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髙山裕二「ポピュリスムの時代」

第7回 巡礼の年

預言者の氾濫

 「新しい福音はすべての人を救うはずだ」「人びとはわれわれが神の御名において語っていることを知るだろう。まさしくわれわれが神の御名において語っているからだ」。それは、過去の預言者のものよりも千倍も奇跡的なものになるだろう――。こう語ったアンファンタンProsper Enfantinは1828年以降、師サン=シモンの教説を宗教にする使命感を覚え、翌年サン=シモン教会を設立、みずから「教父」(père)の座に就いた。

 ジャーナリズムの時代の黎明期、「預言者」が澎湃(ほうはい)として現われた。サン=シモン主義者のアンファンタンもその1人。ほかにもフーリエ、コント、ルルー、ユゴー、ラマルチーヌ、ミシュレなど、多才な面々だった。復古王政とともに古い社会の原理が否定される一方で、新しい社会を支える「共通の信仰」が要請されるなか、それを預言する使命を帯びた作家や集団が現出してきたのだ。サン=シモン主義は「新キリスト教」とも呼ばれたが、今日では「イデオロギー」と理解される他の思想も、当時は宗教の用語を用い、既成宗教に代わって社会を統合する信仰たろうとする意欲を持っていた。

 彼らの言葉を紡ぎ、それに力を与えたのは、拡大するジャーナリズムの世界だった。サン=シモン主義者にとっては、『生産者』Le Producteur (1825-26)、『組織者』L’Organisateur (1829-31)、次いで7月革命後には『グローブ』が、教義を布教する新聞になった。

 新宗教が叢生し、出版活動を通じて勢力を拡大するなか、『未来』の活動も、執筆者の意図はともかく、「新キリスト教」とみなされた。実際、高位聖職者はそれを教会組織への挑戦とみなして不満を露(あらわ)にする一方、地方で購読を禁止する司教もあらわれた。こうして内外の圧力が高まるなか、同紙の経営はまもなく行き詰まる。31年10月末、やむなく休刊を決定。と同時にラムネは、ラコルデールの助言もあって、教皇に問題解決を直訴する決心を固める。そして、『未来』休刊号(11月15日)から6日後、彼はラコルデールとモンタランベールをともなって、ローマへ「自由の巡礼」の旅に出発した。

 工業化時代の社会運動の嚆矢と目される、絹織物工の暴動に揺れるリヨンを通り抜けた後(このときラムネは、貧しい労働者で溢れる都市を見て強い印象を受けたという)、憲兵による厳しい取り調べを強要されることもあったが、南下を続け、12月30日なんとかローマに辿り着いた。

2人の「教皇」

 ラムネらの巡礼の旅は、国際的な事件だった。ナポレオン失脚後、自由化を封じる復古的なウィーン体制下のヨーロッパにあって、『未来』はポーランドやベルギーの解放運動を支持、国を超えたカトリックとリベラルの結集を呼びかけた。これは各国指導者にとっては単なる宗教運動ではなく、反体制的な政治運動だった。ゆえに、教皇がこれを支持すれば、不穏な運動が拡大しかねない。とくに同体制の盟主オーストリアの宰相メッテルニヒは、秘密警察を通じてラムネの書簡を傍受、彼らの些細な行動まで大使に報告させ、教皇側にも伝えたという。そんななかラムネらは、政教分離や教育の自由など『未来』の教義を記した趣意書を教皇に提出するが、教皇側から好ましい返答があるはずもなかった。さらに謁見を申し出たが、願いはなかなか叶わない。ようやく認められたのは翌年の3月、しかもまったく儀礼的なものにとどまった。これに失望したラコルデールは、帰国の途に就いてしまう。

 ラムネはそれでも耐えたが、教皇がポーランドの司教に宛てた公開書簡(6月9日)を見るに及んで、彼の気持ちも切れた。帝政ロシアの支配に対する武装反乱に聖職者が賛同したことを批判、正統な・・・統治への服従を説く内容だった。それはラムネにとって、教会が人民=民衆よりも君主、ロシアの専制の側に立っていることを意味した。翌月、彼は失意のなかローマを離れ、ミュンヘンへと向かった。だが、そこで受け取ったのは教皇の回勅『ミラリ・ボス』Mirari Vos (8月15日)だった。『未来』とその執筆者には言及こそなかったが、明らかにその理念、良心の自由や出版の自由、政教分離を否定する内容だった。ラムネらはその意向に従うかたちで同紙の廃刊を決めざるをえなかった。

 9月末、ラムネは再びラ・シェネーへと戻った。若い数人の弟子たちと共同生活を再開するものの、ラコルデールが狂信的な面があってついていけないと離反、ラムネは孤立を深める。他方、聖職にない若者から新たな支持を受けることなる。例えば、作曲家のフランツ・リストFranz Liszt(1811-86)は、弱冠23歳でラムネに出会うと、ベルリオーズやショパンからとは違った大きな衝撃を受ける。それは雷に打たれたようだったという。ラムネの巡礼の旅はひとりローマに歯向かったように若者の目には映り、それは自らの良心に忠実で、真理に身を捧げる預言者や英雄を思わせるものだった。

 この点で、ユゴーがモンタランベールへの書簡で描いた巡礼の「壮大な光景」は、既成宗教に満足できない青年たちにとって、誇張した表現ではなかっただろう。「あなた方の巡礼の旅では、グレゴリウス16世の面前にラムネ師、つまり2人の教皇が向かい合います。枢機卿の教皇と神に選ばれた教皇、俗的な教皇と霊的な教皇です」(32年3月3日付)。体制の論理に従った「俗的教皇」にその試みを否定された「霊的教皇」は、深い挫折と思索を経て(ドイツではシェリングらロマン派と交流、『批判的討議』Discussions critiques (1841)の断章もこの頃書き始める)、人民=民衆の側に立った叙事詩的共産党宣言、いわばポピュリスムのマニフェストを公表することになる。

◇初出=『ふらんす』2013年10月号

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著者略歴

  1. 髙山裕二(たかやま・ゆうじ)

    1979年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。博士(政治学)。現在、明治大学政治経済学部准教授。専門は政治学・政治思想史。『トクヴィルの憂鬱』(白水社)で渋沢・クローデル賞、サントリー学芸賞を受賞。『社会統合と宗教的なもの』(共編著、白水社)、『共和国か宗教か、それとも』(同)他。訳書に、カス・ミュデ/クリストバル・ロビラ・カルトワッセル『ポピュリズム』(共訳、白水社)他。

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