第5回 1830
使命の自覚!
「あの世に行きたい。この世にはほんとうにうんざりしている」
原因不明の高熱、失神、酷い痙攣。1827年7月、ラムネは生死を彷徨っていた。29日、脈がなくなり息が絶え、医師も諦めかけた。だがそのとき、病人は再び息を吹き返した。
度重なる雑誌の廃刊、政権の圧力と教皇の沈黙のために苦悶し、ブルターニュ地方の片田舎ラ・シェネーに暮らしていたラムネだったが、この甦生体験を経て、新たに神の声(召命)を得たと自覚するに至る。そして教育活動、伝導に精力を傾注するようになる。
同年、教皇レオ12世に対してヨーロッパ中から学生を集める大きな大学を設立するよう進言、聖職者養成機関の改革を主張する。また翌年、兄ジャン=マリーや友人ジェルベPhilippe Gerbetと共にマレストロワMalestroit(ブルターニュ地方モルビアン県)に聖ペトロ修道会を設立した。もっとも、ラムネ自身は事を荒立てないためラ・シェネーにとどまるが、そこに多くの若者が集うようになる。後に教会エリートとなる神学生のほか、多くの非聖職者も含まれていた。後年、コレージュ・ド・フランスで文学・言語学を講じるシプリアン・ロベールCyprien Robertやウジェーヌ・ボレEugène Boréなど多才な青年たちだった。
ラムネが修道会と一定の距離を置いて活動した背景には、この間の政権交代と教会の監視強化があった。27年の選挙でヴィレール政権が敗北、28年1月にマルティニャックMartignacの穏健王党派政権が誕生した。だが、宗務相から分離新設された公教育相に就任したヴァティメニルVatimesnilは、前政権で王座と祭壇の同盟のもと黙認されてきた教会の影響力を一掃しようとした。同年6月の勅令ではイエズス会のような非合法的な修道会の神学校設置を厳格化、政権交代はかえって教育の自由を厳しく制限することになった(François Démier, La France de la Restauration (1814-1830), 2012)。
司教たちが国王に抗議文を送りつけると、当惑した政府はローマの権威に縋(すが)った。これを受けてある枢機卿がフランスの全教区に送った回状には、王に従い「共に歩むこと」とあった。これはラムネにとって、「恥ずべきこと(スキャンダル)」にほかならなかった。そして彼は一つの決断をすることになる。『革命の進歩と教会との戦いについて』Des progrès de la révolution et de la guerre contre l’égliseの出版である。本書は28年末に印刷、翌年2月に刊行された。
聖性の転位?
革命前年に刊行された同書に、革命的主張をまだ期待してはならない。君主への無条件な服従を説くフランス教会派(ガリカン)を偶像崇拝だと非難する一方、無条件な自由を説く自由派(リベロー)を個人主義的で反宗教的だと論難する。唯一新しかったのは、この「独断的な」自由主義者を批判しながらも、教育の自由、出版の自由に加えて良心の自由を要求するとともに、必然的に進展するとされる〈リベラル〉と〈カトリック〉の両立を強調した点にある。前年から続くベルギーの独立運動で、両者が共闘した経験は、ラムネの論拠に自信を与えていたことは間違いない。
確かに、同書には他の宗教の自由に言及した箇所もあるが、ここでラムネが擁護するのは基本的にカトリックの自由である。寛容政策はありえても、最終的にはすべての信仰がカトリック化されるはずなのだ。カトリック教こそ普遍的で、真の宗教である。しかし、そこで言われているカトリック、教皇の精神的権力の内実は何か、必ずしも自明ではない。
ラムネの伝導で重視されたのは、いわゆる祈りやお勤めよりも研究で、教皇庁の精神的権威とともにコモン・センスの普及だったとされる。彼にとって、後者のみがローマの判断と調和するものだった。だが、こう言われるとき、精神的権力、言い換えれば《聖なるもの》の源泉はローマ教皇のうちにあるのか万人の感覚のうちにあるのか判然としない。いや、どちらにもあるのだろうが、その場合、カトリックは万人のうちに存するはずの《聖なるもの》一般を指すことにもならないだろうか。
本書刊行の同月、ラムネに一定の理解を示してきた教皇が逝去し、代わって着座したピウス7世は表面上沈黙を守った。そこでラムネは、ある書簡(5月28日)でこう書く。「私は教会のために戦いたいと思った」。今や、取り巻き連中に判断を狂わされている教皇に期待するのではなく、自らが教会のために使命を果たす決意が披瀝(ひれき)されていた。
また政治では、反動的な国王シャルル10世がポリニャックPolignacを首相に強引に任命、極右政権を復活させた(29年8月)。政治腐敗に経済危機が重なり国民の不満が増大するなか、当局は楽観し、国王はと言えば王朝への絶対忠誠を布告した(30年3月2日)。そこでラムネは、(死んだ過去に囚われた)宮廷の暴政より「共和政を好む。なぜなら死より熱を好むからだ」と語る(27日)。デモクラシーの進展は不可避とされ、彼のなかで《聖なるもの》の源泉は人民=民衆(プープル)のほうへ転位しつつあった。体制批判の根拠は明らかに一宗派のものではなくなっていた。
議会で多数を占める穏健派による政権交代の要求を国王は無視、解散を宣言するが、選挙で反体制側に大敗した(30年7月)。憤慨した王は議会の解散と出版の自由の制限を宣言(24日)、するとパリ市民が蜂起、3日の市街戦の末、復古王政は脆くも崩壊した。前日、退位させられるとは思いもしなかった国王はホイスト[カードゲーム、ブリッジの原型。19世紀フランスで流行]に興じていたという。新しい時代の要請に鈍感な尚古主義者の哀れな末路だった。
◇初出=『ふらんす』2013年8月号