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岩崎力「敬虔な思い出たち マルグリット・ユルスナール」

第9回 芭蕉の跡を求めて

 ほぼ3か月におよぶ日本滞在中、あなたはさまざまな土地に足を運ばれました。仙台、平泉、山形、河口湖、中津川、犬山、名古屋、伊勢、伊賀上野、宇治、京都、奈良、大阪、広島……京都には二度にわけて計1か月以上滞在なさいましたが、のちに述べるように京都までお伴したあと私は東京へ戻りましたから、他の人たち(たとえば三島夫人)といっしょに、さらに他の土地もお訪ねになったと思います。

 行き先や滞在地を選ぶうえで、3つの決定要因があったと思います。芭蕉、源氏物語、三島由紀夫です。

 なかでも最初の国内旅行となった東北への旅は、まさしく芭蕉の跡を訪ねる「おくのほそ道への旅」でした。ちょうど一年前Petite Plaisanceをお訪ねしたときから、あなたが芭蕉の生涯と作品に強い関心を持っておられることは私にも十分に分かっておりましたので、平泉をめざす北への旅を私のほうから提案したのでした。

 あの年は私の父の17回忌に当たっており、鶴岡にあるわが家の菩提寺で身内だけのささやかな法事を営むことになっておりました。私にとっては十数年ぶりの帰郷でした。10月16日、おふたりより一足先に東京を発って酒田に向かい、妹の家で一泊、翌 17日の昼に法事をすませ、午後の列車で仙台へまいりました。夕刻、仙台のホテルで落ち合う手はずになっていたのです。

 あなたとジェリーにとっては、はじめておふたりだけで日本国内を旅行する機会でした。上野から仙台までの乗車券(東北新幹線は 当時まだ上野始発でした)、ホテルの予約などは、もちろんあらかじめ手配してありましたが、無事に仙台までたどり着けるかどうか、内心すこし心配でした。しかしそんな心配をするのは、おふたりが大の旅行家であるのを忘れることにほかなりませんでした。事実、仙台駅にほど近いホテルで無事に落ち合うことができたばかりか、おふたりは仙台に着くとすぐ松島まで足をのばし、瑞巌寺にも参詣しておられたのでした。芭蕉自身、深川出立の日を叙した冒頭の文章で「もも引の破をつづり、笠の緒付かえて、三里に灸すうるより松島の月先(まず)心にかかりて」と述べているのですから、あなたがまず第一に松島をめざしたのは当然のことでした。松島の景観は、しかし、あなたを失望させたようです。私自身はじめて松島を訪れたとき、島々のたたずまいや松の枝ぶりには感じ入りながら、湾の南側でしょうか、工業地帯の巨大な煙突が数本、水平線上に突き立っているのにはがっかりした覚えがあり、あなたの失望もよく理解できました。遺跡にほどこされた下手な修復さえ「遺跡を傷めるもの」とお考えになるあなたですから、あれらの煙突とそこから吐き出される煙は許しがたいものと感じられたにちがいありません。これにたいして瑞巌寺のほうは、強い印象をのこしたように思います。あの旅から東京に戻って1週間後、10月26日にあなたは東京日仏学院で「空間の旅・時間の旅」と題する講演をなさいましたが(それが日本でなさった唯一の講演でした)。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」ではじまる『おくのほそ道』の有名な冒頭の文章の引用によって話しはじめられたあなたは、この古刹にも言及され、次のように述べられました―—「先日私は彼の足跡をたずねて瑞巌寺を訪れました。有名な松島に近いそのお寺にお参りしたのは、忘れがたい夕暮れどきでした。境内の巨大な杉の木立は、おそらく芭蕉の時代にも、いまにくらべてさほど丈が低くはなかったにちがいありません」。瑞巌寺の開山は慈覚大師円仁と伝えられます。9世紀の人ですから、円仁と芭蕉をへだてるのは750年、芭蕉の旅は1689年のことですから、あなたの来日とのへだたりは293年、杉の木立の丈への言及は、それらの時の流れに思いを馳せてのことだったろうと思います。

