第3回 〈Petite Plaisance〉を訪れる②
ジェリー・ウィルソンはアメリカ南部アーカンソー州出身の青年で、当時30歳をすこしこえたばかりでした。パリに8年住んだことがあり、流暢なフランス語を話しました。私にはそれがとても嬉しかったのを思い出します。わずか5日間とはいえ、あなたをお訪ねする前に滞在したニューヨークでは、英語の会話が苦手なために心が萎縮していたからです。道をたずねたり食事を注文したりするのが関の山で、考えたり感じたりしたことを自由に表現するなどということはとてもできず、窓のない狭い部屋にとじこめられたような気分でした。フランス語が使えるというだけで、ジェリーの運転する車の狭い空間が一挙に押し広げられたような感じでした。
ジェリーがあなたと知り合ったのは、フランスのあるテレビ局の取材スタッフとしてPetite Plaisanceを訪ねたときでした。1979年5月のことといいますから、グレース・フリックの存命中だったわけです。同じ南部の出身であるグレースは最初から彼に親近感をおぼえていたようです。日記にも〈gentil garçon〉(思いやりのある優しい若者)と記していたとか。もともとグレースは温和な人とはいいがたく、とくに未知の人やさほど親しくない人にはむしろきびしかったといいますから、ジェリーにたいするこの反応は例外的だったのにちがいありません。ことにそのころには彼女の病状も相当に重篤で、たえず激痛におそわれていたそうですから、なおのこと例外的といわなければならないようです。彼女が世を去ったのはその年の秋11月18日のことでした。彼女の没後、あなたは「旅の伴侶」としてジェリーを招きますが、あらかじめグレースの同意も得てあったような感じなのだろうと思います。なにはともあれ私がご自宅を訪ねたときには、ジェリーがPetite Plaisanceに住むようになって、まだいくばくの時も経っていなかったわけです。あなたがた二人にとってそれは「牧歌的時代」だったように思われます。というのも、ほぼ5年後ジェリーはエイズのために生命を奪われるのですが、とりわけ最後の2年間はあなたをさんざん悩ませ苦しめることになるからです。しかしその点については、あとで詳しく振り返ることにします。バンゴア空港まで迎えに来てくれたときのジェリーは、私にとってとても愛想のよい、繊細な若者でした。
あなたの住む島がMonts Désertsつまり「無人の山」と名づけられたのは17世紀初頭のことでした。発見者・命名者はサミュエル・ド・シャンプランSamuel de Champlainといい、1570年ごろ、フランス西部、大西洋に面する港町ブルアージュに生まれた人でした。代々船乗りの家系で、新大陸とくにニューイングランドの北、当時はノヴァ・スコーシアNova Scotiaと呼ばれた一帯とフランスのあいだを何度も往復しながら、のちにケベックとなる土地に居をかまえて、植民地カナダ建設に誰よりも大きく貢献した探検家でした。
マチュー・ガレーによる長大なインタビュー『目を見開いて』のなかであなた自身が語っていることですが、シャンプランがこの島に上陸したことは一度もなく、船の上から眺めただけとのこと。彼の目には、インディアンの集落はおろか、人影ひとつ映らなかったのにちがいありません。たしかに海上からこの島を眺めれば、さほど高くない山々の連なりにしか見えなかったでしょう。海岸線の多くが小さなフィヨルドとなって陸地に切り込んでおり、険しい断崖も数多く目につきますから、「無人の山」と名づけるのはほとんど素朴といってもいい自然な発想だったでしょう。英語ではMount Desert Island[マウント・デザート島]というようですが、あなたがシャンプランの命名通りフランス語でîle des Monts Déserts[モン・デゼール島]と呼ぶほうが好ましいとおっしゃるのは当然だと思います。この島には山が7つほどあり、複数で呼ぶほうが島の実形に近いからです。
あなたがまるで絶望の孤島にかくれ住んでいるかのように思われた時期があったのは、ひとつにはこの島の名前のせいかもしれません。この名前から浮かんでくるのは、いかにも荒涼とした孤島のイメージだからです。しかし実は名前とは裏腹に、この島はボストンやニューヨークやフィラデルフィアの富豪たちが、広大豪奢な別送で夏をすごす避暑地でもあります。ロックフェラー一族やフォード家の面々など、そんなふうになったのは19世紀の末ごろからのようですが、最初は船以外に交通手段がなく、島内の移動にも馬を使うしかなかったとか、今では島自体が一本の橋で大陸と結ばれています。
真冬にはマイナス30ないしは40度きびしい寒気におそわれる島なので、秋の訪れも早く、まだ10月初旬だというのに周囲の森はみごとに紅葉しておりました。比較的低空を飛ぶ小型機からの眺めは見渡すかぎり紅葉した森また森で、目も綾な錦織の上をすべるような感じでした。バンゴアからモン・デゼール島への道も、ほとんど森の中だったように記憶します。小さなパーキングエリアに車を停め、ジェリーが自動販売機で缶ビールを買ってのどをうるおしたのにはちょっとおどろきましたが、1時間走ってもすれちがう車は2、3台というのどかな平坦な道路では、気にかけるほどのことではなかったのかもしれません。私もお相伴にあずかったのはもちろんです。左右の森もすっかり紅葉しており、常緑樹の緑と黄や赤の葉むれがまじりあって、初秋の陽光に輝いていました。
