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岩崎力「敬虔な思い出たち マルグリット・ユルスナール」

第11回 京都へ

 10月31日ふたたび東京を離れ、今度は京都へ向かいました。トランクやスーツケースが7、8個と荷物が多く、新幹線を利用するわけにいきませんでしたから、レンタカーでの移動になりました。普通免許で運転できる最大級のワゴン車のハンドルを握るのはそれがはじめてでしたし、おまけに同乗者があなたとジェリーというのですから不安を覚えずにはいられませんでしたが、東京駅から高輪のホテルまで、練習区間のつもりで慎重に走りました。東名高速を突っ走るのでは面白くないので、途中最低2泊のつもりで、ゆっくり中仙道をたどることにしたのでした。

 ホテルを出たのが10時、最初に立ち寄った河口湖までは中央高速を走りました。湖畔に車をとめ、水面に映る逆さ富士もふくめて富士山の眺めを楽しんだあと、ごく普通の食堂で昼食をとりました。さいわい雲ひとつない晴天で、紅葉にはすこし早かったとはいえ、うっすらと冠雪した富士の姿はみごとというしかなく、「霊峰」という言葉が自然に思い浮かびました。甲府に向けて国道を走りだしたとき、「日本の象徴として富士山が第一にあげられる理由がよくわかりました」とあなたがおっしゃったのを思い出します。

 1日目の宿は中津川の郊外のホテルに予約してありました。島崎藤村ゆかりの馬籠宿が近いので、すこし戻る形でしたが立ち寄りました。藤村が日本近代詩の創始者であり、第一次世界大戦の前後にはフランスに滞在したこともある作家であることなど、車のなかでいろいろ申し上げたのでしたが、あなたにとっては未知の人だったのでしょうか、それともあの村の坂道がご自分の足にはきつすぎると思われたのか、車を降りようとはなさいませんでした。15年ほど前にはじめて訪れたときには一軒もなかった喫茶店が道沿いに何軒かできていて、昔のままというわけにはいかないにせよ、木曽路の古い宿場の雰囲気を味わってほしかったのです。中津川に向かって下っていく旧街道をたどったのはジェリーと私のふたりだけでした。いま思えば、すくなくとも藤村記念館にはご案内すべきだったかもしれません。彼の蔵書の一部が保存されており、かなりの部分がフランス語の原書なので、それをご覧になったら、あなたにも藤村への関心が生まれたかもしれないと思うのです。

 中津川のホテルは町外れの淋しいところにあり、たどり着くのに少々苦労しました。6時ごろでしたが、あたりは真っ暗で、ところどころ電柱にとりつけられた案内板を頼りに道をたどらなければならなかったからです。

 あの宿で印象的だったのは、玄関で出迎えた従業員たちのあなたに対する反応でした。敷居をまたいだあなたを見た瞬間に、彼女たちのひとりが「あ、この人は偉い人だ」と言ったのです。日ごろ大勢の客に接している人が、自然に身につけた勘だったのでしょう。率直というか素朴というか、直裁な反応でした。夕食を運んできたとき、言葉の通じる唯一の客であった私に、「どういう人なんです?」という質問が投げかけられました。女中さんのひとりは豪快というしかないような人で、私の説明にうなずきながら、心から嬉しそうに大きな口を開けて「アハハ」と笑い、「やっぱりね、きっとすごい人なんだと思っていたんですよ」と言ったのでした。一瞬あっけにとられた表情を浮かべたあなたでしたが、私が彼女とのやりとりを説明すると、あなたの顔もいかにも嬉しそうな笑顔にかわったのを思い出します。あの宿の印象はあなたにとっても強烈だったようです。日本滞在の最後に訪れた広島のホテルで、3か月におよんだ日本滞在を総括するようなつもりで交わした対話の録音が手元に残っているのですが、そのなかで私が中津川の女中さんたちに言及したときのあなたの目の輝きは、忘れがたい思い出です。

