第5回 パリふたたび 1981年秋ー1982年春
「つつがなく、マリニエ通りにお着きになったことと思います。まもなくパリでまたお会いするの楽しみにしています」――そういう書き出しのお手紙をいただいたのは、パリについて1週間目、10月23日のことでした。Petite Plaisance訪問のあと、ボストン、ノーサンプトン、ワシントンと回り、10日ほどの日々をアメリカですごしたので、私のパリ到着は10月なかばだったのです。
ノーサンプトンはボストンの西140キロ、マサチューセッツ州の内陸部にあります。長距離バスを乗り継いでそこまで足をのばしたのは、旧知のオーギュスト・アングレスさんに会うためでした。この町の名門女子大学スミス・カレッジに客員教授として招かれていたのです。スミス・カレッジはあなたもよくご存知の大学でした。1961年、他にさきがけてあなたに名誉博士号を授与した大学でしたから、キャンパスは秋の色に美しく彩られているだろう、みごとな美術館があるからぜひ見せてもらうといい――あなたはそう勧めてくださいました。
お手紙の発信地はイギリス南西部の古都ソールズベリー。イギリス滞在中、何日か休養の日々がとれるときなど、あなたが好んで赴いた町でした。私がPetite Plaisanceを辞去した3日後、あなたもジェリーとともにモン・デゼール島をあとにし、ニューヨーク経由でヨーロッパに向かったのでした。あなたにとってその年の旅は、アメリカに移り住んでいらい14回目のヨーロッパ行き、ジェリーを伴っての旅は2度目とのことでした。それだけ何度も大西洋を渡っていながら飛行機を使ったことは一度もなく、あなたの旅はつねに船旅でした。あの年もニューヨークでクイーン・エリザベス2世号に乗船、5日間の航海ののちサウサンプトンに到着、そこから北西にわずか30キロのソールズベリーに直行なさったのでした。
淡いベージュ色の便箋に大きくThe Rose and Crownと印刷されたレターヘッドを見て、ある懐かしさを覚えました。「薔薇と王冠」という、いかにもイギリスらしい名前のそのホテルは、この町でのあなたの定宿でしたが、数年前私も立ち寄ったことがあったのです。話はまたしてもラルボーのことになりますが、彼の足跡を求めてイギリスの中西部を周遊したことがあり、その途中でここに立ち寄ったのでした。私がソールズベリーに足を向けたのはラルボーとの関連ではなく、ストーンヘンジが近かったからですが、このあたりには彼が作品の舞台にしたり、詩に詠んだり、長時間滞在したりした町や土地が多いのです。とりわけ彼が博士論文のテーマにしようと考えていたウォルター・サヴェッジ・ランドーの故郷ウォリックや、その隣町といってもいいロイヤル・レミントンスパーなど。論文は結局書かれませんでしたが、1910年代にイギリスで送った日々がラルボーの作品に豊かな彩りを添えていることは誰にも否定できません。
「薔薇と王冠」荘はソールズベリーの南、ほんのすこし町を出はずれたあたり、エイヴォン川のほとりに建っていました。私が立ち寄った日は残念ながら満室でしたが、さいわいパブが開いている時刻だったので一息入れたのでした。あまりにも古色蒼然という感じだったので、いつごろの建物なのか訊ねてみたところ、13世紀という返事でした。ソールズベリーは初期イギリス・ゴシック様式の典型として有名な大聖堂のある町なのですが、多くの画家が描いたその聖堂と同時代の建物だったわけです。客室のほうは新しい木造の2階建てで、川沿いの美しい庭もあり、対岸の牧場もふくめて、まさしく牧歌的な風景を作りなしていましたが、満室なのがとても残念でした。
先史時代の巨石文明を代表する遺跡ストーンヘンジは、ソールズベリーの北15キロほどのところにあります。4000年前、あるいはもっと古いものと考えられるこの環状列石は多くの謎に包まれています。誰がどういう目的で造ったのか、諸説紛々というしかなく、死者のための祭祀場なのか、太陽崇拝に関わる遺構なのか、それとも星々や太陽の動きを探る天文台なのか、いまもって確かなことはわかっていません。
遺跡といえば、ローマ近郊のヴィラ・アドリアーナについて、あなたが「遺跡として傷んでいる」という面白い言い方をなさったのを思い出します。そこはあなたが1924年にはじめて訪れ、のちに『ハドリアヌス帝の回想』となる作品の着想をえたところですが、そういう言い方であなたが言おうとしたのは、遺跡が遺跡として本来あるべき姿が不適切な修復工事によってそこなわれているということでした。1950年代に執筆なさったエッセー「時、この偉大な彫刻家」のなかで、あなたは人体彫刻の例をとりあげ、〈補綴〉された彫像の醜さを語っていますが、遺跡についても同じ感想を抱いておられたのだと思います。その点、ストーンヘンジは「傷んでいない」遺跡であり、あなたが休養地として好んでソールズベリーを選んだ理由のひとつは。この遺跡の存在にあったのにちがいありません。