 遺著として刊行された『牢獄巡回』では、この講演が二つの文章に分割され、『おくのほそ道』からの引用で始まる冒頭の部分は「旅上の芭蕉」という題で巻頭に、それにつづく講演の本体は、日仏学院のときと同じく「空間の旅・時間の旅」という題で章番号なしに巻末に収められています。その直前におかれた14番目の文章は編者による「未完」という言葉で終わっており、文字通り遺著であることがわかりますが、「旅上の芭蕉」も刊行のために手が加えられており、瑞巌寺に関するくだりは削除されています。私としてはすこし残念に思いますが、こと芭蕉に関しては、のちに京都郊外の散策のさいに立ち寄った落柿舎のことや、尿前の関のことなども語られていて、それなりのまとまりを見せています。

 一夜明けて18日、私たちはレンタカーで平泉をめざしました。かなりの距離がありますし、中尊寺の見学に相当な時間がかかることを考え、毛越寺も訪ねてみたかったので、仙台の北の泉インターから高速道路に入りました。機能一点張りの高速道の風景をあなたが好まないことはよくわかっていましたが、やむをえんませんでした。

 中尊寺の参詣は、ふつう平泉の町に近い南の入口から参道をたどるのですが、爪先上がりとはいえかなり長い上り坂ですから、あなたにとって負担が大きすぎると考え、境内の頂きというか、金色堂よりさらに高く登ったあたりの駐車場まで車で行きました。そこからなら歩くにしても距離は短く、金色堂にせよ宝物殿にせよ、比較的楽に見てまわることができました。鞘堂もふくめた金色堂全体の解体修理が完了してまだそれほど歳月がたっていませんでした。藤原三代のための須弥壇も、まるで昨日完成したばかりのように、黄金の華麗な輝きを放っていました。全体がもっとくすんでいて、流れ去った時間の厚みを感じさせるほうが、あなたのお好みにあっていただろうと思います。それにあの人込みと、拡声器でたえまなく流される解説! 京都などでもしばしば経験することですが、騒々しいというしかない声で「お静かにご鑑賞ください」などとがなりたてるのですから、たまったものではありません。有名な観光地では避けがたいこととはいえ、「立ち止まらないないでください!」という声も「静かな鑑賞」の妨げ以外のなにものでもありません。にもかかわらず清衡・秀衡・泰衡の棺をおさめた須弥壇の造作のみごとさは、やはり目を見張らせるものでした。拡声器の声の矛盾とばかばかしさが伝わらなかったのは幸いというべきで(騒々しさはたえがたかったにちがいありませんが)、あなたが最前列にじっと立ちつくしておられました。

 毛越寺の庭園は反対に静まり返っていました。当時は再建された堂宇の数もすくなく、池を中心とする庭の遺構だけが平安の昔を偲ばせておりました。境内の一隅に芭蕉の句碑が建っています。あの有名な「夏草や…」の句を刻んだものです。古い字体の筆跡で、誰の書なのかはわかりませんでしたが、あまりにも有名な句ですから、読み取るのにまったく問題はありませんでした。Les herbes de l’été…と私が訳しかけましたら、にっこりと笑みを浮かべてあなたがすらすらと後をつづけました。――Voici tout ce qui reste / Des rêves de guerriers morts.「旅上の芭蕉」のなかでも、あなたはフランス語に訳されたこの句を引用したあと、この17世紀の詩人について、つぎのように述べておられます。「エッセーのひとつに『風雨に晒された骸骨の思い出』〔野ざらし紀行〕という表題をあたえるこの漂泊の人が旅に出るのは、知識を身につけるためや感動をおぼえるためというより、耐え忍ぶためなのです。忍耐はまことに日本的な特性であり、ときにはマゾヒズムにまで押し詰められることさえありますが、芭蕉における感動と知識は出来事や偶発的な小事件へのこのような服従からこそうまれるのです」。その例としてあなたは尿前の関の句「蚤虱馬の尿(しと)する枕もと」や、「市振」のくだり(今日は親しらず子しらず、犬もどり、駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寝(いね)たるに、一間隔て面(おもて)の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老いたるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成(なり)し)をあげながら「老人はもしかしたら苛立っていたのかもしれないし、あるいはまた骸骨に似た痩身ながら、欲望に駆られていたのかもしれない」と付け加えておられます。「野ざらし紀行」をエッセーと呼ぶのは適切とはいえませんし、その表題が「風雨に晒された骸骨の思い出」にかわってしまうのも、翻訳についていろいろとものを思わせるところですが、すぐ後の「一家に遊女もねたり萩と月」につながる情景でもあります。芭蕉へのあなたの親炙ぶりをうかがわせるくだりです。

