も類似していると判断された固有語の옷が選ばれたわけです。「衣」も文献上では〇で囲まれています。
 そして、お尋ねの기역についても、崔世珍は윽と読みうる表記を用いたかったのでしょうが、윽という発音の漢字もなければ固有語もないために、「其役」の如く、終声を表す部分は윽に比較的音形が近い漢字「役(역)」を致し方なく使ったのです。
 このように、기역、디귿、시옷といった一見不規則な名称は、『訓蒙字会』における名づけを現代でもそのまま踏襲していることに由来します。北朝鮮(共和国)では기역、디귿、시옷ではなく、기윽、디읃、시읏という一貫性のある呼び名を採用していますが、韓国では中世語の伝統を今日に至るまで維持しているとも言えます。
 
 なお、『訓蒙字会』において、初声字としてのみ使われる字母(初声独用字)については、「ㅋ箕(注6)ㅌ治 ㅍ皮 ㅈ之 ㅊ歯 ㅿ而 ㅇ伊(注7)ㅎ屎」のように名称が記されていました。このことから初声独用字はそれぞれ키、티、피…のように称呼されていたことが確認できます。現代語ではㅋやㅌ、ㅍなども終声字として用いられますが、中世韓国語においてはこれらは初声字としてしか使用されなかったため、かくして文字の名前には初声としての発音のみが刻まれたのです。

 ちなみに、現代におけるㄱ、ㄴ、ㄷ、ㄹ、ㅁ…という子音字母の配列順序も、『訓蒙字会』に概ね依拠しています。如上の通り、同書の子音字母はㄱ、ㄴ、ㄷ、ㄹ、ㅁ、ㅂ、ㅅ、ㅇ、ㅋ、ㅌ、ㅍ、ㅈ、ㅊ、ㅿ、ㅇ、ㅎの順で、とりわけ現代と大きく異なるのはㅈ、ㅊの位置ですが、これは初声終声通用字をまず先に配するという『訓蒙字会』の方針に起因するものです。そして、その次第を「初声終声通用字(ㄱ、ㄴ、ㄷ、ㄹ、ㅁ、ㅂ、ㅅ、ㅇ)」と「初声独用字(ㅋ、ㅌ、ㅍ、ㅈ、ㅊ、ㅿ、ㅇ、ㅎ)」とに大別して見てみると、基本的にそれぞれ牙音、舌音、唇音、歯音、喉音という調音点ごとの並び方になっていることが分かります。
 日本語の五十音図も梵字などの影響を受けつつ音声学的に合理的な配置になっていますが、韓国語の反切表も極めて精緻に作られているということがこうした歴史言語学的な知見を通して見えてくるのはとても愉しいことです。

 

(注1)『訓民正音諺解本』(1447年頃に作成されたものと推定され1459年刊の『月印釈譜』巻頭に収められた原刊本が現在に伝わる)には、例えばㄱの解説において「ㄱnʌn」《ㄱは》のような説明がありますが、これはおそらく「kinʌn」と読まれていたものと推測されます。また、大韓帝国期に刊行された『大韓文典』には、그억、느은、드읏、르을、므음…といった呼称が見えます。
(注2)第7回でも述べたように、「諺文(おんもん/げんぶん)」とはハングルのことです。『朝鮮王朝実録』などの文献においては、長らく「諺文」という言い方が最も一般的だったようです。
(注3)[ŋ]を表す옛이응。ただし、ㅇの名づけに使われた漢字「異」は疑母字ではなく喩母字であり、このことは伝来字音では[ŋ]が初声に立つことはなかったことを意味します。第21回もご参看ください。
(注4)「池」の現代の朝鮮漢字音は지ですが、当時はまだ口蓋音化以前の段階であり(口蓋音化については第13回を参照)、「池」は디と発音されていました。
(注5)朝鮮漢字音において、中国語の-t入声がㄹで受容されていることについては、第19回で言及しました。
(注6)「箕」は実際の文献上では〇で囲まれており、「末」や「衣」と同様に、訓読みで読まれていたことが分かります。
(注7)「伊」は本来影母字ですが、この時代にはもはやㆆ(여린히읗)は使われなくなっていました。

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 辻野裕紀(つじの・ゆうき)

    九州大学大学院言語文化研究院准教授、同大学大学院地球社会統合科学府言語・メディア・コミュニケーションコース准教授、同大学韓国研究センター副センター長。東京外国語大学外国語学部フランス語専攻卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。誠信女子大学校人文科学大学(韓国ソウル)専任講師を経て、現職。専門は言語学、韓国語学、音韻論、言語思想論。文学関連の仕事も。著書に『形と形が出合うとき:現代韓国語の形態音韻論的研究』(九州大学出版会、2021年)など。2025年度前期NHKラジオ「まいにちハングル講座」講師。
    (写真:©松本慎一)

フランス関連情報

雑誌「ふらんす」最新号

ふらんす 2026年6月号

ふらんす 2026年6月号

詳しくはこちら 定期購読のご案内

白水社の新刊

「ふらんす」100年の回想

「ふらんす」100年の回想

詳しくはこちら

白水社の新刊

フラ語入門、わかりやすいにもホドがある![決定版](音声DL付)

フラ語入門、わかりやすいにもホドがある![決定版](音声DL付)

詳しくはこちら

ランキング

閉じる