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髙山裕二「ポピュリスムの時代」

第3回 精神的権力の再建

「新しいボシュエ」の登場

 『宗教に関する無関心についての試論』(以下、『宗教無関心論』)の第1巻は、1817年12月に刊行されると、2ヵ月で初版1500部を完売、1年で1万3000から8000部が売れた。そしてラムネは、フランス史上もっとも雄弁に護教論を唱えたボシュエ、あるいはパスカルに並び称されるまでになった。

 『宗教無関心論』が成功した理由は、大雑把に言えば、3つある。第1は、同じく世紀最大の護教論と称されるシャトーブリアンFrançois-René de Chateaubriandの『キリスト教精髄』Génie du christianisme (1802年)の成功以来、信仰復興の機運が高まっていたこと。第2は、ナポレオン失脚後の復古王政下にあって、カトリックを公定宗教として正統化する言説を求める王党派が勢力を拡大していたこと。最後に、第3は、なにより雄弁に、そして以前よりは人民の広い層に分かりやすく語ったラムネの言葉の力にあった。

 著書の冒頭、ラムネはこの時代を「もっとも病んだ世紀」と断じ、近代社会の病理の元凶を宗教への無関心に求める。彼によれば、信仰は人間のあらゆる行為や感情の源泉であるがゆえに、それへの無関心は信じる意欲だけでなく人間の感情全般の喪失を惹起する。この種の「麻痺状態の無関心」は異端や狂信、無神論とも異なる新しい現象なのである。なかでも近代哲学は、個人の理性を崇拝し信仰の基礎を掘り崩したと痛烈に論駁される。さらに、聖書を個人の理性で解釈し教義や道徳を遠ざけたとしてプロテスタントを批判したうえで、「共通の信仰」を提示するカトリックを擁護した。

 今やラムネは、当時代表的な護教論者と目されていたシャトーブリアン、ボナルドLouis de Bonald、フレシヌー猊下Mgr. Frayssinousの列に加えられた。そして、シャトーブリアンを中心に他の過激王党派と『保守主義者』Le Conservateur (1818-20)を創刊、教皇至上主義ultramontanisme(世俗的権力に対してローマ教皇の精神的権力の優位・絶対性を主張する立場)の論陣を張った。

 同誌は輝かしい成功を収めたが、これにインスピレーションを受けた青年の一人がユゴーだった。以後、この麒麟児にとって、ラムネはシャトーブリアンとともに頭から離れなくなる。翌年、ユゴーは雑誌『文学的保守主義者』Le Conservateur littéraireを兄と創刊、『宗教無関心論』を称讃した。21年7月末には、パリ滞在中のラムネを実際に尋ねもした。そして、ラムネはユゴーの聴罪司祭となった。


体制批判と深まる孤立

 『宗教無関心論』第2巻が刊行されたのは1820年7月のことである。人間はそれ自体としては無意味な存在だと主張し、個人の理性の無謬(むびゅう)性を徹底して否定する一方、「一般的理性」や「公共の理性」は無謬であると指摘し、「すべての人が信じるもの」に従うべきだと説いた。護教を超え、彼独自の「コモン・センスの哲学」を開陳したのである。第1巻を称讃した宗教家たちは酷評した。たとえば、司教のフレシヌーは、「才能のある男だが、凡庸な神学しか作りえなかった」と嘆いた。

 個人の理性が完全に否定されるとき、人間はいかにして真理に到達しうるのか、その方法や教会の役割はまったく不明で、しかもその哲学・・は超自然的な出来事や神の啓示の独自の意義を否定していると批判されたのだ。体制の正統性を脅かすものとも見なされた。『保守主義者』に代えて、ラムネは『守護者』Le Défenseur(1820 - 1)の編集にボナルドらと加わったが、同誌も廃刊させられた。こうして過激王党派内の分裂、というよりもラムネとその周辺の孤立は深まった。とはいえ、自分の唱えた真理は新たに信仰を求める若者の間に浸透していると彼は信じていた。

 続編『宗教について』De la religion considérée dans ses rapports avec l’ordre civil et politique(1826年)の刊行は、その孤立を決定的なものにした。同書でラムネは、教皇の権威から独立した王権の権威・正統性を完全に否定する。しかも、新しい時代に合ったキリスト教の変革が開始されたとも告げたのだ。これには大きな政治的含意があった。1821年末に発足した過激王党派のヴィレールVillèle政権は、帝政時代のユニヴェルシテ(中央による集権的な教育支配体制)を再編し、教育を主に担ってきた宗教の自治組織を従属させ、王座と祭壇の同盟を押し進めていたのである。ラムネは、こうしたガリカニスムgallicanisme(ローマ教皇から独立したガリア教会の独自の権限を主張する立場)への傾倒を痛烈に批判したのだ。出版の翌月、罰金30フランと著書の差し押さえが命じられた(その前年に不敬罪法が制定されていた)。

 また、宗教・公教育相に就任していたフレシヌーが、ラムネを公然と非難、ガリア教会の原理を擁護した。さらに、このヘルモポリスの司教は、リベラル精神と無宗教の温床として師範学校École Normaleを閉鎖、リベラルで反宗教的な大学講義を中止させた。

 一方、精神的権力の再建という課題は、保守派内だけでなく、新しい社会の信仰を求めるリベラルな青年層にも共有されつつあった。その一人が、後に人類教を創始するオーギュスト・コントで、ラムネも早くから注目していた若き論客だった。コントはラムネから招待されると、深く感動したという。1826年3月2日、二人は出逢った。後にコントは「大いに満足した」と語ったとされるが、ラムネが復古的であることにはやはり不満だった。

 ラムネにとって、あくまでも精神的権力の源泉はローマ教会にあった。最初の旅行で教皇らに歓迎されたことも彼に自信を与えただろう。フレシヌーの外交圧力もあったが、ラムネはローマを信じて対応を静かに待った。

◇初出=『ふらんす』2013年6月号

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著者略歴

  1. 髙山裕二(たかやま・ゆうじ)

    1979年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。博士(政治学)。現在、明治大学政治経済学部准教授。専門は政治学・政治思想史。『トクヴィルの憂鬱』(白水社)で渋沢・クローデル賞、サントリー学芸賞を受賞。『社会統合と宗教的なもの』(共編著、白水社)、『共和国か宗教か、それとも』(同)他。訳書に、カス・ミュデ/クリストバル・ロビラ・カルトワッセル『ポピュリズム』(共訳、白水社)他。

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