 18日の夜は鳴子温泉に泊まりました。築館で横道に入り、鳴子に向かったのでしたが、芭蕉のころほどではないにせよ「細道」に入った途端のあなたの目の輝きがとても印象的でした。温泉郷によくある和風の旅館でしたが、夜中に暖房が切られたせいか、朝起きてみると、あなたは喉を傷めておられました。熱があるというほどではありませんでしたが、声がかすれ気味で痛みもあるようでした。尿前の関跡は鳴子のすぐそばですし、難儀な山越えをして出羽の国に入ったあとも、尾花沢や大石田、とりわけ芭蕉が人に勧められて回り道もいとわずに訪れ、「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句を詠んだ立石寺など、せっかくすぐそばを通るわけなので立ち寄ってみたい場所が多かったのですが、ジェリーが医者に診てもらわなければと強硬に主張したので、山形まで直行することにしました。私の故郷の酒田や鶴岡もそこから北へさほど遠くない象潟や、鶴岡の郊外といっていい羽黒山も「おくのほそ道」と縁の深い場所なので、時間があればぜひ案内したかったのですが、それもかないませんでした。

 山形の繁華街で耳鼻咽喉科の診療所をみつけ、飛び入りで診察してもらいました。軽い炎症で心配はないけれども、まっすぐ東京へ帰るほうがよいだろうという医師の意見でした。立石寺はほんとうにすぐ近くなので残念でしたが、考えてみれば急峻な「山寺」ですから、たとえ立ち寄ったとしても麓から眺めるだけだったろうと思います。蔵王を越えて宮城県側に出、ふたたび高速道路を走りました。その日は無理を避けて、早めに宿に入ることにし、郡山で一泊しました。20日、東京へ直行しましたが、地図を眺めていたあなたが、日光が近いのですねとおっしゃいました。あなた自身、素通りするのを残念がっておられましたが、にべもないジェリーの一言であっさり諦めたのでした。素直な少女という感じでした。Grande dame et petite fille[偉大なる婦人にして少女]という言葉がふと私の頭に浮かんだのを思い出します。

◇初出=『ふらんす』2000年12月号

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著者略歴

  1. 岩崎力(いわさき・つとむ)

    1931年生まれ。フランス文学者、翻訳家、東京外国語大学名誉教授。著書に『ヴァルボワまで 現代文学へのオベリスク』。訳書にマルグリット・ユルスナール『アレクシスあるいは空しい戦いについて』『とどめの一撃』『黒の過程』『流れる水のように』『目を見開いて』『追悼のしおり〈世界の迷路 Ⅰ〉』、クロード・シモン『歴史』、フィリップ・ソレルス『公園』『ドラマ』『黄金の百合』『ゆるぎなき心』、マルセル・ブルースト『楽しみと日々』、ヴァレリー・ラルボー『罰せられざる悪徳・読書』『幼なごころ』『A・O・バルナブース全集』ほか多数。

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