 翌日、恵那峡の景観を楽しんだあと犬山城に立ち寄りました。城の北を流れる木曽川の眺めがすばらしく、あなたにもぜひ見てほしいとおもったのです。それに、天守閣の残る城全体がいまなお個人の所有にかかるという例は、ほかにあまりないと思いますが、その「城主」が、大学院時代に大正文学を教えていただいた成瀬正勝先生であったことも、あなたを犬山にお連れしたいと思った理由のひとつでした。

 名古屋は素通りして伊勢まで走りました。2日目は宇治山田の老舗の旅館に予約を入れてあったのですが、そこでも中津川の宿と同じようなことが起こりました。夕食のテーブルをととのえた女中さんたちが、まっさらな色紙を準備してきて、なにか書いてほしいとあなたにねだったのです。さすがに硯と筆の準備まではありませんでしたから、あなたは愛用のフェルトペンで2行ほどの文章を書き、署名を添えたのでした。ジェリーと私まで余白にサインさせられたのを思い出します。50歳代のベテランの女中さんたちでしたが、あの色紙はいま誰の手で、どんなふうに保存されているのでしょうか。

 宇治山田の宿は「佐伯館」という名前の旅館でしたが、予定を延ばして2泊することにしました。11月2日が伊勢神宮の参詣にあてられたのはもちろんですが、鳥羽や賢島もぜひ案内したかったからです。

 伊勢神宮の森については、「なにごとのおわしますかは知らねども……」という西行の有名な和歌がありますが、あなたもあの境内の « génie »に反応する感覚の持ち主だったと思います。すでに言及した『牢獄巡回』に「聖なる森と秘められた庭」という文章が収められており、あなたは日本滞在中に訪れた数多くの神社仏閣をあげておられます。中尊寺、瑞巌寺、泉岳寺、龍安寺、金閣、銀閣、苔寺、平等院、大神神社、厳島神社など。それらのなかでも、あなたが最初にあげたのは伊勢神宮でした。隣り合った敷地に20年ごとに建て替えられる神殿以上に、あなたがより敏感だったのは、境内にそびえる木々のかもしだす雰囲気だったように思います。菊の季節でしたから、境内では品評会も催されていましたが、人の業を強く感じさせる菊の造形よりも、あなたを強く打ったのはあの木立のたたずまいでした。

 鳥羽と賢島は、いうまでもなく真珠の故郷です。しかしあなたが真珠などに興味を持っておられるとは思えませんでしたから、私が予定を延ばしてまで英虞湾の散策にこだわったのは、あくまでも風景のためでした。「パール・ロード」と呼ばれる観光ロードを賢島まで走りました。真珠の養殖筏の浮かぶ入江を見下ろすホテルで一息いれたあと、二見が浦を訪れました。しめ縄に結ばれたふたつの岩のあいだの初日の出が、日本人にとっては富士山におとらぬ「原初の風景」なのだと説明しました。

 翌11月3日は、いよいよ京都をめざす日でした。朝早く「佐伯館」を出た私たちは、まず最初に芭蕉の故郷、伊賀上野を訪れることにしました。城のそばに芭蕉の生家があるのですが、不思議なことにあなたはその生家を訪れることに関心を示しませんでした。私としてはいささか残念でもあり、理解しがたい反応でもありましたが、反面、詩的表現の生み出す世界を忠実に守りつづけようとする執念のなせる業なのかとも思いました。私はあの日が「文化の日」と呼ばれる祭日だったことを忘れていたのかもしれません。京都に向かうのにまず奈良を見てからと考えたのは、とんでもない間違いでした。近づくにつれて渋滞がひどくなり、興福寺、東大寺、唐招提寺、薬師寺など、あらかじめ考えていた寺院の見学はとうてい無理だとわかったからです。

