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髙山裕二「ポピュリスムの時代」

第4回 「保守」の革新!

行政の専制に抗して

 「私はちっとも気の毒に思っていませんわ。これはあのブオナパリスト〔ナポレオン派〕たちには、いい見せしめになるでしょうよ!」(西永良成訳)

 これは、ユゴー作『レ・ミゼラブル』(1862年)で、財を成して市長となったマドレーヌことジャン・ヴァルジャンが、私服警官ジャヴェールに逮捕された際、ある老婦人が吐いた台詞である。犯罪歴があると分かるや、掌を返すように市長を非難し始める住民たちに続いて、この老婦人は登場する。

 ところで、彼女は『白旗』Le Drapeau Blanc(白旗はブルボン王朝の象徴)の定期購読者だとされる。1819年6月創刊の同誌は、ラムネも寄稿していた王党派系雑誌だが、若き日のユゴーも購読していたという。彼に限らず、この時期華々しく文壇に登場し、近代フランスを代表することになる詩人たち、たとえばラマルチーヌAlphonse de Lamartine(1790-1869)やヴィニーAlfred de Vigny(1797-1863)は王党派だった。そして、彼ら王党派青年の多くの憧れの存在がシャトーブリアンだったことはよく知られている。シャトーブリアンは各国大使を歴任し、1822年末に外相として政権入りを果たすが、ヴィレールの方針には賛同できず、24年夏突然解任され、それがまた彼の人気を高めることにもなった。

 ナポレオン亡き後、王家は再び中世的・神秘的なオーラを纏(まと)いながら人びとを昂揚させる詩的源泉となった。ユゴーのようなブルジョア出身の青年にとっても、国王は皇帝に代わって社会生活を束ねる権威となるはずだった。

 ところが、王家はヴァチカンの威光のもとで初めて独特の権威を帯びる。裏を返せば、ローマ教会から離れた王権はむき出しの力・・・・・・にすぎない。王党派に属しながら、つねに精神的権力の源泉に立ち戻ろうとするラムネらにはそう映った。彼は『白旗』でフレシヌー宛公開書簡を掲載し、ユニヴェルシテ支配による精神的無秩序を批判。これに対してヴィレール政権は1824年1月、体制批判を強める同誌に圧力をかけ、事実上廃刊に追い込んだ。

 こうして言論弾圧を強める体制に対して、ラムネのように王政に幻滅した過激保守派と自由派(リベロー)(ロワイエ=コラールやコンスタンら)が、図らずも関心を共有することになる。ラムネは、『保守主義者』の論説(1818年10月)で、「行政が専制化する」ことに多大な懸念を示していたが、ロワイエ=コラールも1822年の議会演説で、「粉々になった社会から集権制が生まれた」と主張し、出版の自由の意義を訴えた。


「社会」の復権:尚古的ではなく

 ラムネは、『白旗』の論説(1822年11月)のなかで、こう書いている。

 「かつては、長い経験の産物である賢明な規制が、真に社会的な・・・・・・諸制度とともに、この数多い階級(労働者たちのことである)の秩序を維持し、良き習俗と規則正しさという幸福な習慣を保つのに寄与した。誰も一人で見捨てられるようなことはなかった。誰もが自分たちの存在を保証し指導する責任を負う団体に属していたのだ」(強調引用者)

 この時代に生まれた「保守主義者」は王権をただ擁護し、往時の体制を懐かしんだわけではない。少なくとも、退嬰的な人びとばかりではなかった。彼らは、革命によって「社会が粉々になった」と主張するとともに、解放された諸個人を結びつける「社会」の復権を模索したのである。思い描く社会像の復古的・伝統的なニュアンスは論者によって異なるが、問題となったのは、社会から孤立し、見捨てられた人間だった。

 ボナルドは、『文明社会における政治的・宗教的権力論』Théorie du pouvoir politique et religieux dans la société civile (1796年)で、近代哲学が個人を社会から抽象し「孤立させ」、その結果、人間を利己的にしたと口を極めて非難した。そして、「人間は社会のためだけに存在する」と喝破するのである。

 保守主義者が一様に問題にしたのは、人間の孤立とともに「利己主義」だった。そして、間もなく登場する社会主義者も、この点で関心を共有していた点は注意しておきたい。後に改めて確認するように、彼らは「個人主義」という言葉を発明し批判することになる。

 ラムネも『宗教無関心論』で、「人間を完全な孤立状態に置いた」近代哲学を批判する。そして、「人間は一人では何ものでもなく、何もなしえず、生きることさえできない」と主張し、人間は政治的・社会的存在であると強調した。近代社会の最大の問題が、人間を孤立・・(化)させたことにあるという信念は、その後もラムネに一貫してあるだろう。

 一方、伝統主義者と呼ばれるボナルドのように、一度バラバラになった諸個人を伝統的な共同体のなかに再統合することはラムネにとって問題にならない。それは、望ましいかどうかはともかく困難である。ラムネは、フランス革命を壮年期に迎えたボナルド(1754年生)と違って、甘美な旧体制の時代を生きた経験がなく、むしろ保守されるべき価値がすでに大きく損なわれた時代に幼少期を過ごした。

 同じ保守でも、現状維持はもとより、革命後の現実に衝動的に反発し、昔を憧憬ばかりする尚古的態度とは一線を画し、保存すべき価値を自覚的に選択・・・・・・し、社会統合のために時代の変化に対応しようとする《保守》。ラムネにとって、その役割を担うべきなのは、特定の時代や国の伝統や制度ではなく、それを超えて進化してきた普遍的な精神的権威としてのローマ教会だった。だが、「保守」から提起された歴史的課題に、そもそも教会は応えられただろうか。いずれにせよ、ラムネと時代はいつまでも待ってはいられなかった。そして沈黙は破られることになる。

◇初出=『ふらんす』2013年7月号

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著者略歴

  1. 髙山裕二(たかやま・ゆうじ)

    1979年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。博士(政治学)。現在、明治大学政治経済学部准教授。専門は政治学・政治思想史。『トクヴィルの憂鬱』(白水社)で渋沢・クローデル賞、サントリー学芸賞を受賞。『社会統合と宗教的なもの』(共編著、白水社)、『共和国か宗教か、それとも』(同)他。訳書に、カス・ミュデ/クリストバル・ロビラ・カルトワッセル『ポピュリズム』(共訳、白水社)他。

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