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「昭和の鉄道少年ものがたり」栗原景

第10回 一人旅のはじまり──山手線を踏破

はじめてひとりで電車に乗る

 1980(昭和55)年11月30日、朝6時30分。一人で中野の自宅を出た。小学3年生、9歳の一人旅の始まりだ。国鉄が展開する「いい旅チャレンジ20,000km」に参加するため、山手線(品川〜田端)を踏破(乗車)する。山手線は環状運転をしているが、品川〜田端間が正式な区間で、田端〜東京間は東北本線に、東京〜品川間は東海道本線に乗り入れる形となっている。

 まずは中野駅から国鉄中央線快速電車に乗って東京駅へ向かう。オレンジバーミリオンに彩られた元祖国電、101系電車だ。新型の省エネ電車201系もすでにデビューしていたが、まだ試作編成の1本だけで、出会ったことはなかった。


中野駅に到着する101系による中央線特別快速。運転席からの視界が良すぎて運転士が恐怖を感じることもあったという。1981年撮影

東京近郊区間のルールを活用

 当時、東京駅までは大人運賃で150円、子供は70円だった。東京駅で一旦改札口を出て、隣の神田までの初乗り運賃、子供50円の切符を買い直して改札口に入る。これで、神田まで一駅乗るのではなく、反対方向の有楽町方面に向かって、品川から渋谷、新宿、池袋、田端と回って神田へ向かうのだ。

 不正乗車ではない。首都圏には「東京近郊区間」という特別なエリアがある。このエリア内だけで利用する場合は、どのルートで乗車するかにかかわらず、切符は必ず最短経路で購入できる。東京など大都市に多くの路線があって、いちいちどのルートに乗車するかを指定して乗車券を販売するのは煩雑だからだ。例えば新宿駅から上野駅まで行く場合、最短ルートは「新宿→御茶ノ水→秋葉原→上野」の10.2kmだが、速いのは神田乗り換えの11.3km、乗り換えがなく楽なのは山手線外回りの13.5km。いずれのルートで乗る場合も、運賃は秋葉原経由の10.2kmで計算される。当時は150円、2026年現在は253円(IC運賃)だ。

 だから、東京駅から初乗り運賃で神田までの乗車券を購入しても、山手線で反対回りに品川、新宿、田端とぐるっと回って神田まで行くこともできる。ただし、同じ駅を二度通ってはいけない。

 

旅気分を盛り上げるため東海道本線に乗車

 東京駅から、山手線の本来の始発駅である品川駅へ向かう。

 山手線の電車で行ってもよかったが、あえて、東海道本線の伊東行き普通列車に乗車した。山手線は、中央線快速電車と同じロングシートの通勤電車。せっかく初めての一人旅なのだから、少しぐらい旅の気分の出る電車に乗りたかった。湘南色の113系、グリーン車を2両連結した15両編成だ。

 当時東海道本線の普通列車は、すべて4人掛けの向かい合わせのボックスシートを備えた「セミクロスシート」だった。いつも野尻湖に行くときに乗る急行列車とよく似たボックスシートだ。一人旅に出たんだ、という高揚感に包まれる。とはいえ、品川まではわずか9分。あっという間に着いてしまった。

 

一眼レフカメラで駅員に証明写真を撮ってもらう

 いよいよ、「いい旅チャレンジ20,000km」のチャレンジが始まる。だが、すぐに電車に乗るわけにはいかない。「いい旅チャレンジ20,000km」では、始発駅と終着駅で駅名標と自分が一緒に写った証明写真を撮る必要がある。僕は一人旅だから、誰かに写真を撮ってもらわなくてはならない。カメラは父親から借りたミノルタの一眼レフ、STR101を持っている。小学3年生には不釣り合いな、重たいカメラだった。

 当時は、今のように写真が一般的な時代ではなかった。フィルムカメラに「自撮り」なんて概念はなかったし、誰かにシャッターを切ってもらわなくてはならない。ホームの駅員に「駅名標と一緒に写真を撮ってください」とお願いする。かなり勇気が必要だった。

 それでも声をかけられたのは、僕の実家が喫茶店で、お客さんのおじさんと話す機会がたくさんあったからだろう。「いい旅チャレンジ20,000kmをやっています」と言うと、駅員のおじさんは快く写真を撮ってくれた。

 当時の僕は背が低く、クラスでは前から2番目だった。普通に撮ったのでは駅名標に背が届かないかもしれないと、毎回背伸びをして写真を撮ってもらった記憶がある。残念ながら、いろいろなことがあって、その頃の写真は今ほとんど残っていない。 

 

都会の象徴だった103系高運転台車

 7時50分頃、品川駅から山手線外回り電車に乗車した。「うぐいす色」と呼ばれる、グリーンの103系電車。中央線の101系が、高速運転を想定した設計だったのに対し、103系は山手線のような加減速を繰り返す路線に適した設計で、国鉄最多の3,447両が製造された。山手線の103系は、ATC(列車自動制御装置)に対応した高運転台車だ。高運転台は、乗務員の安全性を向上するために取り入れられたもので、運転台の下にシルバーのラインが入っていた。国鉄関係者からは「間延びした顔」などと不評だったらしいが、山手線や京浜東北線でお馴染みの顔であり、僕にとっては「都心の国電」を象徴する凛々しい顔だった。

「うぐいす色」と呼ばれた山手線の103系ATC対応車。運転台の位置が高くなり運転士の安全性が向上した。1985年頃

 初めてのチャレンジだが、乗ってしまえばいつもの通勤電車だ。車内での記憶はなく、40分ほどであっさり田端駅に到着したらしい。ホームでまた駅員に写真を撮ってもらい、記念すべき「1線区目」の踏破は無事完了した。このあと、神田駅できっぷを買い直し、昼までには自宅に戻ったはずである。中野→東京が70円、東京→神田が50円、神田→中野が70円で、合計190円の旅だった。

 

【昭和の鉄道メモ】

101系と103系

 101系は、1957(昭和32)年に登場した国鉄の通勤電車。当時の最新技術を数多く採用し、「新性能電車」と呼ばれた。片側に4カ所扉があり、オールロングシート+吊革という仕様は現在も引き継がれている。本来はすべての車両にモーターを載せて高速運転を行うはずだったが、電力設備への負担が大きく、本来の性能を発揮できなかった。そこで、1963(昭和38)年に登場して山手線などに導入された103系は、モーターのない車両を最初から用意するなど経済性を重視した設計に変更。国鉄のベストセラー車両となった。

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著者略歴

  1. 栗原 景(くりはら・かげり)

    1971年、東京都生まれ。旅と鉄道、韓国を主なテーマとするフォトライター、ジャーナリスト。著書『東海道新幹線の車窓は、こんなに面白い!』(東洋経済新報社)、『テツ語辞典』(絵:池田邦彦、誠文堂新光社)、『アニメと鉄道ビジネス』(交通新聞社)、『鉄道へぇ~事典』(絵:井上広大・米村知倫、交通新聞社)、『国鉄時代の貨物列車を知ろう――昭和40年代の貨物輸送』(実業之日本社)など多数。

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