 のろのろ運転がどれほどつづいたでしょうか。ようやく北に向かう道にたどり着いて、私たちは京都を目指しました。途中の宇治で平等院を訪れる余裕はなく、部屋を予約していた蹴上の都ホテルに急ぐしかありません。

 あなたの作品のをはじめて日本語に翻訳した多田智満子さんが、都ホテルにあなたを訪ねてこられたのは、あの翌日だったでしょうか。私自身あなたの存在を知ったのは多田さんの『ハドリアヌス帝の回想』の翻訳を通じてでした。ギリシアを愛する詩人である多田さんが、あなたをはじめて日本に紹介する訳者であったことは、あなたにとってこの上ない幸運だったと思います。多田さんはそれまであなたとの個人的接触を持っておられないようでした。それはいかにも残念に思えましたから、あらかじめ多田さんに連絡し、都ホテルでの対面をアレンジしたのでした。

 あのとき私は都ホテルに一泊しただけで東京に戻りました。というのも同じ年の秋、日本学術振興会の招きで来日していたオーギュスト・アングレスさんの滞在と、あなたのそれが重なっており、11月4日に東京日仏学院で彼の講演が予定されていたからです。アングレスさんは当時ソルボンヌの特任教授として20世紀前半のフランス文学、とりわけ「NRF(新フランス評論)の初期の歴史」の専門家として誰もが認める第一人者でした。私がはじめてのフランス留学から帰った時は東京日仏学院院長という職にあり、私を秘書として採用してくださった人にほかなりませんでした。ましてやその講演のテーマがプルーストとあっては、欠かすわけにはいきませんでした。

 私が東京で授業その他の仕事に追われているあいだ、三島夫人やジュン・シラギ氏があなたの京都滞在を充実させていたのかもしれません。三島氏ゆかりの大神神社を参詣されたときに、あなたとジェリーが神主や三島夫人といっしょに映っている写真が残っています。

 あなたがたを東京に連れ戻すべく私がふたたび京都におもむいたのは11月18日のことでした。その間にあなたとジェリーは三島夫人にかぎらず、他の知人たちの案内で関西のあちらこちらを訪ねておられたのだと思います。

 東京への帰路は、もちろん別の道を選びました。最初に比叡山、そして東海道をたどるまえに宇治。平等院を訪れてあなたが浮舟に思いをはせたのはあのときだったと思います。銀杏の落葉の黄色が鮮やかでした。名古屋で一泊し、浜名湖を経て久能山、清水、三保の松原などを見てまわりました。とりわけ清水と三保の松原では、「天人五衰」に語られた神社や船舶観測所などを、「ああ、ここなのですね」とあなたが鋭くおっしゃったのを思い出します。

 日本平、箱根、御殿場などを経て、ふたたび高輪のホテルに戻ったのは21日のことでした。2度目の京都滞在に向けて東京を出発したのは12月8日。日本を去る日のことを考えて荷物を整理されていたのだと思います。その間にも玉三郎の演じる「夜叉が池」や宝生能楽堂の「井筒」、国立劇場の「宮島だんまり」と「二人夕霧」など、あなたは日本の伝統芸能の吸収に努められたのでした。

◇初出=『ふらんす』2001年2月号

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著者略歴

  1. 岩崎力(いわさき・つとむ)

    1931年生まれ。フランス文学者、翻訳家、東京外国語大学名誉教授。著書に『ヴァルボワまで 現代文学へのオベリスク』。訳書にマルグリット・ユルスナール『アレクシスあるいは空しい戦いについて』『とどめの一撃』『黒の過程』『流れる水のように』『目を見開いて』『追悼のしおり〈世界の迷路 Ⅰ〉』、クロード・シモン『歴史』、フィリップ・ソレルス『公園』『ドラマ』『黄金の百合』『ゆるぎなき心』、マルセル・ブルースト『楽しみと日々』、ヴァレリー・ラルボー『罰せられざる悪徳・読書』『幼なごころ』『A・O・バルナブース全集』ほか多数。

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