1時間ちょっと走ったころ、ジェリーが小さな橋の上で車を停めました。「この橋の先からが島です」。見るとそこは海とはいえ幅50メートルほどの川のように狭まっており、言わなければふつうの橋だと思って通りすぎてしまいそうでした。地図でみると、そのあたりはMount Desert Narrowsと呼ばれる峡江なのでした。
西も東もわからない新しい土地を、人の運転する車で運ばれてきたので、あなたの住む町――Northeast Harbor――が島のなかのどのあたりにあるのか見当もつきませんでしたが、島に入って10分ほど走ったころ、広いプラタナスの並木道で車が停まりました。「着きましたよ」とジェリー。見ると道の左側に写真で見覚えのあるPetite Plaisanceが建っていました。木造の2階建、コテージ風の建物です。
玄関の小さな階段までの通路には赤レンガが敷きつめられており、その通路の右の芝生にはPetite Plaisanceという文字をきれいに抜いた鉄板の門標が低く植え込まれていました。
玄関の物音と愛犬のゾエを呼ぶジェリーの声が聞こえたらしく、あなたが廊下に姿をあらわしました。あのなつかしい笑顔で手を差し伸べながら、Vous avez été courageux de venir jusuqu’ici.と歓迎の言葉をおっしゃって下さいました。直訳すれば「ここまで足を運ぶとは勇気がありましたね」ということになりますが、ようするに遠来の客をねぎらう言葉だったのだと思います。今の今までタイプに向かっていたという感じでした。
あなたはビーグル犬がお好きだったようで、さまざまな時期の写真でも、よく犬を膝にのせておられました。ゾエという名前をきくとラルボーのエッセー「女名前について」を思い出します。さまざまな女名前をめぐる実に気のきいた文章なのですが、ゾエについても書かれていて、「なんという名前だろう!」と述べています。ギリシア語で「生命」を意味する言葉なのです。
庭の2本の木のあいだに10メートルほどの針金を張り、犬の運動場が作られていました。大きめの環のついた紐がその針金から垂らしてあり、ゾエは首輪につながれても10メートルの地面を行ったり来たりできるのでした。紐が長いので円を描きながら走ることもできるようでした。犬への思いやりにあふれた仕掛でした。
案内された部屋は玄関の真上に当たる二階の広い部屋でした。一階はサロン、書斎、食堂、台所など、寝室は全て二階なのですが、いわゆるchambre d’amis(来客用の部屋)もいくつかあるようでした。
一階の書斎はもちろんサロンも玄関ホールも壁面は本棚で覆いつくされていましたが、案内された部屋の壁も本で埋まっておりました。入ってすぐ左の壁際だったと思いますが、古い造りのライティング・ビュローがおかれており200枚ほどのタイプ原稿がのせてありました。そして寝台横のナイト・テーブルにはガリマール社から刊行されたばかりの『姉アンナ・・・』。原稿のほうのタイトルはUn homme obscurすなわち『無名の男』。いずれものちに私が邦訳する栄誉に浴した作品ですが、それがアンナやナタナエルと私との最初の出会いでした。
着いたのがお昼近くだったので、ジェリーが用意してくれたハムとチーズの軽い食事のあと、サロンに場所を移してお話をつづけました。
「日本旅行を諦められたのではないでしょうね」――出発直前の手紙のやりとりからずっと気にかかっていたことをお尋ねしました。
「もちろん諦めてはいません。来年はかならず行きます。そのためにこれまでずいぶん沢山の本も読みましたし、2年前から日本語の勉強もしているんですよ。これまで漢字を200ぐらい覚えたかしら。それにしても日本語はむずかしい……」――そう言いながらあなたは一冊のノートを見せて下さいました。漢字をおぼえるためのノートでした。ページを3つの縦の欄に分け、左端に漢字、次に音と訓、右端に意味が書きこまれていました。78際という年齢を考えれば、それは畏敬に値する意欲だったといわなくてはなりません。8歳でラテン語、10歳でギリシア語を習ったあなたは、その後も英語、イタリア語、ドイツ語、現代ギリシア語などを次々に習得されたわけなので、日本語ももうひとつの外国語に過ぎないという感覚ではじめられたのかもしれません。結局ものにならなかったとはいえ、驚くべきことでした。
話題はごく自然に日本の文学や芸能にもおよびました。能、歌舞伎、文楽……俳句、芭蕉、源氏物語、義経、弁慶……小林多喜二の名前があなたの口からとび出したのには驚きました。『蟹工船』の描写の勁(つよ)さを評価しているとおっしゃいましたが、人間の悲惨から目をそらさないあなたにとって、多喜二の描く世界が日本文学の中でも際立った勁さをもつものに見えたのだと思います。秋成の『雨月物語』も好きな作品で、なかでも「菊花の契り」は人間同士の忠実さの表現としてすばらしいともおっしゃっていました。『黒の過程』のゼノンと修道院長を結ぶ信頼と友情を描いたあなたに、いかにもふさわしい感想として伺いました。(つづく)
◇初出=『ふらんす』2000年6月号