あの年、あなたのパリの宿はリュニヴェルシテ通りのホテルでした。ガリマール家の人々の住む館の筋向かい、いかにも旧貴族街にふさわしい風格のある静かなホテルでした。10月下旬の到着からその年の暮れまでパリにとどまったあと、あなたは新年早々ジェリーをともなってイタリア、ギリシア、エジプトへの旅に出られたのでしたが、秋から初冬にかけての2か月あまりのあいだ、あなたは私に何度声をかけてくださったことでしょう。到着後まもなく親しい人々を招いてホテルで開かれたレセプション、ガリマール家の晩餐会、あなたがアカデミー・フランセーズの有力な会員候補と考えていらしたエチアンブル教授への訪問、バレエの夕べなど、ことあるごとに私を誘ってくださいました。翌年に予定されていた日本滞在の予行演習のようなつもりもあって、私のほうから、オペラ座通りの日本料理店にお招きしたこともありました。
なかでも忘れがたいのは、クロード・ガリマール夫妻宅の晩餐会です。私を会食者に加えるよう、あなたが夫妻に話してくださったのにちがいありません。その晩はまず私がホテルにあなたを訪ね、ご一緒にガリマール家に向かったのでした。あの日ジェリーはなぜか姿を見せませんでした。道々――とは入っても街路を斜めに横切ればそこがももう目的の館でしたから、ほんの2、3分でしたが――あなたが話してくださったことのひとつは、ガリマールの館がその昔タレーランの屋敷だったということでした。その名前を「ターユラン」と発音していらしたのを思い出します。ものの本によればウィーン会議の立役者をナポレオンも同じように呼んでいたとか。
18世紀に建てられていらいおそらく外観は変わっていない屋敷の構造は、私にとってとりわけ興味深いものでした。というのもそれは、プルーストが『ソドムとゴモラ』や『見出された時』で描写したゲルマント公爵やゲルマント大公の屋敷を彷彿させるものだったからです。街路から中庭に通じるアーケードの下の凹凸の敷石――話者は後ろから入ってくる馬車を避けようとして敷石につまづきます――、中庭の左側、玄関ホールに通じる3段ほどの階段など。なかに入ってホールから2階に通じる広くゆるやかな階段、それは、この文芸王国の創設者ガストン・ガリマールの時代いらい、20世紀のフランス文学を形作る数多くの作家たちが上った階段でした。ジッド、クローデル、マルロー、モンテルラン、サルトル、カミュ……。
その階段はまた、20数年前、私が逆の方向から見下ろしたことのある階段でもありました。私の最初の留学は、私をプルーストの世界に導いてくださった井上究一郎先生のフランス滞在と重なっているのですが、その時先生がお住みになったのはこの館のなかであり、先生をお訊ねしたある日、廊下の端の扉を開けて下の階に通じる階段を見せてくださりながら、昨日この階段でカミュとすれちがったんですよとおっしゃったのを思い出します。先生が『聖歌隊の少年』の訳者として親交のあったエチアンブル教授は、かつてガストン・ガリマールの甥ミシェルの家庭教師を務めた人と聞いており、先生にこの館の一室が提供されたのは教授の配慮のおかげだったにちがいありません。ミシェル・ガリマールは1960年1月南仏からの帰途、パリまであと60キロのところで起こった自動車事故のときハンドルを握っていた人であり、カミュと運命をともにしたのですが、それらの人々を白い糸で結んでいたにちがいない運命の絡みあいを考えると目まいを覚えずにはいられません。エチアンブル教授は、留学時代ソルボンヌの大教室で中国とフランスの思想的・文学的交流に関する講義をうかがったことのある先生でした。李白や杜甫はまだしも、中国の数多くの詩人や思想家の名前をフランス式に発音されるので、誰のことを話しておられるのかまったく見当もつかず往生した思い出があります。また黒板に漢字を書きながら、居並ぶ学生のほうを振り向いて、「もしこの教室に日本人の学生がいたら、書き順には目をつむってくださいよ。正しくないことはわかっているので」とおっしゃったのも懐かしい思い出です。そのエチアンブル教授をあなたとご一緒にお訊ねする機会に恵まれようとは、思っていませんでした。
円いテーブルを囲んで8人ほどの親密な雰囲気の晩餐でした。私の席はガリマール夫人の右側、つまりは主賓のひとりなのでした。あなたが第一の主賓としてガリマール氏の右側だったのは当然ですが、食事の途中あなたの周囲の人々がちょっとざわめくというか、感嘆の声をあげたことがありました。もちろんそれはあなたが話されたことへの反応だったのですが、私のほうはちょうどそのとき右隣りのご婦人と話し込んでいたので、真向かいのあなたがなにをおっしゃったのか、はっきりとは聞きとれませんでした。自慢話めいてしまうので、いままで誰にも話したことがないのですが、わたしにとってはやはりある誇りを感じさせる挿話なのでこの際思い切って書いておこうと思います。かろうじて耳に入ったあなたの言葉尻と、小さなざわめきのなかで私に注がれた人々の眼差しから考えて、そのときあなたがおっしゃったのは、予定していた日本への旅を翌年にのばすことにした理由だったのだと思います。「私が日本にもっている最良の友が、1年間フランスにくることになったので、その留守に訪れるのは残念なので」とおっしゃってくださったのでした。
あの日の感激を書き送ったアングレスさんには、あとでたしなめられることになるのですが(そのわけはいずれ書き記すつもりです)、館のNRFの歴史、プルーストへの連想、友情あふれるあなたの言葉などもふくめて、あの日の晩餐はいまもなお忘れがたい記憶として残っています。(つづく)
◇初出=『ふらんす』2000年8月号