第2回 レ・ミゼラブルと共に
葬送と民衆
1854年3月1日早朝、パリのペール・ラシェーズ墓地。物々しい警備体制が敷かれるなか、司祭だった一人の男が埋葬されようとしていた。係員が、「十字架を置く必要はありますか」と尋ねる。すると、参列者の1人が「いいえ」と答えた。それが故人の遺志だったからだ。亡骸は貧しい民衆と共に共同墓地に埋葬され、宗教的色彩のいっさいない葬儀は終わった。
葬儀が暴動に発展しないよう、当局はあらゆる措置を講じていた。それでも、墓地に向かうまで葬儀の列に加わろうとする民衆の数は増えてゆき、官憲との間でもみ合いになった。それだけラムネという名は、民衆を鼓舞する独特のオーラを纏(まと)っていたのだろう。それは彼が聖職者としてではなく、一人の民衆として最期を迎えたことと無関係ではない。
3年後の1857年7月17日正午、同墓地に埋葬されたシャンソン作家、ベランジェの葬儀も、当局による厳戒態勢のなか粛々と行なわれた。ラムネの葬儀にも、悪くした脚を引きずりながら駆けつけた「国民詩人」は、死後24時間も経たないうちに埋葬された。それでも、「民衆こそわが詩神」«Le peuple, c’est ma muse.»と言明していたベランジェの「国葬」には、30万以上の民衆が集結したという。
皮肉にも、その死が暴動に発展すると当局によって警戒された人物は生前、レ・ミゼラブル(惨めな人びとles misérables)と共にあり、人民=民衆に訴えた思想家だった。
ただ、30年ほど後(1885年6月1日)、文字通り国葬で送られたヴィクトル・ユゴーの場合は少し事情が異なった。時代は第2帝政から第3共和政に移行していた。帝政下なら、ユゴーの葬儀に200万人もの市民が街路に溢れ出ることはかなわなかっただろう。棺は、ペール・ラシェーズではなく凱旋門を経由してパンテオンに向かった。
ラムネの誕生
ブルターニュ地方の城壁に囲まれた港町、サン=マロの古い商人(ブルジョア)の家に生まれたピエール・ルイ・ロベール・ド・ラムネPierre-Louis Robert de Lamennais(1743年6月10日生)は1775年、当地の役人の娘と結婚した。夫妻は6人の子どもをもうけたが、そのうち2人は歴史にその名を刻んでいる。ジャン=マリーJean-Marie(80年9月8日生)とその2歳下の弟フェリシテFélicité(82年6月19日生)だ。ジャン=マリーは高名な聖職者で、その意志は今も世界中で敬承されている。1817年に彼が創設した「キリスト教教育修士会」Frères de l’instruction chrétienneは現在、日本を含む世界24ヵ国で活動しているとされる。
5歳で母を失ったフェリシテ(愛称フェリー)は、この立派な兄を家庭教師に、9歳頃ラテン語を学び始め、欧米の諸言語を習得したという。幼年期の詳細は分かっていないが、正規の教育を受けることなく、13歳頃から叔父の書斎で本を読み耽ったと伝えられる。この経験は、ラムネの初期思想形成において決定的に重要だった。叔父ソドレは、ルソーを愛し、パスカルを特に好み、ヴォルテール、マルブランシュ、モンテスキューの著作に接していた。ラムネは反宗教的ではなかったが、なかでもルソーに傾倒した。
1804年(22歳)、ラムネは地元のコレージュで算数を教え始めた。彼がいつ、宗教についてどう考え、信仰をもつようになったかは定かではない。だが一説によれば、カトリックをもっとも幾何学的な宗教だと考えるようになったという。同年、初めて聖体拝領を受け(この年、兄が司祭に叙階)、1809年3月16日、自身も聖職に就いた。
その後、同じ地方にあるラ・シェネーの別荘(ラムネの愛した田舎)に移り、神学を身につけた。またこの間、1810年から11年にかけて精神の変調をきたし、神経衰弱に陥った(13年には父親が破産)。この時期、ラムネは他の神父に咎められるほど憂鬱に身を委ねがちだったという。もっとも、その後の人生は、さらに大きく浮き沈みする自身と時代の傾向に苛まれることになるだろう(16年、司祭に叙階される)。
著書の執筆も始め、兄と共著もいくつか出したが、なによりラムネの名を世に知らしめる「デビュー作」となったのは、1817年末に刊行した『宗教に関する無関心についての試論』Essai sur l’indifférence en matière de religion第1巻だった。同書の成功は、30代の一司祭を一躍、宗教界のスターダムに押し上げた。時の教皇レオ12世は、彼を枢機卿としてローマ教皇庁に迎えようとしたと伝えられるほどだ。
小柄で頭が大きく、物静かな風貌だが、「信じる」ことでは妥協しない。ただ、この姿勢がその後、教会関係者とのあいだに軋轢を生むことになる。
1824年6〜9月、最初のローマ旅行の際、教皇はラムネについてこう語ったという。「彼は才能があり、教育も誠意もあるが、完全を愛好する者たちの1人である。彼らを放っておけば、世界を覆しかねない」(Louis Le Guillou, Lamennais, 1969)。このときすでにラムネは、教会を離れ、民衆に寄り添う運命にあったのかもしれない。
◇初出=『ふらんす』2013年5月号