第6回 「民意」の政治の夜明け
7月革命とジャーナリズム
7月革命の「栄光の3日間」で死亡した市民の数は8百、負傷者は4千近くにのぼった。革命の主体は、経済危機(小麦価格の高騰と実質賃金低下、失業数の増大)に喘ぐパリの民衆(下層職人/小商人等)で、犠牲者名簿のなかに「ブルジョア階級」出身者はごくわずかだったという。
共和政復活の可能性があった。だが水面下で、「叛乱」の着地点を探る動きが活発化、野党政治家を中心にオルレアン公を新国王に擁立する動きが加速した。1830年7月31日、公は法の統治を約束し、市民の王になることを宣言した。そして、国民的人気のあった共和派の指導者ラ・ファイエットをともなって市庁舎のバルコニーに立ち、2人で大げさな抱擁を交わすと、集まった群衆は「オルレアン公万歳!」と叫ぶしかなかった。
憲章(シャルト)は改正され、神授権を否定し国民主権原理を採用、カトリックは国教の地位を失った。また、上院議員の世襲制を廃止、下院を中心とした「議会的君主制」が成立した。ただ、なお厳しい制限選挙制度が敷かれ、大ブルジョアジー、特に「オート・バンク」と呼ばれる金融貴族主導の政治体制が確立した。11月2日に組閣するラフィットは、同体制の確立に尽力した大銀行家だった。
貧しい民衆が主導した革命の果実は、富裕層によって簒奪された。こうして7月革命では、後に顕在化する一部の支配層と大多数の民衆の対立の構図が生まれた。特権的・世襲的存在が否定された社会で、それがやがて問題視されるのは避けられない。そして、それを明るみに出すジャーナリズムが、同時に成長し始めた事実も見逃せない。
実は「栄光の3日間」の前日、勅令が知らされた7月26日月曜、多くの民衆が「聖月曜日」といわれる酒場で仲間と集う習慣に興じるなか、最初に決起したのは新聞編集者(ジャーナリスト)たちだった。ティエールを主筆とする『ナショナル』Le Nationalや『タン』Le Tempsといった野党系新聞は、発行禁止令を無視して印刷され、国民に抵抗を呼びかけた。警察は即座に発行停止を命じ、印刷機も破壊したが、反発した植字工に他の労働者が連動、学生も駆けつけて蜂起は一気に拡大した。世論は新聞の意図を超えて揺動し始めたのだ。ティエールは暴動を終息させる側に回っていた。
革命前、『デバ』Le Journal des débatsや『グローブ』Le Globe、『コンスティテュショネル』Le Constitutionnel等、新聞雑誌はポリニャックの反動政策に抵抗するかたちで確実に勢力を拡大してきた。また、大小の読書クラブ(キャビネ・ド・レクチュール)(新聞が読める貸本屋)の数が激増し、民衆が新聞を読む場が飛躍的に増加した。このとき、ジャーナリズムが政治社会を動かす時代が到来したと言えるが、それは逆に、新聞も完全には操作しえない「民意」に左右される時代の到来を告げてもいた。
『未来』創刊
1830年9月、ラムネはラ・シェネーを離れパリに向かった。そして彼も、新しい新聞『未来(アヴニール)』L’Avenirをジェルベらと共に創刊した。これには、後に政治家となるモンタランベール子爵Charles de Montalembert (1810-70)のような青年が参加を志願し、パリ一有名な説教師となるラコルデールHenri Lacordaire (1802-61) も主要執筆者として加わった。創刊号は10月16日、一面には「神と自由 Dieu et la Liberté!」と掲げられた。
ジャーナリズムの時代が到来していた。それは定期刊行物が同人誌のような狭いサークルで回覧されるものではなく、より広い読者を獲得することを目指し、逆に読者が得られない場合は廃刊することを意味した。『未来』の年間購読料80フランは当時日刊紙の平均で、予約購読3千部は、老舗の政治新聞『コンスティテュショネル』が3千5百部を超えなかったことを考えれば、それほど少なくなかった。
ラムネは、宗教あるいは「共通の信念」と自由の調和を改めて強調するとともに、『未来』の「教義」を次の6つに要約した。(1)良心の自由あるいは宗教の自由、(2)教育の自由、(3)出版の自由、(4)結社(アソシアシオン)の自由、(5)選挙権の拡大、(6)中央集権制の廃止、である(12月7日付)。基本的にそれぞれの論点は、これまでの主張の延長だが、大きな変化は人民主権を事実上擁護したことにあった。
ラムネによれば、われわれは「デモクラシー」を免れることはできない。それはあらゆるものが流動的で、あらゆる身分や区別がなくなる、その意味で同質化してゆく歴史的運動を指す。こうして社会が民主化する時代において、政治の選択肢は武力(sabre)か世論(opinion)の統治か、どちらかだという(31年1月27日付)。ただ、フランスの未来は後者にしかない。ゆえに、世論が政府を超えて一つの権力となりうるような媒体が必要だと彼は説いた(30年12月7日付)。
他方、平等化は個人の自由・独立とともに孤立(化)を惹起するが、これを放っておけば共和政はすぐ専制に転化する。そこで、この時代に不可欠な新しい自由が結社(アソシアシオン)の自由であり、この自由の実践をを通して「社会」が復権されなければならないとも、元祖保守主義者は主張した。
政府側は、こうした動きが革命の継続につながることを警戒した。一方、ローマでは教皇が崩御し、2ヵ月続いた空位期間の沈黙は『未来』にとって一応有利に働くが、グレゴリウス16世Grégoire XVIが教皇位に就くと、イタリアから不都合な噂が流され、聖職者のあいだで反ラムネ論争が加熱した。ある神父は、人民主権論は結果的に教会体制を破壊すると主張、ラムネは紙上で反論した。
論争が激化するなか、ラムネは教皇の判断を直接仰ぐ決心をする。2つの聖性のねじれを解消する時がきた。
◇初出=『ふらんす』2013年9月号